三原市内で古い山門を発見。
左右の仁王像は室町時代の作に見える。
参道をかなり進むと古刹あり。
三原市内の三原城が出来る以前からの
場所で隠れキリシタンの文化があるとは
知らなかった。うーむ。
何故か、部分的に「塗抹」されています。
1976年当時と何かの扱いが変わった証左
か。
古代山陽道を北上(東上)する。
仏通寺という古刹の横を通る道。
古代山陽道を北上(東上)する。
仏通寺という古刹の横を通る道。
仏通寺(1397)が建立された遥か以前の7
世紀、律令制の時代、この道が山陽道だ
った。645年の大化の改新により街道
整備と駅馬、駅家の設置が指示された。
整備と駅馬、駅家の設置が指示された。
約30里(当時は1里約540m)、つまり約16
km毎に駅家(うまや)という駅が全国に
置かれ、中央王権への庸調のために
利用された。主として調の物納品は海路
で運搬し、庸という課役は人民に徒歩で
朝廷まで来させた。
置かれ、中央王権への庸調のために
利用された。主として調の物納品は海路
で運搬し、庸という課役は人民に徒歩で
朝廷まで来させた。
各駅家には馬が何疋と指定されて飼育され
ていた。大路20疋、中路10疋、小路5疋と
指定され、主として伝馬による情報伝達に
用いられた。物納品運の荷駄には使わな
い。いち早く中央への情報伝達の為だ。
強制徴用された人々は徒歩で都まで上ら
されたが、駅家などには泊まれない。野宿
を強要された。駅家の施設は朝廷の役人の
みが利用できた。現在の鉄道駅や道の駅
のような人民が寛ぐ場所などは朝廷は
作らない。日本の人民は全て貴族にとって
「物」でしかないのだから。馬でさえ厩
作らない。日本の人民は全て貴族にとって
「物」でしかないのだから。馬でさえ厩
がある。都の殿上人からすると、一般臣
民などは馬以下の扱いだった。
余談だが、徴用された防人には「砥石を
必ず持参せよ」との命令が出されている。
武器たる支給刀剣を自分で研がせる為で
あろう。
日本語の「駅」の機能概念は駅家から
来ている。駅伝は情報伝達の疾走命令
の名残だ。今はスポーツとして成立して
いる。
すでに仏通寺境内。
クマ出没注意の貼り紙があった。
このあたりで目撃されている。
黄緑の線が古代山陽道。
江戸期の近世旧山陽道とは異なる。
三原湾上に三原城が戦国末期に出来てから
は西国海道という城脇を通る道が山陽道
の代わりに多用され、大名行列もそこ
を通った。遠方は海路を利用。
を通った。遠方は海路を利用。
古来、日本の街道は海沿いは難所だらけ
のため、山間部の川沿いを通るルートで
切り拓かれた。
禅寺、仏通寺。
さらに超古代山陽道を上る。
ここからは、上りは本物の登りとなる。
延々と昼なお暗き山間部のくねくね道を
行く。
登り切った古代山陽道最高標高地帯付近
に厳嶋神社がある。
江戸期享保年間の石鳥居あり。
江戸期享保年間の石鳥居あり。
実際に古代山陽道の駅家を通ってみた。
駅家が確認されている三原市高坂町真良
(しんら)から東の次の駅家の葦田までは
約34kmある。
約16kmごとに駅家を置くという規定に
反する。
それゆえ、その中間地点の三原市八幡町
垣内(かいち)もしくは久井(くい)あたりに
名称不明の駅家があった筈だ、とするの
が史家たちの説だ。
現実的に古代山陽道を走ってみると、
眞良から東の道は山間部の超難所であり、
そこを超えて開けた現国道486号(古代
山陽道と重なる)で広島県府中市栗柄町の
駅家葦田までの34kmの区間、何も駅家が
無いとするのは不自然過ぎると感じた。
太宰府から都まで都での労役のために人を
歩かせる為の道路が古代街道だが、この
現三原市内の「駅名不明の駅家」は、やは
り律令制度の決まりの如く、無ければ不自
然だといえる。通常の16kmの伝令区間を
超えて倍の34kmの距離を馬ないし疾走で
情報伝達するというのは、かなり物理的に
も不都合が生じるのではなかろうか。
往時の60里を行かせる事になるからだ。
これは律令制度の決まり事の通り、三原市
八幡町垣内か久井エリアに駅家が存在した
とみるのが妥当かと思う。
古代街道の駅家は、名称さえ確定していな
い駅家も沢山ある。
古文書史料によっては、葦田さえ記載され
ておらず、その東の品治から西の眞良まで
駅家が無いとする書もある。
50kmの区間に全く駅家が存在しないとい
うのはあまりにも非現実的だ。
史料はまだ未発見だが、やはり、規定の
16km毎に駅家が置かれ、葦田と眞良の
間には未発見の駅家があったと考える事
が自然だろう。
今後の学術的な研究を俟つ。