ロケ地のようなレトロ感ある
お店だった。テーブルコン
ディション極上。
街の中に成瀬プロの店「アカデ
ミーZ」があったが、そこも
残念ながら閉店した。
Completely Restored And Intact
Early 20th Century American
Vintage Industrial Chicago Pool
Hall Stationary Seat Spectator
Chair With Folded And Pressed
Steel Footrest
この1900年代初頭のシカゴの
プールホールの観戦椅子は
とてもシックでセンスがいい。
椅子の座面と背もたれは日本
の小中高の教室の椅子のような
木製だ。
こうしたアイアンハイチェアを
復元して作れればなぁと感じる。
建物は新しくなりながらも継続
している日本一古いビリヤード
場は東京杉並のビリヤード山崎
とされている。昭和初めの1926
年頃の開業。
だが、東京千代田区の学士会館
は竣工が1928年(昭和3年)で
現存する建物は文化遺産に指定
されている。
その学士会館の撞球室は現存する
日本最古の状態のまま、コンディ
ションが最良のレベルで保存され
ている。
学士会館撞球室が特別な点は、
それが博物館的な保存ではなく、
現行で撞球競技ができるコンディ
ションを保全している事だ。
そこではアマチュアの四ツ球の
全国大会が開かれたりしている。
ビリヤードテーブルは貴重な
1920年代の様式のままであり、
これは全世界的にも稀有な存在
であるといえる。
なぜこうした事が可能であるのか。
英国、米国、アジア諸国では全く
見られない。
それは、日本には撞球が高尚文化
として根付いていた歴史事実が
ある事と、古い重要建築物を
保存していく姿勢が存在するか
らだ。
これが、天変地異だけでなく人為
でナンチャラ文化革命のような
トンデモ破壊行為の蛮行が実行
されていたら、日本国内の歴史
的な遺跡や建造物は「過去の
不必要な遺物」として完全破壊
されていた事だろう。
中国の文化大革命などでは、
宗教施設や歴史遺産だけでなく
知識人までもが抹殺された。
人類史として絶対にやっては
ならない恐ろしい犯罪的な事だ。
革共同中核派による大山祇神社
の山門放火消失事件も、例え
どんな事を中核派が主張しよう
とも、そうした事は絶対にやっ
てはならないのである。自民党
本部建物放火攻撃と同列と考えて
いるとしたら中核派の底の浅さ
が心底知れるというものだ。
日本にかつて根付いていた撞球
文化のその香りは、とても紳士
的な大切な規範を教えてくれる。
ただ、アメリカンプールが日本
に入って来てからは、元来賭博
専用の玉突きだったプールの
性質により、非常にタチの悪い
バクチ打ち根性の連中と彼らの
日常行動がビリヤード界に蔓延
し始めた。
そしてキャロムという伝統的な
紳士淑女のビリヤードとは異な
る下賤な空気で日本撞球界は満
たされた。
汚染は環境保全で改善できる。
そのためには、まず当事者の
自覚こそが大切になってくる。
バクチ玉などやって喜んで
いるような連中は、撞球文化
を腐敗させるので全員業界から
消滅すべきなのである。
「俺たちの自由じゃないか」
などという自由は存在しない。
違法行為であり、公序良俗に
反する。
良俗ではない悪族たちがやる
悪徳行為は世の中から捨象され
るべきなのである。
歴史記録を読むと、ビリヤードが
屋外から室内競技になって間も
ない1600年代、まだキューでは
ないメイスと呼ばれるオールの
ような物で玉を打っていた時代
に既に賭け玉禁止の警告が文筆家
によって英国では出さている。
(ビリヤードの道具のメイスの
棒部分から分離したキューは、
フランス語で尾の事であり、英語
ではテールとなる。その尾部分の
メイスの棒部分で台上の端の玉を
打つことがルールで認可されたが、
1860年代にはメイスのみを使う
プレーヤーはキューを多用する
プレーヤーに全く勝てなくなり、
ビリヤードの道具はメイスの
ヒレ部分が無くなったキュー=
尾の棒のみが人気となった。
また、19世紀末期には北米で
カラーボールが発明され、
1900年代に入り、ストレート
プール、ワンポケット、ナイン
ボール、エイトボールが発明
され大流行した。しかし、スリー
クッションやスヌーカーは1870
年代までさかのぼる事ができる。
北米でもビリヤードは盛んだった
が、1850年代には英国式の紅白玉
を穴台の穴に落とす様式が主流
だった。まず、台上のゲートが
無くなり、そして穴台の穴が
無くなってキャロムが登場し、
北米では後年の20世紀中ごろから
プールと呼ばれるようになる
ポケットビリヤードが登場した。
ビリヤードの語源は各国の言語
から同時多発的に登場したが、
1340年代から1600年代の間に
屋外ゲームとして定着し、それ
ぞれの国で独自に呼ばれた。
イタリアではbiglia、フランスで
はbilhard、スペインではvirlota、
そして英国ではball-yardで、
この英国式がbilliardのスペル
の始まりとなる。北米には1565年
にフロリダ州セントオーガスティン
のスペイン人家族が北米に持ち
込んだのが米国でのビリヤードの
始まりである。そして1598年、
地球上で初めてbilliardの文字が
誕生した)
1600年代、日本でいうなら江戸
時代。
歴史記録を読むと、英国では賭け
玉の害悪についての警告が既に
文人によって指摘警告されている。
曰く「他人のお金を勝ち取る
という貪欲な欲求が、自分のお
金を失う。それにはあなたは巻き
込まないようにしましょう」と。
プレイヤーはまた、「見知らぬ人」
(つまり、人を騙して金を獲る
賭博師=ハスラー)とのなりゆき
上のギャンブルに対しても警告
されていた。
国によっては、その後、近世時代
にはビリヤードでの賭け事が禁止
された。
現代の日本においても、米国に
おいても、ビリヤードでの賭け玉
は私営賭博であるので違法行為に
なる。
現代日本において、賭け玉は犯罪
なのだ。
犯罪を犯すのは犯罪者なのである。
ちなみに、英国でギャンブル玉の
警告がなされていた江戸時代、
武士が賭け試合などをしたら
切腹とまではいかなくとも、
お役御免で罷免されるし、仕官
の話があったとしても、過去に
賭け試合をした事が判明したら
不採用は即決される。
映画『ラストサムライ』という
ウルトラ陳腐な明治時代にニンジャ
が登場して戦国時代のような甲冑
で明治政府にサムライなる連中
が戦う荒唐無稽ドZ級映画がある。
その中で、模擬試合をする武士
(真田広之)とアメリカ騎兵隊員
(トム・クルーズ)を見ながら、
見物しているサムライたちが
外馬でバクチをするシーンが
ある。
これは絶対にあり得ない。
物を知らなすぎるアメリカ人が
夢想妄想で設えた絵空事の陳腐
なシーンだ。
だが、武士の規範が確立されて
いない武士=野蛮人の人殺しで
あった戦国時代は違った。
乗馬以上のまことの武士はやら
ないが、下士や足軽(江戸期に
は士族に算入)たちは、具足等
のいくさ道具まで質に入れたり
それを賭けたりするほどバクチ
が下々の間では流行ってしまい、
たびたび武家たちが禁止令を
発令している。
だが、世界の歴史を俯瞰するに、
どうやら博打を殊更好むのは
下々のようだ。精神性が。
勤勉である事よりも、一発狙い
であぶく銭を得ようと目論む。
人の金をむしって。
何も生産しない。
生産ではなく、人から奪うので
ある。
やはり健全堅実な人としての
精神ではないと思われる。
勝負の勝ち負けとは、その種目
での力量勝負で雌雄を決する
人間同士の対決の事であり、相手
から金を奪う事を目的とする賭博
は、厳密な意味では勝負とはいえ
ない。
たとえば、武士がいた時代の真剣
立ち合いなどは殺し合いであり、
金などは賭けない。負けたら命
を失う、というものだ。
だが、それは言葉上は命がけ、
命を賭すとはいうが、賭け事では
ない。中心は「雌雄を決する」と
いう事がメインだからだ。
本来、スポーツは、生死を超えた
安全性が確保された上での真っ向
勝負、技術力と知力と体力だけ
での人間同士の対決であるものだ。
得るものは「勝った」という形
にはならない奮闘努力の結果得ら
れる栄誉だけ。
金目当てのバクチなどは、人間
対決の勝負からみると、しょぼ
すぎて「勝負」という言葉さえ
当てはまらない。
金が絡まないところでの対決。
それが本当の真剣勝負だ。
ビリヤードを愛したモーツァルト。
道具はキューではなくメイスで
ある。やがてその柄の部分で端の
玉を処理する方法が多用されて
キューは尾という意味のフランス
語queue が充てられた。それが
後に使用方法も道具も呼び名も
cueという物に発展した。
モーツァルト(1756-1791)の時代、
ビリヤードテーブルはまだゲート
ボールのテーブルだった。ゲート
が消滅するのは1850年代の事だ。
日本の幕末史料にはそのゲート
付きとゲート無し、穴台と穴無し
の図が描かれており、世界史的に
もビリヤード文化の分岐過渡期を
示すものとして、長崎の史料は
大変貴重な物となっている。
人の世は悪党、泥棒が尽きない。
アメリカでも偽ミネソタファッツ
=ルドルフ・ワンデロン(1913-1996)
という卑劣漢がいた。スポーツマン
ではないバクチ打ちなので、プレー
のマナーなどは最悪だった。
映画『ハスラー』(1961)公開以降
にあれは自分がモデルだと勝手に
名乗り出したニューヨークのペテン
師である。
それまではNYファッツと名乗ってい
たが、映画が人気が出るやニック
ネームをミネソタ・ファッツに変更
してそれをネタに金稼ぎをし始めた。
『ハスラー』原作者のウォルター・
テビスは生涯この男が言うのは事実
無根であると主張し続けた。
また、キャラクタは原作小説や映画
作品に出てくる知的なミネソタ・
ファッツとはまるで別物で、口汚い
言葉を吐き、素行も悪い目立ちた
がり屋のバクチ打ち興行行商人だっ
た。
一度も公式大会ではまともに成績を
残していないが、不世出の世界チャン
ピオンだったウイリー・モスコー二
(1913-1993)を終生勝手にライバル
視して悪口雑言の限りを尽くした。
そしてエキジビションでウィリーと
対戦カードを興行師に組ませて対戦
するが、ワンデロンはどの種目の
試合でもウイリーに負け続ける。
その試合中でも口汚い放送禁止
用語でわめき散らし、会場の観客
に喧嘩を吹っかけて「文句あるなら
金を賭けてみろ。俺はこんなに
持っている」と札束をちらつかせて
声高にわめき続ける。
途中ウィリーが試合中だと止めに
入ってもお構いなしで罵詈雑言を
やめない。ウィリーが撞く番に
なっても台の周りをうろうろ歩き
回る。
日本語のウィキは「ミネソタファ
ッツ」について『映画ハスラー』の
項で誤った記載がされており、映画
『ハスラー』はワンデロンがミネ
ソタファッツのモデルであるかの
ように書いているが、それはワン
デロンが勝手に言い出してそれを
ネタに金になるからと触れ回った
事実に踊らされているのであり、
誤認による誤記だ。修正したほう
がよい。
英語版ではワンデロンについては
事実関係が記載されている。
『ハスラー』原作者は死ぬまで
ワンデロンはミネソタファッツ
とは無関係と主張し続けた。
だが、捏造でっち上げの嘘が
事実であるかのように世間では
誤認が定着してしまった。
言ったもん勝ちの卑劣な言動が
まかり通っている。
また、あまりの個人的な誹謗中傷
によってウィリー・モスコー二ら
は裁判まで提訴していたし、ウィ
リーの妻は終生ワンデロンを嫌い
抜いていた。徹底的にただ口汚く
わめきちらして他者をずっと誹謗
中傷し続ける男だったからだ。
そしてそれをネタに金を集める。
しかし、アメリカは興行師の金主
が仕切る国なので、ワンデロンが
どのような形であれプールを広く
人々に知らし広めたとして殿堂入り
させてしまっている。なんたる事か。
試合中のスポーツマンとしての
マナー違反として、相手が撞く
瞬間に言葉を発する事が挙げられる。
これはルールブックにも記載され
ている禁止事項だ。「あ!」とか
「おい!」とかは厳禁だ。
世界チャンピオンになった米国の
アール・ストリックランドも国際
大会の試合中に、彼の癖の独り言
をずっと言い続けていたため、
審判から「黙ってください。でな
いと退場です」と何度か注意され
ている。
USオープンの時には、世界チャン
ピオン高橋邦彦は、対戦後にスト
リックランドの試合中のあまりに
もひどい罵詈雑言を不正行為だと
指摘し、審判団に正式に抗議した
が、審査の結果、抗議は却下され
た。米国の手前味噌の力学が働いた
と思われるが、こうした事はモー
タースポーツでも時々発生して
いる。世界グランプリ最終戦での
原田哲也の二度目の世界チャンピ
オン目前の走りを阻止するために
わざとマシンをぶつけて転倒させ
たイタリアのロリス・カピロッシ
の行為は、本来ならばライセンス
剥奪がふさわしい。
だが、裁定はカピロッシの不正
行為は認められず、カピロッシが
チャンピオンになった。理不尽な
力学が作用していた。
ビリヤードの国際大会ではルール上、
スポーツマンシップにもとる行為
は即退場(その試合だけでなく
大会参加そのものが禁止。会場から
叩き出される)という規則になっ
ている。
プレーでは、玉を入れる気がなく
わざと別玉をセーフティ以外で撞い
たりしたら即退場。穴前残りの
9番や10番の点玉を途中でわざと
撞いて落としてフットに戻させ
たりする行為は即退場案件となる。
だが、スポーツマンではないニセ
ファッツのワンデロンはそうした
類の行為を平気でやっているのが
映像記録にも残されている。
非常に態度が悪質だ。
つまり、ルールも何も無視する
バクチ打ちなのか、スポーツ選手
であるのか、の違いだ。
贋者ファッツの態度は以下の試合を
見てもらえばよく分かるかと。
映画『ハスラー』の中でのミネソタ・
ファッツ(ジャッキー・グレースン)
のキャラクタは静寂の中で新聞を
くまなく読む知的で物静かな紳士
であり、かつ、撞球の腕は抜群だ
った。人的資質のキャラからして
別物であるのに、ただデブだから
とあれは俺を勝手に映画に使った
とそれこそ勝手に言い出して、名前
まで変えて小銭稼ぎをするように
なったのがワンデロンだった。
ナインボールではブレイクナイン
無し、フロックは認めないコール
ショットルールで対戦している。
また、この番組は両者の主張を
公正に収録している。
Minnesota Fats vs Willie Mosconi
Legendary Match
モスコー二先生も穏やかではあり
ません。怒ってます(笑)。
「この対戦を私は長年楽しみに
していた。今回、奴を葬る」
と言ってる。I'll beat him(打ち負
かす) ではない。I'll kill him です。
ひょえ~。殺すというより、始末
する、というニュアンス。要す
るに嘘つき野郎の嘘を粉砕して
やる、という意味ですが、品悪く
訳すならば「ぶっ殺したるわ」
でんがな。
そして、そこらにあったハウスキュー
のシバキューでニセファッツを完全
にいわしてもうた。
正真の世界王者といかさまゴト師の
差は歴然。
映画『道頓堀川』(1982年松竹/
深作欣二監督/原作宮本輝)の
舞台にはいくつか主要な場所が
ある。
・道頓堀、宗右衛門町界隈
・大黒橋
・戎橋
・架空喫茶「リバー」(宗右衛門町)
・架空ビリヤード「紅白」(道頓堀)
・架空小料理「梅の木」(東映裏路地)
やはり、物語の最大の涙と血と
汗の舞台は喫茶「リバー」だ。
その場所は、戎橋から数件目の
宗右衛門町の喫茶「小倉」(小
倉ビル)でロケが行われたが、
店内から外を見た風景はすべて
松竹のスタジオ内に巨大セット
が作られて撮影された。
宗右衛門町の大きなゲート横に
小倉ビルはある。地下1階がレ
ストランで1階部分が喫茶店。
東京での試合に負けた武内政夫
は宗右衛門町の喫茶店リバーに
帰ってくる。
邦彦とまち子を騙して金を詐
取して東京の裏賭け玉大会に
参加した政夫だったが、どの
面下げてどんな心境で親友邦
彦が働く父の店「リバー」に
顔出しをしたのか、それは劇
中では描かれない。
父武内鉄男は、博打打ちの息
子政夫と撞球勝負をするため
に、ユキのビリヤード場に通
い詰めて腕を復活させる特訓
をしていた。そのために流行
っていた喫茶「リバー」は休
業していた。
隣りのたばこ屋のおばちゃん
に政夫は尋ねる。
「ちょっと、おばちゃん!
隣りの店どないなっとんや」
と。
おばちゃんは「知らんなぁ」
と答える。
たぶん一般人。本当にここの
たばこ屋のおばちゃんだろう。
現在の喫茶「リバー」の撮影地。
宗右衛門町のゲートの柱のすぐ
横が小倉ビルだ。
喫茶「リバー」の部分はコンビ
ニになっている。
ここは以前はサンクスだったが、
現在はファミリーマートのよう
だ。
映画『道頓堀川』に出てくる
ビリヤード場は全部で4ヵ所
出てくる。
そのうち2ヵ所は同一と思わ
れるので、厳密には3ヵ所。
DVDのプロデューサー解説に
よると、ビリヤード場はすべ
て松竹のスタジオセットだっ
たとの事だが、どの店もどう
見ても本物の昭和のビリヤー
ド場に見える。映画製作の
大道具さんの仕事は凄いもの
がある。
政夫が大阪一の賭け玉師渡辺
と 勝負する「天王寺ビリヤ
ード」。2台置きの店。
ただ、スタジオセットである
事は政夫がコンクリの階段を
降りて来るときの音がセット
簡易建築の木造階段である音
がしてしまっているのが惜し
い。見た目の時代つけ(クロ
サワに始まる技法で、ルーカ
スやスピルバーグが強く影響
を受けた)などはこれでもか
という程に時代感を出してい
る。
ポケット台は箱台。小台では
なく本式中台の9フィート台だ。
玉田ユキが道頓堀商店街に新規
開店した「ビリヤード紅白」。
現在はこの外側の店舗部分は
簡易宿泊ホテルとなっている。
この「ビリヤード紅白」で政夫
は神戸からの賭け玉師と勝負を
する時にユキと出会い、そして
武内と最終親子対決の決戦をす
る事になる。
小料理「梅の木」の29才のママ
まち子から150万円を詐取した
政夫。その息子をひっとらえよ
うと近所のビリヤードを片っ端
から探しまくっていた武内は、
ここ道頓堀のユキの店に探しに
来て、ユキと15年ぶりに再会する。
店の奥で撞いているのは、本
作品のビリヤード演技指導を
したスリークッションの世界
チャンピオンの小林伸明プロ。
玉を撞き終えた時に「ママ。
勘定してんか」という台詞も
監督から貰っている。
このユキの「ビリヤード紅白」
で、武内は大金詐欺詐取行為
を働いた賭け玉師の息子と勝
負して打ち負かす事を決意す
る。そして、ユキにプレーを
観察してもらい、特訓する。
このユキの店「ビリヤード紅白」
のハウスチョークは例のやつ。
「例のプール」ほどに有名な例の
チョーク。例のというのはプール
だけに(笑
この「ビリヤード紅白」で魂
を賭けた最終親子決戦がはじ
まる。どん底の闇の扉が開か
れたのがこの因縁のユキの店
だったのである。
到底これがセットとは思えな
い店内。
だが、時代つけをやり過ぎの
感もある。
4台店。すべてポケット台はガ
リオン。
昭和42年(1967年)関西ビリ
ヤード 選手権が開催された
ビリヤード場。
これはもしかすると、武内が
根城にして寝泊まりしていた
玉屋と同じ場所かも知れない。
これもセットとは思えない程
の出来栄え。
台は4台は確認できる。
「ビリヤードミナミ」。
ビンテージキャロム台の上で
トリスの小瓶を横に、キュー
ケースを枕に眠る1967年時点
の竹内。
ペントハウス風の造りだが、
外から窓打つ雨が不自然で
あり、やはり巧妙に造られた
スタジオセットであろうと思
われる。
この玉台の上で眠ることは私
も玉屋でまったくこれと同じ
事をよくやった。
その店が自分の店である程に
馴染にならないと出来ない。
私の場合は、横の台でマスター
が眠っていた。枕は当然キュ
ーケース。
この「ビリヤードミナミ」が
関西ビリヤード選手権の会場
のようだ。
それは小階段の手すりと壁紙
の模様が同一だからだ。
このような屋根の玉屋があっ
たら最高の絵柄的シチュエー
ションだが、屋根の日光が台
にあたる造りとなるので、こ
れはあくまで映像上のフィク
ションであり、このような造
作のビリヤード場はあり得な
い。
カッコいいのだが。
かつて、映画『ハスラー』
(1961年)の中でのエディと
ファッツの主戦場だったニュ
ーヨークの店「エイムス」の
店内の造作と配置をすべて写
し書き取って分析した事があ
った。
今度映画『道頓堀川』に出て
来たビリヤード場の店内の造
作と配置を図面に書き下ろし
てみようかと思う。
こういう作業は存外楽しい。
映画『七人の侍』の舞台であ
るあの村の詳細地図を作った
りとか。