渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

経年変化する樹脂?

2022年05月07日 | open


プールの元世界チャンピオンの
ジョニー・アーチャーのシグネ
イチャーモデルであるスコーピ
オン・キュー。
シャフトはキューテック得意の
ードロックメイプルを透明な
グラスファイバーの筒で包んだ
構造だ。

着目したいのが先角。
20年前の製品なので今更ながら
なのだが、この樹脂の素材は何
だろう。
発売されてからこんにちまでの
歳月象牙のパティーナ(飴色化)
そっくりな色に変化している。
ペーパーを当てても内部まで。
しかも、全体的に同色で色ずむの
ではなく、まだらに。まるでグラ
デーションのように。
そこまでもが象牙の色の経年変化
に似ている。
この樹脂の素材は何なのか、非常
に気になる。どんな練り物である
のか。
なお、硬度は柔らかく、刃物を当
てると硬いチーズのような感触だ。
硬い先角素材であるLBM(リネン
ベースメラミン)のシャリシャリ
とした感触とは対極にある。
謎の素材。

この先角の色合いは、本象牙を
除く私が所有する全てのシャフト
の先角の中で一番風合いが良い。
音は本象牙を除く全てのシャフト
の中で一番良い。
スピーンという透き通る高音。




チョーク

2022年05月07日 | open



黒板用のチョークをビリヤードの
キューのタップに塗っても、全く
ノリません。
実験済み(笑)


世界チャンピオンのアドバイスを毎回聞けば本人に勝てる説【穴がないビリヤード】

2022年05月07日 | open

世界チャンピオンのアドバイスを
毎回聞けば本人に勝てる説
【穴がないビリヤード】

「穴がないビリヤード」というのは
台の事を言ってるのだろう。
穴無し台こそが本来はビリヤードと
呼ぶ。
穴あり台はポケット・ビリヤードだ。
大元の登場当時の元々は穴ありが原初。
ゲートボールのように台上にアーチ
ゲートが立っていて、そこを通して
壁(クッションは無かった)の穴に
ボールを入れるゲームがビリヤード
の台上競技のはじまりで貴族の遊戯
だった。
そこから日本で幕末期にあたる頃に
穴無し台によるものが分離独立した。
幕末長崎には穴ありゲート台と穴あり
ゲート無し台、穴無し台の絵が残さ
れている。また、穴ありゲート台も
現物が残っている。
主としてその分離独立した玉当ての
ゲームが後年世界的にビリヤードと
呼ばれるようになった。
一方、穴入れ台は四隅と中央に穴を
設けられるようになり、こちらは
ポケットとして発展した。
アメリカで急速にこのゲームは発達
して、1850年代の西部開拓時代には
既に現在の形と同様のアメリカン・
ポケット=プールゲームが登場して
流行した。
20世紀に入り、インドで発生した
オリジナルポケットゲームが英国
に1920年代に渡り、大隆盛をみる。
これはスヌーカーと呼ばれる入れ
ながら落ちた玉を戻すゲームで、
手玉を隠すセーフティも多用される
ゲームとなった。
19世紀中ごろに早期に分離独立し
た穴無し台での玉当て競技は
フランス、ベルギー、スペイン、
イングランド等で隆盛をみた。
こちらはビリヤードという呼称が
定着した。フランス語では billard
で「ビーヤァ」と呼ぶ。
スペイン語では billar で「ビリ
ヤル」だ。
ドイツ語では billiard で「ビリヤー
ツ」。
英語は billiard で「ビリヤード」。
billiards でビリヤーツ。
店の看板等はすべて複数形で書かれ
ている。
完全日本語は「撞球(どうきゅう)」
である。撞くという漢字は他には
寺の鐘を撞く時くらいしか使われ
ない。突くのではなくゴーンとツク
ことを指す漢字。つきとおす、つき
ならす、という意味を含むのであり、
単に物体が衝突した事とは異なる。
極めてビリヤードのキュー出しの
要諦を言い当てた漢字が「撞」で
あるので、玉突きよりも玉撞きが
実を表しているだろう。

1859年1月1日、ニューヨークの
ビリヤードサロン。南北戦争前。
穴台で英国式四つ玉を撞いている。
この後、キャロム台に変更しよう
する動きがあったが、それは
定着せず、合衆国ではアメリカン
ポケット=プールが発明されて
独自に進化した。


肥田プロは十代の頃から天才少女と
呼ばれていた。
撞球者の家系に生まれ、幼い頃から
キャロムビリヤードに親しんできた。
斯界では戦前の世界的な日本の撞球
選手である桂マサ子に譬えて「桂
マサ子の再来」と呼ばれていた。

この動画のような解説プレーは結構
珍しい。一球一球取り方を解説して
くれている。
このような解説はとても分かりやすい。


キャロムビリヤードの世界は気風が
今でも紳士的だ。
撞球場のお店の人も客もとても礼儀
正しい。

置きキューだけでなく、プライベート
チョーク置き場まで設置されている。
ここは東京板橋区徳丸のキャノンさん。



ポケットビリヤード=プールの世界
は日本国内でもいまだに博打玉を
好んでやっている風潮がある。
また、撞球者たちもパチンコ打ちや
麻雀打ちと同種の臭いがプンプン
する者たちが異様に多い。
だがビリヤード=キャロムの世界は
それらとは異なる。
キャロムビリヤードは皇室や宮家の
方々も嗜む。そうした撞球であり、
今でも礼儀を重んじる西欧の気風
がみなぎっている。
アメリカンポケットは、西部の酒場
のギャンブル娯楽からの流れなので、
どうしても品格や人格や品性につい
て悖るような面が今でも払拭できな
いような一面がある。

きちんとしたビリヤード場はキャロム
の店は全店がそうした紳士淑女の
競技を行なう場所だ。典型例の代表例
が学士会館の撞球室であり、倶楽部

の撞球会だ。
一般民間店舗でも、キャロムの撞球場
客からの預かり物についてもきちん
としている。
プールカフェやプールホールの店主
のように客からの
預かりキューを
勝手に転売しようと
したり、他に
も口にするのも憚られる
人の道に
外れる事をやった事例は、
あまり
キャロム店では耳にしない。

私も広島県内のポケット店では
「ああ。そうなんだ」という呆れる
経験
を多くした。それとポケットを
やる
人間たちの醜(みにく)い人間
性を多く見た。

店に来た女子中学生に猥褻行為を
して逮捕された店主もいた。
別な店では、預かりキューの店で
私が預けていたキューケースも無
くなった。
誰か来た常連客が盗んだのだが、
オーナーの店主が代わってからは
一切管理などしていない。
そもそも「いらっしゃい」さえも
言わない。客足はどんどん離れて、
置きキューも激減した。
それはそうだろう。
しかし、それは何も広島県が特別に
極悪なのではない。
日本全国、ポケットの世界にはよく
ある事だ。
東日本大震災の時には、菱沼元プロ
の店ラッキーインターナショナルで
は、高級なキューケースが丸ごと
盗難に遭い、またそれが転売されて
いた。そういう事をやるのがポケット
の世界の連中だ。ポケット玉突き人
たちは元々がバクチ打ちなのだから
何でもありだ。映画『道頓堀川』の
政夫ですね。あれ。
キャロムの世界とは空気が異なる
のは、それはキャロム専門の店に
行けば即座に感じ取れる事だろう。

とりあえず、ポケットをやるキューを
持つ者は、違法な賭博である博打玉
を撞くのを即座にやめるべきである。
今すぐに。
そうでないと、ビリヤード自体が
博打の為に利用される競技に転落
してしまう。





出川のベレー

2022年05月07日 | open



かぶり方、なんとかしろ。
とは思ったが、出川だからいいの
かも。
これがビシッと正規通りミリタリー
かぶりをしていたら出川らしく
ないかも。
もしかすると、そこまで読んだ
深い演出かも知れない。


戦前のビリヤード場

2022年05月07日 | open
 


戦前の小石川のビリヤード場
「白山撞球場」のマッチ箱。
まだ今の東京都文京区白山界隈
が東京府小石川区小石川
町、
指ヶ谷町、白山御殿町など
と呼
ばれていた時代だ。

私の母校の高校(旧制中学)の
ごく近所にあることが記載され
ている。学校から歩いて一分。

多分、旧制中学時代には生徒たち
が通ったかも知れない。旧制中
の生徒は撞球を嗜む者も多かった
からだ。理由は日本では撞球は
一般的に広く愛された嗜みだっ
たから。

映画監督の黒澤明(1910-1998。
東京府大井町出身。士族の倣いで
剣聖高野佐三郎に弟子入りする

すぐに挫折)は本学の出身者だった。

クロサワがうちの高校(中学)に
入学した1922年当時は、学校は
小石川ではなく本郷区東竹町(現
文京区本郷二丁目)に校舎があっ
たが、1923年の関東大震災で全焼、
ゆえに小石川原町に1925年に新
校舎を建築し移転した。すでに
存在した学園の高等女学校のそば
だ。現在の文京区白山。今の地下鉄
三田線白山駅の
ごくそば。
黒澤明監督は中学(現在の高等学
校)
に入学翌年に未曽有の関東大
震災
を体験している事になる。
また高等女学校校舎間借りでの
授業期間
と男子部(普通科中学、
現高校)の新校舎新築時代も経験
している事だろう。
麻布、開成、京華と「帝都私学
御三家」と呼ばれ、京華は開成を
抜いて東京帝国大学に多くの進学
者が出ていた頃だ。



白山撞球場ができたのはいつかは
定かではないが、戦前のマッチ
には地図が記載されている。

住所は小石川区指ヶ谷町(さしがや
ちょう)九二。
住居表示が実施されるのは戦後かな

り経ってからであり、住所は登記簿
と同じ「地番」で日本の国土の場所
は表示されていた。
明治維新直後の一時期の明治新政府
迷走時代、東京の地名を全廃して
すべて番号のみにした時期がある。
さすがに○○区○○町というもので
示さない番号だけの表示ではどこが
どこだか分からないために、国内
大混乱になった。今でいう郵便番号
表示のみのようになったからだ。
その太政官布告はすぐに撤廃された。
明治初頭の日本は大混迷を極めて
おり、憲法さえ存在せず、国会さえ
無かった。すべては中央政府の役人
が発する布告が法律代わりだった
のだが、その発令も朝令暮改で、
とんでもないものであった事は
法制史を少し学べば理解できる。
高校の歴史教育などではそうした
事は教えないが、大学の教養課程
の法学一般概論や法制史などでは
そのあたりは教育している。

この小石川あたりは戦災空爆を免れ
たエリアもある地域だ。
小石川という地名の場所は広く、

現在の東京ドームや後楽園も江戸期
の小石川というエリアになる。
幕府の小石川療養所が置かれた付近。
戦後直後、1947年の空撮写真を見て
みると、「白山撞球場」が大体どの
あたりのどの建物
か見当がつく。
時代をどんどん遡って、その撞球場
の場所を観て、地図上でタイムトラ
ベルしてみよう。

現代。白山の栗田ビルからバーシュ
ガーの通りは現在は「京華(けいか)
通り」と呼ばれているが、戦前は
「白山銀座通り」と呼ばれていた。
たぶん斉藤ビルの向かいの路地を
北東に入って左二軒目が白山撞球場
の場所ではなかろうか。白山神社に
抜ける細い路地に通じる道。


1963年。


1947年(昭和22年)。
この写真は戦後直後であるので、
白山撞球場が写っていると思わ
れる。


明治時代。東京十五区の時代。
まだ東京が都ではなく府の時代
だ。赤丸のあたりが後の大正か
昭和初期に登場したと思われる
白山撞球場が現れるあたり。


上掲以前の界隈の地図。明治初期。
白山神社の境内はかなり広大だった
が、その後明治後期に住宅地として
分筆登記されたことが看取できる。


さらに以前の幕藩体制江戸時代。
白山撞球場ならびに京華高校が
あった場所は土井大炊頭(おお
いのかみ)殿の屋敷である。
土井殿は下総国古河藩主。上屋敷
は上大名小路大手ヨリ六丁にあっ
たので、この小石川屋敷は下屋敷
だろう。それにしても広大な広さ
の土地だ。


人に歴史あり。
撞球場にも歴史あり。
戦前の東京は、実は辻を曲がれば
撞球場というほどにビリヤード場
があった。
特に銀座などはビリヤード銀座(笑)。
東京のビリヤード場の数は、現在
のラーメン屋と同じ位にあちこち
にあったのではなかろうか。
撞球天国東京。そして、撞球天国
日本だったのである。
大阪、京都、東京。かつての帝都
の三都は撞球王国だったのである。
(帝都のうち奈良明日香と大津を
省いてごめん)
現在は、首都東京のみならず、大阪、
京都、県庁所在地の都市でもビリ
ヤード場が極端に減少しており、
なんとも寂しい限り。

現在東京に存在する学士会館
撞球室などは、戦前からの東京
の撞球文化の一面を伝え残して
いる。研究機関である旧帝国大学
の卒業者たちの親睦交流施設に
ビリヤード台を何台も備えた立派
な撞球室が今もある。
そして、学士会には「撞球会」と
いう伝統ある撞球倶楽部が存続し
ている。


学士会館の撞球室では全日本の
アマチュア選手権も開催された
りしている。建物は文化遺産。


だが、そうした旧帝大卒業者のみ
が使用できる格式ばった撞球場、
選手権の選手のみが使用できる
撞球場ではなく、市井のごく一般
的な庶民的な撞球場が町のあちこち
にあったのが戦前までの日本の風景
だった。
失われた日本とは、撞球シーンを
俯瞰しても、感じ入るものがある。

大学生、高校生たちの若者は、大い
に勉学に勤しみ、大いに撞球にも
精通してほしいと願う。
それが絶妙なる健全なカタチかと。
撞球はですね、歩きます。かなりの
距離を。それでも負担は少ないので
軽運動、という感じ。
ただ、足腰がしっかりしていないと
上体を支えられないので正しい姿勢
が取れない。変なフォームでやると
腰を痛めますが、正しいフォームだ
と60才過ぎの人間が18時間連続で
玉を撞いても何ともない。足腰肝心。
撞球は競技技術の習得としてどんどん
やってほしい。
滅茶苦茶難しい球技です。キュー技
といえる程に。ただ、身体運用が
適切でないと競技になりません。
体幹とか。
撞球に精通すると二輪での走行力
も上がると言うと俄かには措信し
難いでしょうが、あるんです。通じ
るものが。身体と頭を使うスポーツ
なので。
撞球はかなり深い。簡単ではない。
だから、面白い。安直には成立し
ない競技だから。
若いうちに撞き込むと、年齢が
進んでからでもプレーできます。
若いうちにどんどんやってほしい。

戦前。高等学校(現大学)の学生。


戦後。大学生。


撞球者たちが集った頃の東京高田馬場
ビッグボックス(1987年)


『ビリヤード入門』という教則本から。
奥の四つ玉(協会正式呼称「四ツ球」)
の台に両手をついているのは私。本当
はよくないマナーですが、この時は
対戦競技中ではなく、これはこうする、
と見せ玉での研究会の撞点解説の瞬間。
マッセをしているのは法律事務所の同僚。