雨注意。
雨注意。
ローリー・ジョン・ジョーンズ。
女はジャンスカ。
男はスカジャン。
これで決まりさ。
てなこと言っても、世の中おかしい
事がある。
女がスカジャンを着ても決まるが、
男がジャンスカをはいたら奇異な
眼で見られる。ま、はきたくも
ないのだが。
それは果たして差別ではないのか、
という問題がある。
女性と男性の被服文化においては、
「男装」「女装」という種分けは
あるにせよ、女性が男性と同じ服装
であっても現代においては違和感は
無い。女性警察官もナースもズボン
をはく時代だ。
最近では婦人警官という言葉も
駄目らしいが、何よりも婦警さん
がスカートだったという事を知ら
ない世代も増えているし、看護師
さんが看護婦さんだった時代には
全員もれなくスカートだったという
歴史事実を知らない若者も増えて
きている。
女性が詰襟学生服を着たらやはり
現段階では奇異とされるのだろう
が、一般的に私の一回り上の世代、
団塊の全共闘世代=戦後生まれ世代
からは、女性がジーンズをはいて
Tシャツで街を歩いたり、大学に
通う事もごく一般化した。
女がズボンをはいてもおかしい事
とは思われない世の中が戦後に
登場した。
まだ戦後間もない1960年の60年
安保あたりの時代には女子学生
は通常全員スカートでデモに出て
いる事が多かった。
やはり1960年代の極度のアメリカ
ナイズによって、反米主義者で
さえもジーパンにTシャツを着用
しはじめた。
その頃中国と北朝鮮は全員人民服
だ。戦前の日本の国民服のような
服。中国には自動車などは無く、
共産党幹部のみが自動車に乗った。
人民の足は自転車である。
朝の工場稼働時刻には大量の自転車
通勤の中国人が職場に押し寄せて
いた。中国でジーパンにTシャツな
どというのはあと100年は来ない
ように思われたのが1990年代まで
の現実だった。
香港返還以降ですね、中国の超近代
化は。
で、現代の被服文化を見るに、女性
が男性とほぼ同じ格好をしても奇異
には見られなくなってきている。
江戸期の文化からしたら女が袴を
はいて刀を差すなどというのは
別式女の戦闘員のみで、一般女子
ではあり得ない事だった。
だが、現代では伝統文化武道として
女性の多くも袴をはいて刀を差す。
伝統文化?とは思うが、現在は男女
同権なので、「女がなに男の真似を
しているのだ?」などと言ったら
セクハラ、モラハラになってしまう。
本来、江戸期の武家様式では現代
の女性剣士の存在は大名抱えの女
戦闘員の特殊例を除いてあり得ない。
尤も、江戸時代の武家文化など無視
しているのが現代の剣道やいあい道
やその他の真剣を用いた武道である
ので、そこらあたりは厳密には
問い詰める事はできない。
本物の武家文化を体現するのである
ならば、女が男と並んで歩いたり
前を歩く事さえも許されない。
そして、その現代には価値観にひずみ
がある。
それは前述した「男がジャンスカを
はいたら奇異に思われる」という
概念だ。
これは「女が袴をはいて刀を差す
のはいかがなものか」という概念
と実は同軸にある。
だが、差別意識撤廃を謳いながらも、
現状では男が化粧したりスカートを
はいたら「頭おかしい」とか、性同一
性障害の病気であるとかにされる。
これ、おかしくないですか?
その方式から行くと、女がズボンを
はいたり、袴はいて刀差したりする
事もおかしい、とならなければ論理
的な整合性は不存在になる。
現行の、現代人の「社会的常識」と
されている被服感覚は矛盾がある。
会社員にしても、女性がスーツに
ネクタイでもいいではないか。
逆に男性がスカートでもよいでは
ないか、という事に論理的には
なる。
だが、そうなってはいない。
フォーマルという格式においては
依然として男女の区別はある。
それが良いか悪いかの価値判断
は別として、現存するものとして
存在する。
フォーマルでダメであるのが社会
規範ならば、ではプライベート
の時にはどうか。
それは、フォーマルウエアの感性と
同じ感覚で世間は見ようとするの
だ。
性別を超えるトランスジェンダーは
その桎梏を解き放ち、自ら精神的に
それら人を縛る因習社会から自立
するものだ。
私はトランスジェンダーの存在が
広く認容される社会がまっとうな
平等社会だと思う。
その理由は、上述のように、被服に
代表される社会の概念は、男女の
区別を差別とするという観点から
ではなく、決定的な問題として、
論理の整合性の欠缺が存するからだ。
本当の男女同権は男女の性を超克
するトランスジェンダーの存在を
もごく普通に認容する社会でないと
筋がおかしい事になるのである。
だが、ごく個人的な好みとしては
ジャンスカが私は大好きだが、
ジャンスカを来た女の子に対して
可愛いと思う感性が発生するので
あって、髭面のおっさんがジャン
スカはいていても可愛いとは思え
ない感性が実際にある。
また、いくらスカートの中でジャン
スカが一番好きだといっても、
自分ではいてみようとは思わない。
そこらあたりの精神的総括として
の自己分析は、今後自己精神に
メスを入れて解体して解析して
いかないとならないと感じている。
人間は論理の透徹性だけに感性は
支配されないからだ。
例えば、私が女の子のフェイスで
離れ目ちゃんが好きなのは、これ
はもう好みの問題なので変えよう
がない。トマトが好きかレタスが
好きかの問題だからだ。
両方混ぜればサラダになる、という
のが論理としての正解なのだが、
世の中そういう論理性のみで円滑
に進むのではない。
そこが難しいところ。
ただ、言えるのは、「女装」「男装」
という概念そのものが不存在になる
社会が本当のまっとうな世の中では
なかろうかという感慨が私にはある。
それは決して女性と男性の肉体的
な体力差異を区別して互いにフォロー
することが差別ではない事とは矛盾
しない。女性に男性と同じ重量の
荷物を持たせる事が平等ではない。
女性の生理休暇を否定して働かせる
事が男女平等ではない。
男女には身体的機能の区別は人類が
誕生した時から与えられてしまって
いる。男は子どもを産めない。子ども
を作るのには男女どちらもいないと
ならない。
だが、肉体的負担は女性が男性より
も比較にならないものを負う。
男は作りっぱなしだ。
そういう機能にさせられている。
だからこそ、それを弁えて、男は
女性の母性や母体を保護支援しない
とならないと感じる。
そして、子どもを産めない存在、
例えば身体的な原因や性別に起因
する人たちに対してどうであるの
か、という問題がある。
私はこれは母体である女性と同じ
位置での概念化が必要不可欠だと
感じている。社会全体で包括的に。
そうした人たちは「障がい」を
持っているのではないという概念
がごく一般化するのが今後の
まっとうな社会形態の在り方だ
と私は思っているのである。
医学的な性別における男女の差は
身体構造と体力しか存在しない。
知力においては男女差はない。
「女のくせに」とかいう概念を
微塵たりとも持つ男は、では
その女よりも君は学力や知能が
高いのか?と問いたい。
頭脳において男女差は無いのだ。
あるのは身体構造と体力だ。
特に身体構造については本人が
どうこう変えられるものではない。
整形により形をいくら似せても、
人体の構造機能は生物学的分類
での性を超えられない。人間は。
魚などでは雌雄変転があるが、
人間はそう造られてはいない。
然るに、そういう「本人ではどう
しようもできない事」を根拠に
その対象の人間を見下したり
自分よりも下だ、従え、とする
のは差別意識と差別行動そのもの
であるのだ。差別の本質。
それは敷衍させるならば、本人
ではどうしようもない生まれた
場所や出自、自分では選べない
親の存在、年齢等が挙げられる。
そうした、本人ではどうしよう
もない事を根拠としてその対象
の人を論って不利益を与えるの
が差別の根幹であり差別の実体だ。
現代社会では口先ばかり「差別
廃止」を謳っていても、そこら
あたりの認識理解の徹底が為さ
れていないのである。
節分では豆まきをする。
唱える言葉は「鬼は外、福は内」だ。
これは、私は古代産鐵民とそれの
技術を簒奪しようとする勢力との
せめぎ合いの古代史の流れにある
と読んでいる。
鬼の日本史を研究すれば、日本の
歴史の中では、古代製鐵と鬼との
関係が密接不可分であることが
誰の眼にも見えて来る。古代史
研究、とりわけ古代製鐵の研究は、
それへの着目は避けて通れない。
先住産鐵民たちは中央勢力により
全国でその技術と権益、在地自治
権が強奪されて来た歴史がある。
そして、出雲国風土記にも見られる
ように、敗北して屈服された古代
産鐵民たちは「鬼」「鹿」「蛇」
等々の名を冠されて蔑まれた。
すべて勝者が記し残す歴史として。
そして、それらは地名としても
全国各地に残されている。
この節分の「鬼」とは古代産鐵民
の事であり、「福」は「吹く」、
つまりたたら吹き製鉄の事であろう。
古代製鐵の際には、大豆のような
豆鐵が産出される。
これは古代から安産のお守りとして
も人々に親しまれた。
この豆鐵を古来には投げる風習が
あったのではなかろうか。
それは、中央勢力に征服された民、
中央勢力に折伏されたオホミタカラ
たちによって。
旧勢力であった在地先住古代産鐵
族たちを追い出して製鉄拠点を
得たぞ、という証としての豆鐵の
撒き投げつけ。
まずそれであろう。
古代製鐵のふるさと岡山県では
奇祭が今でも残されている。
それは、古代産鐵民として在地に
根を張っていた吉備の長者である
現地豪族のウラがヤマト中央権力
によって虐殺された事を偲んで、
ウラの側に立って民衆がその抵抗
のレジスタンス魂を称える祭りだ。
その祭りの名称は「ウラじゃ」と
いう。「われはウラなり」という
方言だ。
私は個人的には、この岡山県の祭り
に非常に好感が持てる。
それは、日本全国、古代中央政権
の暴虐による各地武力制圧や傀儡化
をそれとなく示す民衆的祭りは
あっても、岡山県の「ウラじゃ」の
ようにあからさまに抵抗の魂を示す
祭りは存在しないからだ。
日本国内での権力サイドの推奨する
オハナシの多くは「桃太郎」の物語
で語られる中央権力寄りによって
作られた「鬼退治=地方への侵略」
を賛美するものとなっている。
現在のロシアによるウクライナ侵攻
が正義であるとするようなものだ。
全く同一。
ロシアは「ナチスを倒して民衆を
解放するために戦っている」とし
ている。古代日本における中央権力
が全国を「征伐」した図式での論理
と全く100%同一軸であるのだ。
だが、多くの日本人は、ロシアの
暴虐については認知を働かせても、
自国の古代史については「桃太郎」
がいい人のように思い込んでしま
っている。
本当の桃太郎の話を知っているのか。
あの歌さえも。
現代ご時世に沿わないからとかなり
後半部分がカット省略されている
事をどれだけの人が知っているのか。
後半は古代中央政府のドラスティック
な虐殺模様が歌では歌われているし、
また、物語のほうでも、極めて侵略
による虐殺賛美のオハナシとなって
いるのだ。
日本全国の「鬼」とは、古代先住在地
産鐵民の事だ。
そして、それを「外威」とみなして、
夷狄(いてき)討伐を称して武力制圧
して来たのが日本の真の古代史なのだ。
日本全国、そうやって武力制圧と懐柔
傀儡化が進められたのが古代の日本だ。
(出雲国が傀儡の典型。武力討伐は
九州全域、中国地区の吉備国、畿内
以東とりわけ奥州全域が典型)
そして、日本の民衆は権力によって
牙を抜かれ、服従した。
逆らうと一族もろとも皆殺しにされる
からだ。
まさに今のロシアの蛮行と同じ形、
同じ論理で権力者は自分を正義として
人々を蹂躙し、虐げ、征服して来たの
である。
私は岡山県の「ウラじゃ」の祭りに、
古代在地民衆の輝ける抵抗の魂、人の
心の光を見る思いがする。