通すやり方も使う。
のセットポジションのスタイル
は、このようなシンプルな
フルタングナイフの横差し
シースだ。
というような立ち位置の。
ルな「カンヌキ」のほうが、
野営現場での動きの邪魔には
ならないかも知れない。
のナイフ携帯方法を一番好む
のだが、これは一度やると
便利過ぎてこのポジション
以外ではナイフを携帯したく
なくなるほどだ。
「どこ行きたい?」
「どこでもいい」
という事でふと思いついて、
彼女とオートバイで埼玉県と
栃木と群馬の県境探しに行っ
てみた。
高校1年16才の時。
当時は初めての場所でよく分か
らなかったが、地図も無く、大
体このあたりだろ、てなもんで
走り続けた。
当時、看板などは無い。
スマホもGPSも無い。
だが、何とかなるもんだ。
結構遠かった(笑
ラジコン「飛行場」は当時から
あった。ただの河川敷だがラジ
コン航空機の離発場として使わ
れている。これはかなり昔から。
ここは関東の航空ラジコンファン
の発着のメッカのようだ。
今は県境地点が整備されている
ようだ。
東京都内は別として、ティーン
の頃に二輪で行く場所は、もっ
ぱら神奈川県と埼玉県だった。
たまに栃木、群馬、長野。
なぜかしら、高校時代には千葉
には一度も行ってない。
千葉県というのは、横浜の子
ども時分に館山に観光旅行で
行ったのみだった。
走り先として千葉県の良さを
知るのは社会人になってから
だった。
ただ、千葉県は自然が素晴ら
しいが、マス族が一切棲息し
ていない。それのみがネック。
だが、全国的に珍しく、熊が
いない。東京都にさえいるの
に。
関東平野はとんでもなく広く、
神奈川・東京山手の丘陵地帯
とは景色がまるで異なる。
どこまで行ってもまっ平らだ。
果てしなくまっ平ら。
神奈川と東京は丘が多い。
東京は江戸時代から「富士見」
という地名の場所が多かった
が、坂が多く、そこを登れば
富士山が見えたからだ。
江戸東京から見る富士は近く
見える。近いというか富士山
はとてつもなくでかい。
画像加工ではない。
望遠で撮影するとこうなる。
肉眼ではもう少し小さく見える。
この富士山が晴れた日には毎日
見える、というのは東京と神奈
川の人間にとってはかなり重要
で、東京から西日本に転勤で
引っ越した時、当たり前の事だ
が「あれ?富士山が見えない」
という事実に愕然となった。
そこにあるものが無い、という
のはかなり固まる。
西日本から富士山が見えない
などというのは当たり前なの
だが、それでも衝撃的だった。
それほど富士山は関東、とり
わけ東京・神奈川人にとって
は「そこにあるべき日常」で
あるのだ。静岡県や山梨県など
も多分そうだろう。
それほど富士山はでかい。
とにかくでかい。
で、神奈川から東京を抜けて
北に向かうと、埼玉県に入っ
てからすぐに北関東平野に
入る。
それがとにかくだだっ広い。
狭くてコセコセしていない。
だからかも知れない。
栃木・茨木の人たちは大らか
で朴訥だ。水戸は気性が荒い
が、茨木の他地域は温厚だ。
栃木などは方言までもが平
たい。
平野が広がる埼玉県人も、
ネチネチの粘着セコマンなどは
ほぼ見かけない。
埼玉県人の特徴は社交的な事で、
これは神奈川県人よりも心を
開き親交性が深い。
「ダサいたま」と東京都民から
小ばかネタにされても、埼玉県
人はワハハハと笑っていなす
器の大きさがある。ムキになっ
てウキー!となったりはしない。
そして、北関東平野は真っ平ら
なので、車は走りやすい。
走りやすいが、走り好きとして
は問題もある。
どこまでも道と地形がまっつぐ
のまっ平ら。
つまり、どこも同じような景色
だし、ただただ直線が続くので
ちっとも走りの操縦は堪能でき
ないのだ。
特に二輪や四輪での動体性能を
楽しみたいならば山間部へ向かう
という事になる。
そしてだ。
その山間部たる山がかなり遠い。
広島県三原市内のように、海に
面した町から5kmでワインディ
ングの整備されたロードがある、
などという事は関東平野には
無い。だれのせいでもないが。
当然、西は東京は大垂水、奥多
摩、神奈川は箱根、北は埼玉
秩父(ちちぶ)、栃木日光、
群馬碓氷(うすい)軽井沢に
向かう事になる。
出発点にもよるが、大抵は100km
ほど走らないと辿り着かない。
峠に行ってからは給油しながら
峠を60~80km程は走り回るので、
日帰り峠走りでもかなりの距離
になる。
もうね、ワインディングロード
に行くのにも一大行動で出立し
ないとならないのが関東。
西日本、特に中国や九州はサクッ
とちょいと走ればすぐ峠。
とりわけ中国地区などは、海に
面して山があり、街の外れが
もう峠という地形なので、街
からいくらでも峠には軽く行け
る。ワインディングはそこら中
にある。関東のように100km程
走らないとワインディングに辿
り着かないというのは地形的に
無い。
お手軽ロードが近いのが西日本
中国地区だ。あと四国・九州。
だからじゃないかなぁ。
関東の乗り屋は距離を走るのを
まるで厭わない。
日帰り400~500kmなどは通常
パターンだし、時には日帰りで
700km以上をごく普通に気負わ
ずに走破する。
むしろ、中国地区、九州地区の
人たちはその距離を「信じがたい
もの」と捉えるようで、そのよう
な事はよく言われる。
関東でごく普通の感覚が奇異に
思われたり、信じようとしな
かったり、嘘言ってるとか、
イキってるとか中国地区の人間
が思いがちなのは、そうした
地域的な文化や意識の違いから
来ていると考えられる。
1日4~500km。これごく普通。
東京・神奈川からしたら。
100kmなどは、そこいらにタバコ
を買いに行くようなものだ。
会社の旅行で越後湯沢に行った
時、入社したばかりの九州の
支店の人間が関東平野の景色
に驚いていた。
高架線を通る上越新幹線から
見た関東平野の景色は、平野
が広い九州でさえ見た事の無い
広大さだったからだ。
私は中国地区統括とはいえ、地
元採用ではなく東京本社採用、
しかも東京生まれ育ちだ。
見慣れた風景だが、九州の者
たちはずっと車内で立ち上って
窓の外を見ていた。
生まれて初めて見た光景だった
からずっと見ていた、と言う。
それだけ関東は広い。
何もかもがでかい。
広い海(太平洋である)と広い
平野。
全てが大きいのだ。
人も然り。
コセコセぐじぐじネチネチという
のは最も嫌われるし、そういう奴
らはまずいない。いたとしても、
表になど出てこれない。
片隅にすっこんでいる。
特に東京でそんな族が世間に頭
出そうとしたら「すっとこどっ
こい!おととい来やがれ!」と
たたっ潰される。
平安時代からわが日の本の国では
「もののふは坂東」と呼ばれた。
それには意味がある。
それは歴史の事実、真実として
あった。
そして、その気風は今も根強く
残っている。
日がいずる所、それは東方。
ひむかしの空から日は昇る。
映画『初恋』(2006)の中で、
1959年製の名車ホンダCB72を
奇麗に乗りこなす女優の宮﨑
あおいさん。
CB72は国産初の4ストのスーパー
スポーツモデルだった。
公道市販車では100km/h以上
出すのが精一杯だった時代。
160km/hが一つの市販車の限界
の壁だった時代。
このCB72発売当時のキャッチ
コピーは
「トップギアで70km/h以下では
走れません」
という挑発的な文言だった。
1966年5月、大学生の岸は一人の
孤独な女子高生の少女と出会う。
岸は恋をした。
その少女はみすずといった。
やがてみすずは、バイクの運転
を覚える。
2年後の1968年12月10日。
岸は女子高生みすずを実行犯と
して三億円強奪を決行する。
40年後にみすずは述懐する。
「あなたとなら時代を変えられる
と信じていた」
みすずは翌1969年に大学に合格
する。
しかし、実際に1969年は東大安田
砦の歴史的な攻防により東大入試
が中止された。
岸が通うのは東大という仮想設定
だ。
みすずも同じ大学に入学するフシ
があるのだが、現実世界では69年
には東大入試は無かった。
みすずが合格して通う大学は拓殖
大学が撮影ロケに使われていた。
安田講堂より背の低い時計台の
ある校舎が。
実際の東大安田講堂も目の前で
見てみるとそれほど高層建築では
ない。
私は高校が近かったので、よく
学校帰りに友人たちと東大本郷
キャンパスを散策した。
当時、どこの大学もそうだが、
敷地内への出入りは自由だった。
東大本郷は地下の学食がとても
美味しい。
みすずはバイクの運転だけで
なく、自動車の運転を岸から
教わる。
もちろん、無免許だ。免許所有
がどうのとつまらぬ突っ込みを
する映画でも時代でもない。
首都圏の都内の路上や駅では石
と火炎瓶が飛び交い、準内戦状態
の時代だった。
このロケ地の北九州市にある
階段は実際の新宿南口の甲州
街道の階段とそっくりだ。
撮影のオフショット。
かわいい。
険しい表情も、
笑顔もかわいいのっす~。
そして、演技力抜群でバイク
にも乗る。
ただ乗るのではなく、乗れて
いる。
なんなのでしょうね、この女優
さん。
もしかすると、二輪に乗る全
女優さんの中で一番オートバイ
の運転が巧いかも知れない。
映画『初恋』では、監督が主演
の宮﨑さんに二輪免許を取らせ
ようと思ったら「自動二輪免許
は持ってます」と答えたそうだ。
プライベートで自動二輪免許を
取得していた、という事。
つまり、公にはしていなかった
が、宮﨑あおいさんは隠れ二輪
乗りだったのだ。
高1の時、よくバイクで荒川
土手の階段を駆け下りたり、
土手の斜面を駆け上がったり
して遊んだ。
高1の時の彼女と電車に乗って
いる時、鉄橋上から外を指して
「あの階段よくバイクで下りる
んだぁ」と言ったら、中学の
時にバスケ部で一緒だった仲が
良かった大学附属に通う彼女は
「ええっ?」
と驚いていた。(オートバイの
後ろに初めて乗せた女性はその
彼女だった。16才の時、二人で
栃木県のほうまで日帰りツーリ
ングにも行った)
だが、オフ車で階段を下りるの
などは造作ない事だ。
ロードモデルでは苦しい。
てか、今の時代、やっては駄目。
ネット愚民のコンプラ警察気取り
ばかりだし。
息吐くだけでいちゃもんつける
ような小せえ奴等ばかりだから。
仮面ライダーもロードシーン
ではロードモデル改造車だが、
オフロードシーンではいきなり
サイクロンがオフ車になってい
た(笑
馬なりの車両なり。
今グーグルマップで確認すると、
短いほうと長いほうの両方の階
段がまだ残っていて、なんだか
懐かしくなった。短い階段の
ほうが急斜面で難しかったり
する。
ただ下りるのではない。自分が
思い描いたようなライディング
で下りるのだ。でないと練習の
意味がない。
荒川土手は私のバイクの練習
場だった。
いろんなことを徹底的にやって
オートバイのコントロールを覚
えた。
誰かに教わったのではない。
自分で考えながら乗った。
乗っては考え、下りては考え。
ウイリーやアクセルターンを覚
えたのもこの河川敷だったし、
何よりも「タイヤを滑らす事」
の感覚が身に着いたのがこの
土手っぷちだった。
その後間もなく1970年代後半期
からロードモデルで峠を走り出
すのだが、この河川敷での学習
が非常に役に立った。
ここで操縦を楽しんで私にオー
トバイの魅力を教えてくれた
マシンはモトクロッサーのよう
な完全なオフロード車ではなく、
ミニタイプのカワサキMS90
だった。
ヤマハでいうとミニトレのよう
なカワサキのMS90。とてもよく
走るキビキビとした元気の良い
バイクだった。
これ。
この90ccのバイクはホントに
可愛かった。
これでオートバイの操縦方法を
覚えたし、いろいろな土地に出
かけるオートバイのプチ旅行の
醍醐味を覚えた。
見知らぬよその土地に自分の足
で赴くことは、16才の少年に
とっては画期的なことだったのだ。
多くの土地で多くの出会いがあり、
多くの物事を知ることができた。
すべてオートバイに乗って外に
走り出したからだった。
MSは同排気量クラスでは最高の
速度と加速性を持ったオートバイ
だったが、最高速よりも出足の
瞬発力の良さが楽しかった。
このカワサキは大好きだった。
カブを除けば、初めて自分で運転
したギア付車はヤマハミニトレ
だったが、二輪の本当の楽しさ
はカワサキが教えてくれた。
(ドラマ『プロハンター』から)
横浜の外人墓地周辺の高級住宅
街の山手は坂だらけだ。階段坂
も多い。
起伏があるから景観が楽しめる。
それまたヨコハマ。
お!地元でも有名な元町S字!(笑)