渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ヤマハYDS1

2023年06月04日 | open
 


2才の時、初めて乗ったオート
バイがこれ。
国産初のスーパースポーツだ。
母方の叔祖父に乗らせて貰った。
1962年。誕生日前なら満1才だ。
タンクに跨り、前の水道の栓の
ような所を持とうとしたら、
そこは駄目だと言われて、ミラー
の付け根付近を持った。正確に
はワイヤーの付け根の根元付近。
よく覚えている。
まだ生まれて2年程で、60年以上
前の記憶だが、世界が一変
した事
も、まるできのうの
ように覚えている。
住宅街の一画を一周しただけだが、
もっとずっと乗っていたかった。
まだ25才位のお袋が実家から
飛び出して来て、叔祖父に抗議
していた。こんな小さな子ども
を乗せて、と。
叔祖父は笑って取り合わなかっ
た。
父方もだが、母方もオートバイ
乗りばかりだった。
母の妹(叔母)の夫から貰った
1950年代のダブルライダース
の革ジャンを私は1970年代の
高校時代に着ていたし、大学
の時もそれを愛用していた。
父方の親族もオートバイ乗り
だらけだった。
それゆえか、私が12才で自力
で敷地内でオートバイに乗り
始めた時も、16ですぐに免許
を取って乗り始めた時も、バ
イクなどやめろとは一切親から
は言われなかった。
それどころか、母もまだ若い頃、
主婦仲間とミニバイクでだが、
いろいろプチツーリングに行っ
たりして楽しんでいたようだ。
私の同世代のイトコたちは大勢
いるが、男の大半は今もオート
バイ乗りだ。
そして、その息子たちも。
オートバイ乗りというのは、
特別な存在ではない。半世紀
以上前からゴロゴロいる。
そして、今は乗ってはいないが、
私の妻も自動二輪免許を持つ
ートバイ乗りだ。
原風景 - 渓流詩人の徒然日記

原風景 - 渓流詩人の徒然日記

ヤマハYDS1私が生まれて初めて跨って同乗して走ったオートバイはこれ。まだ2才になるかならないかの頃の事だ。その時の状況と、その場にいた運転者と母の会話もよく覚えてい...

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ストーリー:08 国産初の本格的スポーツモデル「YDS1」 - ヤマハヒストリー | ヤマハ発動機株式会社

ストーリー:08 国産初の本格的スポーツモデル「YDS1」 - ヤマハヒストリー | ヤマハ発動機株式会社

ヤマハヒストリー | ヤマハ発動機株式会社

 
 
 

ビビアン

2023年06月04日 | open


43年後のビビアンをきょう見た。
相変わらず美人なので驚いた。
というか、少し印象が違う和風
美人になっていた。八千草薫さん
風の。


天然イワナ

2023年06月04日 | open







いいね〜。
オショロコマみたいな個体。
「雑魚(ざこ)」なんてとんでもない! “まざりっ気なし”の美しい天然イワナが釣れる人気河川へ(BRAVO MOUNTAIN) - Yahoo!ニュース

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 長野県の山奥でも初夏の様相になってきました。日本有数のスキーリゾート志賀高原では新緑の中、ウグイスの囀り(さえずり)が響いていました。この一帯から流れ出すのが...

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多摩川

2023年06月04日 | open



多摩川ってのは、いいね〜。
東京神奈川がいいのは、上流
にはマス族がいる事(笑

スズキ操業停止

2023年06月04日 | open




只事ではない。
楽観視できない。

梅酒

2023年06月04日 | open


昭和8年1933年植樹の梅の
から採れた梅の実で梅酒
を作る。
果たして生きているうちに
飲めるのかどうか(笑

片隅のバーカウンター

2023年06月04日 | open



ガレージの片隅にこんなカウン
ターがあったら、最高だ。

カワサキ MS90

2023年06月04日 | open


いいねー。
この音、この音!
高1の時、初めて自分で所有した
オートバイはカワサキMS90だっ
た。
サンパチ乗りのイトコがくれた。
MSはいろんな所に出かける楽し
さを教えてくれた。
土手の長い階段降りたりもした。
やがてロードモデルと2台持ちと
なってロードモデルにより長距離
も走るようになった。
だが、二輪車でいろいろな所に
行く楽しさを知ったのはMSに
よってだった。KMではなくMS。
オフ仕様なのに完全オフ車では
なく、ヤマハミニトレ、スズキ
ハスラーのようなカテゴリーの
車両で、ロードでも楽しめた。
私のMSは、やがてイトコの
幼馴染にあげた。
やはり、存分に楽しんだようだ。
その人は今BMWのアドベンチ
ャーに乗っている。

こういう楽しめるバイクが結構
面白い。セカンドやサード車と
しても。
小さいのに実によく走るやつだっ
た。



クルマの出来

2023年06月04日 | open



RZRはRZ1型よりもオニギリテール
のRZよりもずっと車としての出来
は良かった。
本当によく出来た車だった。
だが、何が味があるのかという
と、RZ1型のほうが断然味があっ
た。
そして、走りとしてのマシンの
完成度においては世紀の失敗作
だったガンマより遥かにRZRは
出来が良かった。
ガンマはこれまた世紀の失敗作
システムのアンチノーズダイブ
と開発途上の不完全16インチの
せいで、寝かしたらラインを変え
られない二輪だった。
ヤマハRZRはヒラヒラどうとで
も旋回中にラインを乗り屋が変
えられた。
スズキガンマは、いろいろな
認可を初めて通したという点で
歴史的な車なのであり、二輪と
しての能力はヤマハのほうが
遥かに高かった。
だが、実は公道市販車でもレー
サーでも、抜群の完成度を持っ
ていたのはカワサキだった。
しかし、カワサキは会社の二輪
部門が閉鎖検討される程に人気
が無く、売れなかった。
車はとても良いのに。
カワサキはごくごく一部のカワ
サキファンのみが乗っていた。
今のようにホンダさえも抜いて
カワサキが国産全社で売り上げ
トップなどというのは80年代に
は考えられなかった。
カワサキは社是をかけてゼファー
400を作り、大爆発ヒットによ
り川崎重工の二輪部門が残され
た。
カワサキはよく壊れたが、今は
かなり耐久性もあるしっかりと
した車作りをしており(実は
90年代からそう)、トップ人気
のメーカーに最下位からのし
上がった。

RZRはレーサーレプリカとも
異なるオールド路線の車で、
非常に良い出来だった。
ただ、「クルマのおもしろさ」
で言うなら、古いRZ1型がダン
トツの良さだった。


そして、実は88NSRよりも
加速も旋回も速かったカワサキ
の88KR-1は、全社中一番良い
車であったのに、全く売れなか
った。
NSRが24000台なのに、KR-1
はたった6000台しか製造され
なかったのである。
何が「良い車」なのか、ほんと
わからないというオハナシ。

だが、歴史を俯瞰するに「人気
=良い車」ではない事だけは確
かだろう。
御用雑誌や紐付きネットレビュー
などは、いい事しか書かないお為
ごかしの裸の王様ヨイショ記事
ばかりなので、鵜呑みにする
は危険。


憧憬

2023年06月04日 | open


ヤマハRD250。
高校時代、このマシンにはある
種の憧憬があった。
私はカワサキ好きだが、S特進
のクラスメートの同級生が駆る
このソノートカラーのRZがばか
やだったからだ。
勿論、根本は腕なのだが。
全学年の二輪乗り全体でそいつ
が一番速く、二番目が私だった。
ほんの僅差なのだが、奴のほう
速い。
マシンの違いではないのだが、
この車は乗らせて貰うと本当に
出来が良かったし、うまくセッ
トアップしていた。
このRDの発展完成形がRZ350
だった。
RZというのは日本だけのネーム
で、海外ではRDのコードネーム
のままだった。
クラスメートのRD乗りと私は、
今のバトルオブツインや筑波
フェスティバルの大元を作った
都内の同じヤマハ系レーシング
チームに属したが、奴はその後、
国際A級になりマン島を走った。
奴は進学を選ばず、レースに
絞り込んだ。
私は大学進学の為にレース活動
「停止」した。

RZ350は1981年に出て即買った。
買ってからレースを続ける奴の
家に行ったら奴は言う。
「おめぇ、RZ350なんて、出世
したじゃねぇか」
「なに言ってやがる」
「今度乗らせろよ」
「おまえはレーサーだけ乗って
ろ」
「なんだそれ。ざけんなよ」
という会話だった。
その足で昔のチーム仲間の先輩
の家に二人で行った。
奴はカワサキに乗ってやがった(笑
先輩の部屋にはRS125レーサー
があった。
まだヤマハはワークス以外に
125レーサーを復活させていな
かったので、ヤマハ系ライダー
もやむなくホンダに乗っていた
時代だ。

RZの動体能力は、高校の時の
ホンダレーサーのMT125(のち
のRS125)に似ていた。感触が。
ただ公道車のRZはフロントフォ
ークが弱く、フルブレーキング
しながらコーナーに突っ込むと
ヨレヨレのヨレだった。何?これ?
という程に。
フロントフォークが細すぎる為
だった。
そして、乗り方もあり、ステア
をこじる乗り方は×。ヤマハの
乗り方をしないとならなかった。
極端なハングフォームよりも
中心線に軸線を残す乗り方の
ほうが速く走らせられた。
こういう事はマシンによる。
車によっては極端なフォーム
やインへの軸線の移動をさせ
た方がよく曲がる車もある。
車によりけりだ。どれも一辺
倒ではなく、その車なりの走
らせ方がある。

RZのフロントの脆弱性の対処
では、大抵は左右フォークを
連結させるスタビライザープ
レートを誰もが個人カスタム
で装着させていたが、ただ固
めるだけではセッティングが
出にくかったようだ。
私は疑問があったのでやらな
かった。
それよりもブレーキそのもの
とタイヤにこだわった。
その後のRZRになってからは
ノーマルで完璧なフロントセット
となり、時を一にして「ハンド
リングのヤマハ」と言われる時
代になっていた。
それ以前のヤマハは実はホンダ
以上にハンドリングがひどいも
のだった。
ミドルレーサーで神マシンの
ように完璧さを持っていたのは、
70年代末期〜80年代初期にお
いてはカワサキのワークスマシ
ンだった。
そして、多くの人が歴史を誤認
しているが、日本二輪史で「レ
ーサーレプリカ」として一番最初
にこの世に登場した公道モデル
は、ワークスマシンKRをイメージ
したAR50だった。


RDよりもRZのほうが車として
は優れている。
さらに、RZよりもRZRのほう
が優れている。
そんなことは分かっている。
だが、カワサキKHよりも断然に
それ以前のマッハSSがいいよう
に、RZよりもRDにある種の思い
入れがある。
TZにしても85TZよりも83TZの
ほうが良い車である、というよ
うなものとは別な車体能力とは
別次元の感情移入として。

ただ、一つ確かな定理は存在する。
これは現代にも通じるものとして。
「最新の物が最良である」と思い
込むのは、それはあまりにもクル
マの事を知らなすぎる、という
真実の定理だ。
最新物が何でも良いならば、最新
型はすべて「名車」になってしま
う。
だが、現実はそうではない。

自分遺産 ~新宿御苑~

2023年06月04日 | open




私が初めて二足歩行したのは
新宿御苑だった。
生後10ヵ月。
私はハイハイをせずにいきなり
立って歩いたのだという。
母は驚いたと話す。

不思議なもので、私の子も一切
這う事はせず、いきなり立った。
生後8ヵ月で言葉をしゃべり出
したが、その後にすぐにいきなり
立った。
私の子が初めて発した単語は
犬の名前だった。
私が初めて自分の力で立った
のが新宿御苑だが、そのずっと
後年、新宿区に馴染み、新宿区
に長く住む事になるとは思いも
しなかった。
私の子も新宿区で生まれた。
地方の人は知らない事が多いが、

新宿区は都庁がある副都心と
新宿駅反対側の繁華街のみが
ビル群
なだけで、あとは新宿区
は一面
びっしりと住宅街だ。
そして学校だらけ。

住宅の街、人の街が新宿なので
ある。それは、旧江戸の府内の
頃からそうだった。
江戸期は旗本武家屋敷と寺が
立ち並ぶ坂の多い街だ。


自分の子が自分と同じようにいき
なり立ち上がったのでかなり驚い
が、そうだと思いつき、新宿
御苑
に連れて行った。御苑は江戸
期には信濃高遠藩内藤家の下屋敷
だった。

新宿御苑の芝生の上で、子どもは
とても楽しそうにしていた。

1才3ヵ月の時には年を訊かれると
1本を出して答えていた。
1才半ではごく普通に大人と会話
できていた。
人間の成長は早い。
そして、老いも早い。
50年、60年などはアッという間だ。
やがて親は死に、私も妻も子も
いずれは
死ぬ。
それは100%だ。

その流れは誰にも止められない。
そして、成長する事も老いる事も
誰も笑う事はできない。
自分もその道を100%辿るからだ。


自分遺産 ~中目黒界隈~

2023年06月04日 | open



世界遺産ならぬ自分遺産という
ものは誰にでもあると思う。
生まれた場所や住んだ場所、
思い出のある場所などは、動か
しがたい歴史に刻まれた事実と
して存在するからだ。
そういう場所は誰にでもある事
だろう。

私も生まれた街には思い入れが
ある。
幼稚園に入る前までだが、生ま
れた場所の記憶は鮮明に残って
いる。

ここは私の生まれた時の家から
ほんの歩いて数十秒の所だ。

今はオシャレなカフェや雑貨屋
が立ち並ぶエリアとなったが、
60数年前は山手通り沿いは京浜
工業地帯の一画を成し、町工場
が山手通り環状六号線沿いに
連なっていた。
寿司屋や居酒屋等の飲食店も
多かったし、銭湯も点在して
いた。
目黒川は私が生まれた頃には
もうすでに三面護岸になって
いたが、川沿いには店舗では
なく住宅がひしめいていた。
今は飲食店等の店舗通りにな
っている。


家のすぐそばの西郷山から
見る東京の風景は格別だった。
私が初めて二足歩行したのは
新宿
御苑だったが、家の近所の
西郷
山も目の前に広がる街の
景色が
素晴らしかった。
ここ西郷山は、現在でもデート
スポット
としても人気がある
ようだ。

夜景が美しいが、昼間もかなり
おすすめ。

今は青葉台二丁目という地名
になったが、昭和30年代は
上目黒という地名だった。
上目黒一丁目二丁目が青葉台
一丁目二丁目となり、さらに
別エリアと分離して現在の上
目黒という場所になった。
今の上目黒=旧来の上目黒では
ない。
今の青葉台が従来の上目黒の
中心だった。

西郷山の上は高台の丘で、旧
山手通りが通っている。
新山手通り(環6)は目黒川に
沿った場所にあるが、旧来の
山手通り(環5)はかなりの高
の上にある。
ここらあたりは、昔も今もとても
よい場所だ。

旧山手通り。空が近い。


京浜島で見た女の子

2023年06月04日 | open



1984年夏。
東京湾上の京浜島をガンマと
友人のFXの2台で走っている時、
この年の5月に出たばかりの
ヤマハFZ400Rに乗って流して
いる女の子を見た。女優の滝川
真子ちゃんだった。


その前に、蒲田のむげんの店内
で見かけた時もFZ400Rで来て
いた。
サバゲ用の狙撃銃を作りに来て
いたようだった。
「所さんとかの銃はあたると
もう痛くて」
なんて言ってた。
店長は銃を組み立てながらも、
「真子ちゃんは仕事柄、顔だけ
はちゃんとガードして気を付け
てよ。ほんとに」と言っていた。
「は~い」と真子ちゃんは答えて
いた。
実物は滅茶苦茶かわいかった。
目をそらさずにじっとこちらを
ずっと見る(笑)。
映画とかの映像で見るよりも遥か
に実物は可愛かった。
年は私の3つ下だったが、いつの
間にか5つ下のプロフィールに
なっていた(笑)。
背は私よりも10センチ位低かった。
バイクではピンクのヘルメット
を被っていた。
京浜島で見た時、すぐに滝川さん
だと判った。
女性特有の背骨がそっくり返って
お尻を後ろに突き出す変な乗り方
ではなく、上体を脱力させて背中
も自然に曲げて、きちんと乗れて
いた。


ただ、思った。
映像作品で見るよりも実物のほう
が遥かに可愛いというのは、映像
監督は何やってるのだろう、と。


東京快速ロードマップ ~京浜島~

2023年06月04日 | open


(京浜島 June,1983 on HONDA MBX50)







40年程前、東京湾の京浜島は
夜景と走りのエリアだった。
向かいには羽田空港があり、
夜、飛行機が離発着する光景
はとてもドラマティックだった。

40年後の2023年は道割りが
変わり過ぎた。
島内の周回もできなくなった。

1984年の京浜島。赤矢印が上掲
画像の私がブレーキングしている
コーナー。


(2023年)


旧道の痕跡が残っている。
かつては対面通行で直角の
コーナーだった(上掲トップ
の画像)。今は右回り通行で
Rを緩く取り、内側に一方通
行の新道が開通している。
これはこれで右の複合コーナー
で現況も面白いダブルコーナー
になった。このワンスポットだ
けでも面白いポイントとなって
いる。一方通行ノーシグルナル。
走り屋がいた頃ならばベスト
スポットとなっただろうが、
走り屋も乗り屋もほぼ消滅した
現在、ここをわざわざ走りに行く
人はまずいないだろう。


昭和島も京浜島も高速道路開通
による大改修により、一方通行
が増え、道のレイアウトも大変
更された。

しかし、今は走りのスポットと
してではなく、風景を楽しむ
場所として訪れる人もいる。
京浜島は東京の穴場だ。
景色と雰囲気。
かつて周辺は今の未来都市の
ようなものではなく、貯木場
や野鳥公園がある自然あふれる
場所だった。今は台場周辺も
湾岸未来都市然となってしま
った。
だが、ここ京浜島の臨海エリア
は島内の道割りは変われども
海の景色と公園の造作はそのまま
だ。憩いの場所。ドライブや
ちょい乗りツーリングにもおす
すめの穴場。

二輪で訪れる人もまだいるようだ。




この風景だけは40年前と一つも
変わっていない。
夜、一人でここに来る。
あるいは友と恋人と来る。
落ち着いた時が流れる。
京浜島の公園から見るこの
景色は昔のままだ。


時を刻んでも変わらぬ風景。
変わらぬ場所。
いつもそこに行けばそれがある。
それゆえに落ち着ける。
東京ではこうした場所は珍しい。


東京快速ロードマップ ~昭和島~

2023年06月04日 | open



(83ガンマ1型)

ここ。
40年近く前は車線ガードレールも
ゼブラも無かった。四輪も二輪
もあまりにオーバーランでの事
故が多いためにセンターライン
にガードレールという珍しい物が
設置された。






事故防止のためか、現在は道路
のレイアウトが変更になり、島
内は簡単に周回できないように
なっている。


かつては周回できるレイアウト
で、都内では密かな走りスポット
だった。