した事も、まるできのうの
ように覚えている。
以上前からゴロゴロいる。
オートバイ乗りだ。
私が初めて二足歩行したのは
新宿御苑だった。
生後10ヵ月。
私はハイハイをせずにいきなり
立って歩いたのだという。
母は驚いたと話す。
不思議なもので、私の子も一切
這う事はせず、いきなり立った。
生後8ヵ月で言葉をしゃべり出
したが、その後にすぐにいきなり
立った。
私の子が初めて発した単語は
犬の名前だった。
私が初めて自分の力で立った
のが新宿御苑だが、そのずっと
後年、新宿区に馴染み、新宿区
に長く住む事になるとは思いも
しなかった。
私の子も新宿区で生まれた。
地方の人は知らない事が多いが、
新宿区は都庁がある副都心と
新宿駅反対側の繁華街のみが
ビル群なだけで、あとは新宿区
は一面びっしりと住宅街だ。
そして学校だらけ。
住宅の街、人の街が新宿なので
ある。それは、旧江戸の府内の
頃からそうだった。
江戸期は旗本武家屋敷と寺が
立ち並ぶ坂の多い街だ。
自分の子が自分と同じようにいき
なり立ち上がったのでかなり驚い
たが、そうだと思いつき、新宿
御苑に連れて行った。御苑は江戸
期には信濃高遠藩内藤家の下屋敷
だった。
新宿御苑の芝生の上で、子どもは
とても楽しそうにしていた。
1才3ヵ月の時には年を訊かれると
指1本を出して答えていた。
1才半ではごく普通に大人と会話
できていた。
人間の成長は早い。
そして、老いも早い。
50年、60年などはアッという間だ。
やがて親は死に、私も妻も子も
いずれは死ぬ。
それは100%だ。
その流れは誰にも止められない。
そして、成長する事も老いる事も
誰も笑う事はできない。
自分もその道を100%辿るからだ。
世界遺産ならぬ自分遺産という
ものは誰にでもあると思う。
生まれた場所や住んだ場所、
思い出のある場所などは、動か
しがたい歴史に刻まれた事実と
して存在するからだ。
そういう場所は誰にでもある事
だろう。
私も生まれた街には思い入れが
ある。
幼稚園に入る前までだが、生ま
れた場所の記憶は鮮明に残って
いる。
ここは私の生まれた時の家から
ほんの歩いて数十秒の所だ。
今はオシャレなカフェや雑貨屋
が立ち並ぶエリアとなったが、
60数年前は山手通り沿いは京浜
工業地帯の一画を成し、町工場
が山手通り環状六号線沿いに
連なっていた。
寿司屋や居酒屋等の飲食店も
多かったし、銭湯も点在して
いた。
目黒川は私が生まれた頃には
もうすでに三面護岸になって
いたが、川沿いには店舗では
なく住宅がひしめいていた。
今は飲食店等の店舗通りにな
っている。
家のすぐそばの西郷山から
見る東京の風景は格別だった。
私が初めて二足歩行したのは
新宿御苑だったが、家の近所の
西郷山も目の前に広がる街の
景色が素晴らしかった。
ここ西郷山は、現在でもデート
スポットとしても人気がある
ようだ。
夜景が美しいが、昼間もかなり
おすすめ。
今は青葉台二丁目という地名
になったが、昭和30年代は
上目黒という地名だった。
上目黒一丁目二丁目が青葉台
一丁目二丁目となり、さらに
別エリアと分離して現在の上
目黒という場所になった。
今の上目黒=旧来の上目黒では
ない。
今の青葉台が従来の上目黒の
中心だった。
西郷山の上は高台の丘で、旧
山手通りが通っている。
新山手通り(環6)は目黒川に
沿った場所にあるが、旧来の
山手通り(環5)はかなりの高
台の上にある。
ここらあたりは、昔も今もとても
よい場所だ。
旧山手通り。空が近い。
1984年夏。
東京湾上の京浜島をガンマと
友人のFXの2台で走っている時、
この年の5月に出たばかりの
ヤマハFZ400Rに乗って流して
いる女の子を見た。女優の滝川
真子ちゃんだった。
その前に、蒲田のむげんの店内
で見かけた時もFZ400Rで来て
いた。
サバゲ用の狙撃銃を作りに来て
いたようだった。
「所さんとかの銃はあたると
もう痛くて」なんて言ってた。
店長は銃を組み立てながらも、
「真子ちゃんは仕事柄、顔だけ
はちゃんとガードして気を付け
てよ。ほんとに」と言っていた。
「は~い」と真子ちゃんは答えて
いた。
実物は滅茶苦茶かわいかった。
目をそらさずにじっとこちらを
ずっと見る(笑)。
映画とかの映像で見るよりも遥か
に実物は可愛かった。
年は私の3つ下だったが、いつの
間にか5つ下のプロフィールに
なっていた(笑)。
背は私よりも10センチ位低かった。
バイクではピンクのヘルメット
を被っていた。
京浜島で見た時、すぐに滝川さん
だと判った。
女性特有の背骨がそっくり返って
お尻を後ろに突き出す変な乗り方
ではなく、上体を脱力させて背中
も自然に曲げて、きちんと乗れて
いた。
ただ、思った。
映像作品で見るよりも実物のほう
が遥かに可愛いというのは、映像
監督は何やってるのだろう、と。
(京浜島 June,1983 on HONDA MBX50)
40年程前、東京湾の京浜島は
夜景と走りのエリアだった。
向かいには羽田空港があり、
夜、飛行機が離発着する光景
はとてもドラマティックだった。
40年後の2023年は道割りが
変わり過ぎた。
島内の周回もできなくなった。
1984年の京浜島。赤矢印が上掲
画像の私がブレーキングしている
コーナー。
(2023年)
旧道の痕跡が残っている。
かつては対面通行で直角の
コーナーだった(上掲トップ
の画像)。今は右回り通行で
Rを緩く取り、内側に一方通
行の新道が開通している。
これはこれで右の複合コーナー
で現況も面白いダブルコーナー
になった。このワンスポットだ
けでも面白いポイントとなって
いる。一方通行ノーシグルナル。
走り屋がいた頃ならばベスト
スポットとなっただろうが、
走り屋も乗り屋もほぼ消滅した
現在、ここをわざわざ走りに行く
人はまずいないだろう。
昭和島も京浜島も高速道路開通
による大改修により、一方通行
が増え、道のレイアウトも大変
更された。
しかし、今は走りのスポットと
してではなく、風景を楽しむ
場所として訪れる人もいる。
京浜島は東京の穴場だ。
景色と雰囲気。
かつて周辺は今の未来都市の
ようなものではなく、貯木場
や野鳥公園がある自然あふれる
場所だった。今は台場周辺も
湾岸未来都市然となってしま
った。
だが、ここ京浜島の臨海エリア
は島内の道割りは変われども
海の景色と公園の造作はそのまま
だ。憩いの場所。ドライブや
ちょい乗りツーリングにもおす
すめの穴場。
二輪で訪れる人もまだいるようだ。
この風景だけは40年前と一つも
変わっていない。
夜、一人でここに来る。
あるいは友と恋人と来る。
落ち着いた時が流れる。
京浜島の公園から見るこの
景色は昔のままだ。
時を刻んでも変わらぬ風景。
変わらぬ場所。
いつもそこに行けばそれがある。
それゆえに落ち着ける。
東京ではこうした場所は珍しい。
(83ガンマ1型)
ここ。
40年近く前は車線ガードレールも
ゼブラも無かった。四輪も二輪
もあまりにオーバーランでの事
故が多いためにセンターライン
にガードレールという珍しい物が
設置された。
事故防止のためか、現在は道路
のレイアウトが変更になり、島
内は簡単に周回できないように
なっている。
かつては周回できるレイアウト
で、都内では密かな走りスポット
だった。