マイビーノ。
めちゃくちゃ可愛い。
いろいろ、手を加えた。
亀裂の入ったインシュレーター
の交換、キャブオーバーホール、
ブレーキオーバーホール等の通
常メンテから、前後サス交換、
マフラー交換、シート交換、エン
ジンいじり、原二登録等々、
結構手をかけてる。
インシュレーターは10年程で
オシャカになるようだ。
規制前の2型2001年モデルで、
この2001年から盗難防止のキー
シャッターが付いた。
そして、2004年からは2スト
モデルが廃止となり4ストロ
ーク車にフルモデルチェンジ
となった。
現代のヤマハビーノは業務提携
によりホンダで製造されている。
私のこれはヤマハ純正。
2ストのヤマハ。
ヤマハの2ストが、1970年代
初期に2スト全廃の世界的圧力
を絶った。
排ガス規制というのは欧米に
よる自国車販売促進の為の政
治的圧力だ。現在まで続く環
境問題を理由とした排ガス規
制は全て政治的思惑によるも
のなのだ。環境の事などは資
本は本気で考えていない。
全部自国優位性の確保の為に環
境問題を建前にして排ガス規制
を欧米がかけて来ている。
小出し規制という意味不明な
描かれた図式により。
だが、その真実を知悉する
アメリカは一抜けして京都
議定書調印を拒否した。
真実の実体が何であるのか
よく判る図式だった。
ヤマハは台頭して以降、その
後40年間世界の雄たる世界グ
ランプリで「2ストの時代」
を築いた。それはイコール日本
車のみが勝てた時代を打ち立
てた。
世界グランプリで日本車が頂
点の王者に君臨できたのは、
ヤマハがそれを築いたので
あった。4ストのホンダでは
ない。ヤマハがいたから日
本車が世界トップになれた
のだった。
そして、スズキ、カワサキが
ヤマハに続いて高度な戦闘力
を持つ2ストのワークスマシン
を投入する事で「日本車で
ないと勝てない」という絶
対王者の時代を形成した。
カワサキなどは250と350では
ヤマハさえも突き放す圧倒的な
戦闘力で、何年も世界チャンピ
オンをカワサキの2ストが取り
続けた。
日本メーカーなのにホンダは
世界戦では全くお呼びでなか
った。
そしてホンダはやむなく勝つ
為に2ストマシンの開発に着手
し、1982年にWGPに初めて
2スト車を登場させ、ヤマハvs
ホンダ戦争に突入。翌年1983
年にはヤマハのケニー・ロバ
ーツとホンダのフレディ・ス
ペンサーの一騎打ちという、
グランプリ史上唯一の名勝負年
を作った。
1983年の世界グランプリでは、
全戦で優勝したのはケニーか
フレディかしかいなかった。
総合年間優勝のポイント争い
は最終戦までもつれこみ、激
戦の上、レースはケニーが圧
倒的速さで優勝したが、総合
ポイントではフレディが世界
チャンピオンとなった。
そして、ヤマハ対ホンダの
大激戦はその後21世紀初頭
まで続くのだった。
世界のモーターサイクルの
「日本車が世界一」の歴史
はヤマハが作ったのだといえ
る。ホンダの4ストではない
し、カワサキのビッグバイク
でもない。
日本車のメーカー各社が互い
に切磋琢磨競い合う事で世界
の頂点に立ったが、そのきっ
かけは、「ヤマハの車でない
と世界戦では勝てない」とい
う世界地図の描き変えをヤマハ
が1970年代初期に実現させた
からだ。
ヤマハの2スト、2ストのヤマハ
が世界を変えた。
それ以前にもスズキが世界戦
で2ストで実力を示していた
が、中〜大排気量車での勝負で
欧米を負かしたのはヤマハが
初めてだった。
ハーレーでさえ、イタリアの
メーカーを買い取ってハーレー
製2スト車を投入してようやく
2年程世界チャンピオンになっ
た程だった。
英国車とイタリア車の王座君臨
を引きずり下ろしたのはヤマハ
だった。
ヤマハ台頭以降は、日英伊の
三国鼎立ではなく、日本車の
みが突き抜けたトップになり、
不動の世界チャンピオン(歴代
優勝回数はギネス)のイタリア
のジャコモ・アゴスティーニ
さえも2ストのヤマハに移籍
させる快挙をヤマハは演じた。
ヤマハが世界の歴史を変えた
のである。
ヤマハは2ストこそがヤマハ
らしさを体現していた。
だが、世界グランプリでの
ヤマハvsホンダの図式の前哨
戦は1976年にホンダがミニ
バイクの世界で国内で仕掛けた。
ファミリーバイクという日本
独自の原付行政に目をつけた
ホンダがラッタッタのロード
パルを女性に売り込む事に成
功し、その後2010年代まで
続く原付主婦女性層をホンダ
が獲得した。
ヤマハも黙ってはいず、日本
に途絶えて久しい「足を揃えて
乗れる」スクーターをパッソル
という原付で翌年1977年に復
活させた。ヤマハがスクーター
を日本に復活させた。
ホンダも即スクーターを出し、
スズキも続いた。
カワサキ初の二輪は実はスク
ーターだったのだが、かつて
スクーターを作ったカワサキ
のみはミニバイク原付市場に
は参入しなかった。
ヤマハとホンダの市場争いは
ホンダ追撃の形でヤマハが猛
追した。
昔、ビーノを入手したその日に、
高校時代に所属していたヤマハ
系レーシングチームからの借り
物のパッソル以来の久々のスク
ーターが面白くて走り回った。
気づいたら、その日の晩に120km
を走っていた。
その時のひとコマ。
ピストンやクランクベアリング、
シール、ホイールベアリング等
を交換して、まだまだ乗り続
ける。
そのうちエンジン腰下を完全OH
するかも。