渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

北総台地

2023年06月23日 | open
 


 
本当に死地だった。
だが、農民にとっては生きる
生活の場だった。
半年間の毎日、現闘として生活
した。
毎朝5時起きで夕暮れまで農作
業に精魂傾けた。
援農というニワカの農作業支援
であっても必死に働いた。
金銭的報酬などは無い。毎朝
納豆飯が食えるだけだ。
ただ、本物の笑顔が農家の人々
にやって来る事だけを願う事が
私たちの報酬だった。
僕ら支援は、そのかけがえの
ない笑顔を報酬とする「傭兵」
った。
傭兵を忌避してはいけない。
クロサワが描いた「七人の侍」
たちも、見紛う事なき傭兵で
ある。

ニケツ

2023年06月23日 | open



タンデムの事をニケツという。
最近の人たちはニケツしない
らしい。
オートバイは一人で乗る物だ
から、なのらしい。
それは正論だ。
ただ、人の世の中、正論が正義
でも正統でも無い事を知ってい
るのだろうか、という疑問は
持つ。
自動二輪で複座で車検を通って
いるのは、二人乗りが前提の乗
り物として認可登録されている
からだ。

ニケツはソロ運転とはまた別な
楽しさがある。
うちなんて、かみさんが「娘
さん」だった頃に後ろに乗せて
あちこち行ったりしてたら、
いつの間にか自分で二輪に乗り
出して、知らぬ間に自動二輪の
免許まで取ってたもんなぁ。
気がつきゃ、俺が走るサーキット
のピットでボード出してた。

大笑いの嘘みたいな本当の話が
ある。
学生時代のある真夏、俺は九州
にいた。
大分の竹田城のほとりで高台か
らロードを見ていたら、パーン
と吹け切ったいい音をさせて
彼方から走って来るオートバイ
がいた。
「いい音させてるなぁ」とか
思って見ていたら、俺が叔父
から貰ったのと同じ革ジャン
で見慣れたヘルメットの女の子
らしき人がパァーーンと駆け抜
けて行った。
マシンも見慣れたモデルだ。
「やあ、世の中似てる人はいる
もんだね」とその時は思った。
横浜に帰って、その事をのちの
かみさんに話すと、「え?日時
いつ?」と言う。
詳しく話したら「それ!あたし!」
と言う。
なんとー。
俺のアルアル物語の始まりはこれ
だった。
世の中、ほんの数分違ったら、
すれ違いで全く出会いもコンタ
クトも無い事が人と人にはある。
だが、かなりの場面で、それは
我々が知らされていないだけで、
天からしたら「予定通り」の事
が実はかなりある。
出会いの不思議体験は、天に
導かれている。
但し、それであると脳内妄想
て、それらしい事を口にして
近して来る族は、まずニセモノ。
大抵は、テメエ大事の裏切りを
いけしゃあしゃあとやって、
パッと一方的に連絡を断つ。
それだけならよいが、散々てめ
えが私淑してた風をぬかしてお
きながら、一転してこちらを小
汚く攻撃する側に回る。
「敵」である。真の。
そもそも、スパイは現代でも
即死刑が世界の常識だ。
ぬるい日本で、死地とは無縁
の出鱈目な生き方をして来た
からそうした事ができる。
俺から言わせると、完全に
「あっち」の人間だ。
俺には無縁だ。

これ、結構大切で、武士とは
そういうものだったろうし、
実際にそういうものだ。
それは時代や時空を凌駕する。


キャンディカラー

2023年06月23日 | open



梅雨が明けたら、秋の長雨まで
に動力付キックスケーターを
全塗装でキャンディカラーに
挑戦してみようと思う。
出荷時から20年以上が過ぎて、
かなりワインレッドカラーが
くたびれてきているので。
本職さんには敵わないが、高校
時代から今までメットやタンク
やビリヤードキューがどうにか
うまい事行ってたので、何とか
なるだろう。
塗装自体に手を染めたのは、
半世紀以上前のプラモからだ。
おいらのジオラマ作品がタミヤ
ニュースに載った。小学生の時
だ。
中高ではほとんどプラモは作ら
なかったが、高校時代には自分
のヘルメットやタンクを塗った。
まあ、素人のナンチャッテなの
だが、それなりに楽しめたし、
仲間も自分でやるのが常識だっ
た。

この後ろのブルーのメットと
手前右の白ヘルのRZのタンク
も自分らでやったらしい。
なかなか光ってた。
参加者は当然全員が革着てる。
クラスメートたちと奥多摩まで
ちょいツーの時のpicだ。高2。
白ヘル白パンの青いKHの奴は
俺の友人で、埼玉県立浦和第一
高校の奴だ。髪型はリーゼント。
通ってるガッコは埼玉県でトッ
プの進学校で、多くが東大や京
大や大、早慶に行く。
それがこれ(笑
俺らの時代、そんなもん。
俺の友人だったが、文京区の
うちのガッコ仲間のちょいツー
に誘ったら「行く!」という
のでみんなに紹介して共走り
した。二輪乗りとの事ですぐ
に互いに皆が打ち解けていた。
俺らは俺らであり、俺らのライ
スタイルはくだらないものに
束縛されはしなかった。
いい子ちゃんの真面目クンぶっ
市民警察気取りの連中がわん
さかの今の時代がはっきし言っ
異常。きもすぎる。
ちょいと尖った走りしただけで、
あいつは危険走行してるとかネッ
トで騒ぎ立てて、おまえはダニか
ダンゴムシかっつーの。
逝ってよし(古

そん時のちょいツーの俺(前)。

正しい少年の姿です。

これらも。







赤いオートバイ

2023年06月23日 | open
 

1977年、高2。
 
昔から赤いオートバイが好き
だった。それは今も。
 
 
ヤマハもインターカラーは
と白。
これは日の丸を表して
いる。
 
 
モーターサイクルスピリット
のベースは赤。
カワサキでさえグリーンの前
のメーカーカラーは赤だった
(なので今も赤いモデルを出
し続けている)。
ハートの中心幹は赤。
これは揺るがない。

 
オマケで赤のビーノ(笑


ダックテール

2023年06月23日 | open





ダックテールとはこれのこと。
リーゼントというのは和製語。


江夏の談話

2023年06月23日 | open



興味深い話。
江夏豊氏が激白「江夏の21球」のその後 冷戦状態の翌年開幕戦で早退宣言→古葉監督が直接謝罪 江川氏に明かす(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

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Yahoo!ニュース

 



スノーボード

2023年06月23日 | open


スキーよりもスノボの人気が
上回った歴史的理由を知りた
い。
犬派よりも猫派が優勢になった
歴史的な背景は何となく想像が
つくが。

日本のビリヤード情勢において、
キャロムの四ツ球よりもポケット
が広まって一気に主流が逆転し
た理由はこれはもう明白だ。
それはプラザ合意以降の日本の
金融緩和政策から始まった1986
年からのバブル経済を背景に、
その時期にポール・ニューマン
がアカデミー賞を初めて受賞し
た映画『ハスラー2』が1986年
の年末に日本で公開され、空前
絶後のビリヤードブームが突如
到来したからだ。
それまで日本では玉撞きといえ
四ツ球かスリークッションの
を指していた。
アメリカンプールは米軍基地の
ある街だけのゲームだった。
それが1986年を機に一気にひっ
くり返った。
1987年には街のあちこちに
プールバーなる飲食をしながら
玉撞きができるカフェバーが
乱立した。
数百メートルの通りの中に数軒
開店する程に。
学生や若いサラリーマンやOL
で連日連夜大盛況だった。
街中の撞球専門店も長蛇の列で、
玉台待ち8時間などという記録
まで東京では出た。
そのうち、ほぼ全店が予約制に
なった。
街のビリヤード場は一挙的に
キャロムビリヤードからアメ
リカンプールに様変わりした。

ブームは長くは続かない。
1990年にバブルは弾けた。
ただ、まだ好景気の余韻は残り、
本格的な真冬が来るのは1994
年頃だった。
バブル経済の終焉と共に狂喜乱
舞のビリヤードブームは去り、
ニワカたちは玉を撞かなくなっ
た。
残ったのは、本気で撞球をやろ
うとしている人々のみだったが、
それが本来のスポーツの姿だ。
娯楽としての酒を飲み食いなが
らの玉突きなどは終わり、本物
たちが残った。
そして、本物たちが残ったあと
からの世代は、本物たちしか
周囲にいないので尚更本物たち
になって行った。
今、その世代が中年になり中堅
層を形成している。皆さん、で
きる。
そして、その後はアミューズメ
ントが登場して、また玉突きは
玉撞きではなく突っ転がしの
レジャー遊びとなった。
そのアミューズメントで育った
層は本物の撞球を知らないので、
礼儀作法もへったくれもない。
無論、本物を求める者たちは
本物のビリヤード場に行った。
アミューズメントからは選手
などは登場しない。する道理
が無い。温泉ピンポンと同類
だからだ。縁日の出見世の
射的屋から射撃選手は生まれ
ない。
現在、撞球に通じている者た
ちは、年齢プロアマ関係なく、
全員玉屋育ちだ。全員が。
それは大学の高度学問を学ぶ
のには大学に行かないとなら
ない、というのに等しい。
学校に行かなかったり義務教
育までではアカデミックな専
門学術探求の深化は無理だ。
まともなプレーヤーは全員が
もれなくビリヤード場育ちの
玉屋出身である。
そして、時代を40年超えても、
残っている文化がある。
それは、初めて相撞きの手合
わせをした相手には、ホーム
の側の人間が必ず相手に尋ねる
のだ。
「普段はどちらで撞いてらっし
るのですか?」
と。
これはいわば道場流派名を尋ね
るのに等しい。
あるいは、「卒時ながら、いず
れの御家中か」というような。
しきたりではないが、本物の
撞球人たちには、今でもその
文化が活き活きと生きている。
礼節を重んじる日本人の伝統だ。

クールスのヒロシ(舘ひろし)と時代性

2023年06月23日 | open




「★ヒロシ coolsの
ボス!!
★絶対的権力を握る
謎の人物、ボス。
頭が切れ団員から
の人望があつい。」

とのことです。
1974年の年末頃か。
原宿のセントラルアパートの
喫茶店にクールスは屯してい
た。いる時は、表にオートバイ
がずらりと並んでいるので分か
った。
原宿セントラルアパートは
その後ティーズになり、それ
も解体されて今は東急プラザ
になっている。

オープンカーに乗っている
のはキャロルのメンバー。


キャロルの矢沢永吉はデビュー
直前はマッシュルームカットの
モッズ系だった。
それがジョニー大倉の強力な推し
によってリーゼントスタイルに
変身した。
一方クースルは英国ロッカーズ
系の二輪チームだったが、のち
に段々とリーゼント一色系に
なった。

1970年代中期。時代はリーゼント
が日本の若者を中心に復活しつつ
あった。
1976年、男子校だった私の高校
は、学園で男子校、女子高、男女
共学の商業高校の3校があり、
体育のプールの時間には女子高
生徒と同じ時間帯になる事も
あった。
ところが、我々がプールに入る
と頭髪のポマードが水面に流れ
出して、女子高生たちが「わぁ~」
と騒いで入るのを嫌がった。
それ以降、学校での整髪料使用
は校則にはないが事実上教師の
指導として禁止になった。
が、リーゼントボーイズはそん
な事はお構いなしでヘアスタイル
を変更しなかった。「突っ張っ
て」いるのである。面白い。
学力別クラス編成の高校だった
が、高偏差値の進学クラスも
ほぼ全員がリーゼント(笑)。
特進クラス以外の一般クラス
などはほぼ全員がリーゼント。
そういう時代だった。学内で
イジメはゼロ。ツッパリ君も
真面目君も非常に仲が良かった。
ただし、「暴力の時代」である
ので、校友を裏切ったり陰口を
きいたりしている者は引きずり
だされてスボコにされた。
今の時代みたいにネラーのよう
なクズのカスは世の中に生存で
きない時代でもあった。
進学校でリーゼント少数だった
のは慶応等の大学附属や開成や
麻布、武蔵程度だったのでは
なかろうか。
うちの高校はむしろ長髪が学校
の規制対象になっていた。理由
は「長髪でロックをやるのは不
良」との時代錯誤の学校側の認識
からだ。時世を解かってない(笑)。
学園祭でのエレキの使用も禁止
だった。ピエゾは可。
ツッパリ君は身だしなみをビシッ
としていたので、取り締まり対象
外だった。カバンはぺったんこ
で誰もがロックを聴いていたが。
聴く音楽によって人にレッテル
を貼って取り締まり対象とする。
内申書にも影響する。
そうしたふざけた時代が日本には
あった。
だからこそ、ツッパリたちは
身を張って抵抗した。
東京での1970年代のティーン
エイジャーたちのツッパリ文化
はカウンターカルチャーだった
のである。

かつては1950年代には、日本の
男性は米国の影響でリーゼント
スタイルが流行していた。
これは抵抗文化とは違った世相
で。アメリカへの憧憬系統だ。
1960年代に入り、ビートルズが
リーゼントロッカーズスタイル
から長髪にマネージャーの方針
でスタイルを変更してから、ア
メリカのヒッピーブームと反戦
風潮に影響され、全世界で男性
の長髪が一般化した。
日本も漏れなく長髪男子の時代
になっていた。
ビートルズに憧れた矢沢永吉も
当初はその路線だったが、方向性
を変えてあえてリーゼントの
オールドスタイルにした。

日本の1970年代のリーゼント復活
はキャロルとクールスが牽引した
といっても過言ではないだろう。
そして、日本国内には空前絶後
のツッパリブームが発生したの
が1970年代前半末期だった。
ツッパリは今でいうヤンキーとも
異なる独自の文化だった。
不良少年ではあるが非行少年で
はない独特の抵抗文化。
それゆえ「突っ張る」のだ。
抵抗する事を旨としていた。
ツッパリとオールドロック好きは
似ていて共通項もあったが、厳密
にはオールディーズを好む層と
1970年代当時のツッパリは別な
位相として存在した。

ただ、実相としては、地方に行け
ば行く程、ツッパリ=非行少年と
いう実態があった。
東京都心と違い、「勉強も運動
も何もできない落ちこぼれ」が
非行化していわゆるツッパリ
スタイルの服装と髪型をして
イキっているのが田舎の疑似
ツッパリの多くの実体だった。
都心の東京とは中身そのものが
違っていたのだが、この歴史の
実相の真実を伝える情報は多く
はない。
そして、田舎の不良は都会の
ツッパリのようにビッとして
いなくて、なんだかだらしない
服装のナリをしていた。

付言すると、東京でもツッパリ
カットとリーゼントは厳密には
違っていた。
本物のリーゼントはダックテール
に後ろをまとめる。
ツッパリカットの場合は、後ろ
はストンだ。
サイドバックにするのは両者
同じ。
リーゼント文化の歴史を知らない
年が8才下の友人が先週「リー
ジェント、リージェント」と言っ
ていたが、それ、ヨーロッパと
広っぱくらい違うと思う。


馬車

2023年06月23日 | open



なぜ日本では明治まで馬車が
存在しなかったのか。
それは、「乗り物は特権階級
のみが乗るもの」という価値
観を日本の支配者が作って来
たからだ。
籠にしても馬にしてもそうだ。
古くは日本には貴族のうちの
さらに上級の一部の者のみが
乗れる牛車(ぎっしゃ)があった。
馬に乗れるのも限られた上級
階級の者のみだった。
武士が貴族から政権を奪って
から以降は、武士は貴族が作っ
た階級制度を利用して君臨した。
そして、乗馬階級と徒歩階級に
分け、同じ武士の中にも細かい
差別的な階級制度を導入した。
そして、そうした統治体制は、
「人民が迅速に移動できなく
させる」事が統治の一つの要
となった。俊足移動が可能なの
支配者階級のみとさせるの
だ。
天皇が成した街道整備は、天皇
親政時代の律令制確立の為に
全国から税を徴収、人を徴兵
させる為に実行された。人々の
暮らしの為などではない。
約16km毎に置かれた駅家(うま
や)は、それら徴兵徴税の為の
中継駅だった。
だが、天皇は人民をどんなに
遠隔地であろうとも歩かせた。
駅家に20疋ほど育成されてい
た馬はヒトを乗せるのではな
く、貢物を運んだり伝令の為
に存在させられた。人は歩き、
支配者のみが乗馬した。

古代街道は急峻な山岳地帯も
通った。
そうした地形的条件と支配体
制の統治概念から、日本では
馬車が登場しなかった。
人が迅速に自由に移動しては
ならない世の中に貴族やその後
の武士階級はさせたかったから
だ。
それゆえ、誰でも考えつきそう
な馬車という乗り物は、自由を
重んじる世界ではない真逆の
体制社会の日本では発達しなか
った。

西欧でも馬車は元々は貴族階級
のみの為の物だった。
アメリカは自由の国であるゆえ、
階級は存在せず、全員が平民で
あるので誰でも馬車や馬に乗っ
て移動できた。
貧富の差は階級とは異なる。
金持ちは単なる金持ちでしか
なく、貴族でもない。
誰でも金持ちになれるし、また
貧乏のどん底にもなれるのが
アメリカ合衆国だった。
だが、貴族階級は生まれつき
貴族階級で、子孫も貴族だ。
日本の武士階級は貴族に雇用
された武門という貴族警護の
傭兵がルーツだ。それに貴種
降臨で地方の行政官として
赴任した貴族が土着して領地
を守る在地武士団の「一所
懸命」となった流れと合体
したのが武士だ。
武士と貴族はルーツが異なる
が、共通点は血脈=職業とな
っている事だった。
貴族も武士も支配層ではある
が、職業選択の自由は無い。
生まれる前から貴族は貴族、
武士は武士だった。
欧米に発生した共和的自由
思想とは真っ向から対立した
のが階級社会だった。
それゆえ人民の自由の為には
革命により支配階級を消滅さ
せないと自由の世界は獲得で
きなかった。

日本には階級制度があった。
それは古代からなんと昭和23
年(1948年)まで。
生まれた階級を昭和の私が生
まれる12年前まで戸籍に記載
して人を区別していたのだった。
その区別は、当然にして、人
を差別する事で成立させる
会構造を構成した。
差別によって成立しているの
が階級社会だ。
その差別は、出自の如何だけで
なく、ありとあらゆる差別を
旨としていた。
私の親の世代などは、戦後の
「民主主義」の時代であっても、
戦争で父が死んだ片親の子など
は銀行などには就職できなかっ
た。これは事実として。
また、出自により差別が歴然
と行なわれ、特定の地区出身
者は企業等は採用しなかった。
公然と差別が戦後の日本でも
実行されていた。
人権そのものも人権意識も
日本人は世界筆頭で希薄だ
った。
また、政府もそうした国民
意識を是正させる教育を一切
取らなかった。
国民の側からの働きにより、
ようやく教育機関が腰を上げ
たのが1970年代初期だった。
私の子ども時分の戦後高度経
済成長時代には、そこら中に
差別が蔓延していた。
教師自身が許されざる差別
意識で教壇で差別発言をし
ていた。これは東京でも神奈
川でも広島でも。
出自や家の経済状況により
人によって別扱い(正負両方)
をする。差別そのものだ。
そして負の扱いでは、いわれ
なき理由により人を排除、排
撃、排斥、除け者扱いする。
人をして人に理由なき不利益
を生じせしめる。本人では
どうにもできない出自や性別
や身の上や年齢や身体的な
ハンデを理由にして。
それが差別だ。

日本に馬車が発達しなかった
のは、日本の階級社会の差別
統治制度の歴史の存在による。
人民が俊敏に勝手に移動して
は支配者が困るのだ。
支配者が道を通る時には被支配
階級は地べたに土下座。
それが日本だった。
それに逆らうと首を刎ねられ
た。人が人を殺しても、特定
階級は許された。
だが、別な階級がそれをやると
厳重に罰せられた。
もろに差別そのものだ。
それが日本の差別社会だった。

誰でも馬車や馬に乗れる社会。
それこそがまともで民主的な
社会だ。
誰でも原付や自動二輪に乗れ、
誰でも自動車に乗れる。
モーターリゼーションこそは
人の明るい社会を築く。



スクーター

2023年06月23日 | open


今でこそキックボードなどという
呼び方が登場して定着したけど、
元々はこれをスクーターと呼んだ
んだよね。
つい20数年前まではキックボード
の事もスクーターと呼んでいた。
ごくごく最近では法改正もあり、
キックスケーターと呼ぶようだ。
でもこれは先祖帰りの呼称で、
これが正しいかも。
元々は動力をキックスケーター
に取り付けて走ったのがスクー
ターの始まりだから。
1900年代初頭にアメリカで発
明されたオートペッドが最初
だろう。

現行のミニバイクのスクーター
というのは、いうならば動力付
キックボード=キックスケー
ターの発展型な訳。
自転車に動力を付けたヨーロッ
パで始まったモペットとは今の
スクーターのルーツは別な流れ
にある。
モペットはその後オートバイ=
自動二輪に進化して行った。元
は自転車。
なので、英語では自動二輪の事
をモーターサイクルと呼ぶ。
直訳すると原動機付自転車と
なる。

エンジン付スクーターは足で
地面を蹴る今でいうキックボ
ードに動力を搭載した流れに
ある。
なので、スクーターの事をオ
ートバイとは概念的には今で
も呼ばない。
オートバイもスクーターも同
じ二輪だが、ルーツは異なる。

これの先祖はキックボード。