買い物途中、公園の樹木が気になって
う〜む・・・。
(ニジマス)
昨夜、サケ・マス214種のうち、106種に
ついて連鎖的に6時間ほど調べた。
サケ属12種、タイヘイヨウサケ属43種、
イワナ属51種の106種である。
手書きで分類表記して頭に叩き込んで
かつての知識をおさらいしたが、新学説
等での情報更新も含めると全てをソラで
書けるほど完全把握はできていない。
全サケ・マス類に関してサケ・マスのみ
に特化した写真図解入りの学術書籍でも
あればいいのになぁ。白黒学術書では
なくカラーの図鑑のような。魚類図鑑では
なくサケ・マス図鑑みたいな。
これなんてよさげだけどさ。
全網羅かどうかはわからない。
フライフィッシャーはサケ・マス類のみに
誰もが異様な執着をみせるが、サケ・
マス類は環境指標にもなる魚群であり、
研究するとかなり面白い。
まだ解明されていないまったく分かって
いないことがかなり多い生物なのだ。
この未解明の傾向は私がフライフィッシング
にどっぷりとハマった20数年前から見られ
たことだったが、現在でもその傾向性は
あまり進展していない。
なぜだろうとは思うが、水産資源として
のみの研究が先進国の主軸で、純粋に
生物学としての研究対象とはなりにくい
要素があるからではなかろうか。
以前、ウナギがそうだった。
ウナギはどこで散乱して稚魚が戻るの
かが解明されていなかった。
それを初めて解明したのが東京大学大学院
のある先生だった。
大酒飲みだったね(笑)。
新橋あたりで環境問題の会議後につつく
中華料理が好きだった。
ただ、学者というのは自分の専門外の
事はまるで子どものように知らない。
興味ないからかも。
その先生は、三原沖ではごく普通に
スナメリが回遊している事実を告げて
も「うっそ~?!」とまるで信じなかっ
た。
専門の学者というのは頭いいのか無知
蒙昧なのか不思議な種族だなぁとか
思っただよな。青椒肉絲をほおばり
ながら、おいらは。
広く浅くでも広く深くでもないのよね。
狭く深くなのよ。学者という象牙の塔
の住人たちは。
そういうのは、実際に実物を見ると実態
と実体がよく分かる。
ありゃ、変わった生物だな。変わった
学者という生き物の中でも特に変わって
いる生物学者という種族は。
それでもまだ生物学の学者はいい。
生き物全般を相手にしているから。
哲学の学者とかめちゃくちゃ厄介だぜ。
あれは脳内のことだけの世界に生きて
いる種族だからね。
飲んでても、クッソ真面目すぎて、
あんまし面白くはない。
で、文学の学者は軒並み助平だしよお。
まあ、文士はろくでなしという定番の
親玉みたいなのが文学の学者だね。
というか、どうして文学が学問として
国が認定単位を国民に付与したり
するのかよく分からない。わっけ分か
らんとかいうやつね。
だって、ポルノまがいなことをただ
文章表現や表現芸術として構築した
だけの創作世界の事を学問として
児童や生徒や学生が学ぶんだよ。
源氏物語なんてのは、ありゃあれこそ
本物の不倫、浮気を不倫と欺罔する
現代流行語の不倫ではない正真不倫
のポルノ小説だぜ、あれは。人間の
業がうずまく一大ロマンポルノが
源氏物語だな。これガチで。濃厚
密着以上の濃厚圧着のような。全て
が合体所望の脳内ベータエンドルフィン
小説みたいな感じでさ。
なんだかなぁ、てな風には思うよ。
文学好きだった一介の人間としては。
まあ、スケベよろしく。人類皆同じ
ということで。
義塾の諭吉先生も言ってるじゃん。
人は人の上に人を載せて人を作った、
と。下かもしれないけどさ。
知らんけど。
裏の研ぎはやっかい。裏は元に戻らない。
べらぼーに良い仕事してる。
さすが堺、本場の本物だ。
包丁の再生仕事も隙が微塵もない。
いいなぁ、こういう本物系の仕事師の
手わざは。
金床ひとつみればできる人かどうかが
わかる。
凄く良い仕事。
輪島塗りなどもそうだけど、こうした
本物の人たちが今も残って仕事している
事に計り知れない感動を覚える。
数こそ正当、お手軽な楽さは正義、自分
の勝手こそが最優先、自由を侵害するな
とばかり流され続けている今の軽佻浮薄
なヒャッハー大発生な世に、こういう
本当の技術と気配りを残し伝えている
方々には心の底から私は敬意を抱く。
それは、他のどんなジャンルであれ。
越乃一刀(新潟県)
切れ味と切り味のテスト動画である。
切れ味は、切れるか切れないかの次元
の案件。
切り味は、どのような質性を持ち如何
なる状態であるかに関する案件。
両者は似て非なる事項であり、弁別して
識別認識しなければ刃物は研げない。
上掲動画では、腕を振る切り下ろしでは
一切手の内の冴えをあえて使わずに刃物
の特性を感知する切り方をしている。
これは切れ味の試しの「切り」。
一方、ゆっくり切り代を使って切っている
「切り」は、すべて異なる切り方をして
刃味だけでなく切り味を確認している。
「切り」というものは、大変複雑で奥が
深く、被切物が切れたか切れないかと
いう物理現出にのみ捉われていたならば、
「刃物で切る」ということについての
高度な知見を得ることはかなわない。
切れることなどは当たり前の大前提
だからだ。書けない鉛筆が書けるよう
になったからと喜ぶ愚はこの世には
無い。
また、些末な切れた切れないに拘泥する
と、「刃物」そのものについても深部を
考察することができなくなる。
けだし、これは日本刀そのものと日本刀
の用法にも通じる。
つまり、「刀術」そのものである「剣技」
と「日本刀」を的確に適切に間違いなく
核心部分を捉えられるかにかかってくる。
畳表と藁の区別も識別つけるもこれ肝要。
刀と術と「切り」は、畳表が切断できた
かできないかという表層部分に代表され
るそんな単純なものではない。
現代においては、日本刀遣いよりも、
腕の立つ料理人や楽器職人や宮大工の
ほうが峻厳に緩み無く厳しく刃物を
見つめて捉えている。真剣だ。
日本刀遣いの者たちのほうが彼らに
遅れを取っている。
「切り味」というものは、「刃味」という
物理的現象についての感知とも異なる
ので、その概念差異にも注意を要する。
切り味は、料理や酒のテイスティング
による知覚者の所見に似ている事項で
ある。