三原は開闢以来城下町だが、東の外れに
漁港もある。
タコ漁用のタコ壺だ。 三原の漁港。
三原漁協はここにある。 80年代初期、三原での法事の際に来三した
時、翌日の一族の周遊として船を5艘本職
漁師さんに出してもらったことがある。
遊漁船としてだ。
遊漁専門ではない本格的な漁船を出して
もらったので、かなり楽しかった。
あまり釣れなかったが、それぞれの船頭
さんお任せの場所に行くので、すぐに5艘
がバラバラになって海を走ったのが印象
深かった。
私はフォークランド紛争で使用された実物
英軍DPMパラジャケットにロイヤルマリー
ンの実物バッヂを付けたロバットグリーン
のベレーをかぶっていた。国内では私の他
にはまだ2名しか持っていなかった。
港に戻った5艘はいずれも釣果は芳しくは
無かったが、参加者は存分に楽しめたよう
だった。
瀬戸内海にはクジラが多くいることをこの
時に初めて知った。
スナメリのような小型クジラからでっかい
のまでいる。
サメだらけというのは昔から知っていた。
子どもの頃に鞆の浦のほうに泳ぎに行っ
て、遊泳禁止エリアで知らないヤン気な
あんちゃんとおっさんたちがボートから
飛び込んで遊んでいて、救急車が来た事
があったからだ。脚が片方齧られて無く
なってた。救急隊員もちゃんと隠せよな
あ。
でも腹や頭やられて即死でないだけまし。
瀬戸内海は河川のような流速の海流なの
で遊泳禁止の場所が殆どだが、万一ドボン
となったらアッ!というまに流されるか、
サメの餌食でサヨナラになる。
瀬戸内は穏やかに見える海だが、実は非常
に激しく危険な海だ。
源平の戦いみても分かるでしょう?
川の流れのような速度で潮が満ち引きして
るのだから、とても潮流は激しい。
大きなお碗の右と左の縁を欠いて水が一気
に漏れるような現象になるのよね、瀬戸内
海は。満ちる時は東は大阪湾、西は関門海
峡から一気に潮が押し寄せる。
潮位は干満で8メートルも差が生じる。
満ち引きする潮は、まさに怒涛のように
見ていて怖いくらいに押し引きをする。
しかし、その満ち引きを利用すれば、一気
に船を数倍速で進められる。
なので太古から瀬戸内海は海路が開けて、
潮待ちのトマリがあちこちにあったのよ。
近所では現福山市の鞆の浦、尾道の関、
糸碕(井戸崎)が潮待ちだった。
そこで、時間を6時間ほど潰す。その間に
水や食料を補給する。
ヤマトから朝鮮へ行く場合も、その後の
遣隋使、遣唐使で中国に行く場合も、船
は瀬戸内海を通って関門海峡九州を抜け
て日本海に出たというわけ。
ちなみに、遣隋使、遣唐使船を建造した
のは、現広島県の倉橋島の船大工たちだ。
最先端の大陸技法の特殊な技能を保持し
ていた集団だったのでしょうね。
だが、やはり、船団のうち、荒波に揉まれたり嵐に遭って沈没する船も多かったよう
だ。うちの国のイモちゃん、よく生きて
行き帰りができたよなあ。6代孫のたか
ちゃんは「てめ、ざけんなよ」と正使藤原
君と喧嘩して船に乗らなかったが、そのう
ち自分が島流しの船に乗せられた(笑)。
遣隋使・遣唐使は平和使節団だけど、船
に関して、日本の歴史上最大の危機は元寇
だよな。
鎌倉時代の文永の役(1274)と弘安の役
(1281)の二回の元軍の侵略ね。
どうやって年号小学生の時覚えました?
私は文永は「いちもにもなし文永の役」、
弘安は「ひとにやをいる弘安の役」と覚
えていた。
この最初の来襲は小手試しだけど、1800
艘と約4万人で襲撃してきた。
おおごとなのは、その7年後の弘安の来襲
で、こりゃすげえ。
記録見ると、8800艘と15万7000人で襲撃
してきた。とんでもない数だよ。
当時の日本の人口が3000万人いないのだ
から。
ところが、日本にはたまたま幸いにして
武士がいた。武士が朝廷から、つまり天皇
から政治の実権を奪い取って幕府という
政治府を都以外に造営して君臨していた。
いわば強固な世界最強の軍司政権を日本は
構築していたわけ。ローマ帝国と戦争して
も勝てるのでは、というくらいの軍司政権
が日本を牛耳っていたんだな。
元軍はかなり内陸部まで侵略したが、日本
の鎌倉武士たちはゲリラ戦を含めてかなり
奮闘して存分に働いた。
よく教科書に載っている元寇の絵巻はこれ
だ。
これだと、日本武士が元軍にいいように
やられているような印象になる。
現実は、バガこぐでねえ、なんだな。
馬を射抜かれた武士の後方には集団連射す
る武士たちがいる。
そして、必死で逃げ惑う元軍が描かれて
いる。勇猛果敢な日本武士は逃げない。
多分、元軍は暴力で徴兵した朝鮮軍たち
の士気が相当低かったのもあるだろうが、
なぜだか、日本軍である鎌倉武士の奮戦
については学校ではあまり教えない。
戦前などは神風だなどとネジつけ洗脳教育
をしていたが、戦後も、あたかも暴風雨で
元軍が撤収したみたいなことを教えてい
る。陸戦と海上戦での武士の活躍を教えよ
うとはしない。
実際のところ、二度に亘り元軍はほぼ壊滅
的な損失を出して撤退した。
なぁ〜んが神風さんが吹いて護られたか
ね。このバカチンが、と。
武士がいたからニッポンの国防が成就した
に決まってるじゃないの。
あれが、日本が顔を白く塗った公家の歌詠
み蹴鞠連中とどん百姓=オオミタカラだけ
でいてごらんなさいな。日本は朝鮮みたい
に元や大中華帝国に完全侵略支配されてい
たわいな。
世界王者スペインでさえ、偵察隊が「日本
を敵にしたら武士によりスペインのほうが
滅びる」との報告を国王が受けて、日本へ
の侵略をスペインはやめたのよ。
もし、日本に武士がいなかったら、日本は
確実にスペインに支配されて、南米のよう
になっていたでしょうね。
中世以降、日本の主権独立を護ったのは
武士。世界的に日本固有のモノノフの存在
こそが日本を日本でいさせることができ
た。朝鮮との大違いはそこなんだよなあ。
いくら朝鮮に「武士(ムサ)」がいた、とか
朝鮮がねつ造しようとも、日本が侵略統治
されたのは後にも先にも1945年以降のみ
だ。本邦2000年の歴史で、日本はどの国
からも侵略占領統治は受けなかった。
そして、元寇を無力化したのは、武士の
奮戦なくしては説明できない。天候だけ
ではない。
これはもっと日本人向けの歴史で強く教育
すべきだと思うけどね。はぐらかさずに。
それと、武士は船などは漕げやしない。
また、漕ぎ手は木こりなどできない。
武士も太刀など作れない。
そこなんだよね。
そうしたことを教えないと。
全ての専業の産業の担い手がいて、初めて
事が成せた。
その後も秀吉が大阪城作ったんじゃないか
ら。秀吉などは石の一つも運ばなければ、
鑿の一丁持ちゃしない。それね。
てなこと、船見に思ひしけふなりき。