ケン坊のこんな感じ。
キーボーディスト、川村ケンのブログです。




今日はまた長いです。

このところは、朝から毎日のように宅配便や郵便が届き、昼間は自分の仕事の合間に電話やメールでの連絡に追われている内に、あっという間に夜になります。

でも何をしていても、広河さんの伝えてくれたことが、どうしても頭から離れない。皆さんからのコメントを読ませていただいても、また自分とは違った考え方や、視点を教えてもらうことになり、またそれに対して頭が勝手に考え出す。例えば、いつもコメントを残してくださる方が、どうもコメントが書きづらい、まとまらないというのも、それは「うん、これは大きな問題だな。」ということを自然と感じているという表れであるのですから、ある意味とても正常な事だとも思うわけです。僕の文章の良し悪しはともかく、ああいう事実を知った時に何も感じなかったとしたら、「ふぅ~ん」などと軽く受け流してしまえたとしたら、それは一番怖いことだと思いますから。そして、自分の言葉で考えをしっかり書いてくださる方。僕は、どういう立場であれ、ちゃんとした意見を持っている、という事を素晴らしいと思いますし、ありがたいです。おかげで、僕も勉強させてもらっています。

先日も書きましたが、写真展で見た写真のうち、何枚かをネット上に見つけられました(実際の大きさより、かなり小さいですが)。勝手に取ってきてここに貼るのは憚られますので、リンク先を見ていただくことにしたいと思います。携帯からの方、申し訳ないですが・・・僕なりに説明は書きます。また、見て楽しくなる写真では決してないので、見る、見ないは皆さんのご判断でお願いします。

 

まず、こちらの写真(少し下にスクロールしていただいた、三枚のうちの一番上)。

「パレスチナ問題」っていう言葉をニュースなどで聞いた事のある方は沢山いらっしゃるでしょう。これはとても長くこじれていて、それは民族問題、宗教問題の絡んだ複雑な問題だからなのですが、今はものすごく簡単に説明します。

約90年ほど前、第一次世界大戦の時です。イギリスが自国の利益の為(戦争に勝つ為、そしてお金の為)に、アラブ人とユダヤ人の両方に、「ここに国を作っていいよ」と約束してしまいました。この「二枚舌」の為に、アラブ人のパレスチナという国の中に、ユダヤ人がイスラエルという国を作ってしまったわけです。そしてこの二つの民族が「ここは私たちの国だから、お前たちは出て行け。」と争っていると考えてください。悪徳不動産屋が、同じ家を二つの家族に売ってしまったようなものです。そして、言ってみればどっちも、その立場からしたらそれぞれ正当なのです(この正当性の判断については世界中でも意見が分かれているのです)。だから難しいのですが、問題は、話し合いでは解決しないので、武力による争いになり、やがて中東戦争になってしまったこと。そして、その後も延々と民衆を巻き込んだ、酷いテロや、争い、諍いが絶えない泥沼化してしまっていることです。しかし僕はまだこの問題について、「こう思う、こう考える」とはっきり答えが持てるほど解っていないと感じています。ですから、またもっと調べて、勉強したら改めて書いてみたいと思ってます。

写真は、イスラエルという国の領土拡大の為に、勝手に境界線を引き、交通を遮断している、軍服のイスラエル兵士(ユダヤ人)に対し、パレスチナの若い女性(アラブ人)が、一時間以上もピースサインをした手を高く掲げ、無言の抗議をしている様子です。

この小さな写真ではわかりづらいですが、僕はこの女性の目に、「怒り」ではなく、また「悲しみ」とも違った、「あきらめ(・・・話しても通じない彼らに対しての・・・。いや、哀れみ、と言うべきか)」と「蔑み」のようなものを感じました(写真展の時に僕が取っていたメモ書きには他に、「あきれ?」「いつくしみ・・・?」などと書いてあります)。上手く言えませんが、言葉にするなら、「あなた達は何故こんなことをし続けているの?自分達のしていることがどういうことか、本当に解っているの?」と訴えているように見えるんです。

対して、その彼女に至近距離でじっと見据えられた、ヘルメットを被って拳銃を持った若い兵士の目は、まるで嘘を母親に見抜かれた子供のような、「そんなことしてない」って言い張りながらも、どこか後ろめたさが拭えない、おびえた目に見えました。

人間をその身体に宿し、生む女性、そして、女性から生まれた男性。女性を銃で威圧する男性、その男性の心を見抜くような目で見る女性。民族も立場違うけど、この強烈な「女性」というものの力に、僕は半ば圧倒される思いで、しばらくこの写真に見入ってしまいました。

各地で行われているこういった路上封鎖は、時には救急車すら通すことを許さないそうです。そういう、命令だから。

そして、この女性は、一時間後に催涙スプレーによって、「追い払われた」そうです。

 

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同じページの二枚目の写真。手に大火傷を負って泣いている、4歳くらいの小さなパレスチナ人の女の子と、彼女を抱いている父親の写真です。

手の火傷は、イスラエル軍の落としたナパーム弾という爆弾によって負わされたものです。ナパーム弾というのは、火事にして、落とした周囲を広く焼き払う為に使われる非常に悪質な爆弾です(良質な爆弾なぞありませんが。でも、破壊するだけの爆弾と違って、火事を起こすので、無関係な人を巻き込む可能性が非常に高い)。

しかもこのナパーム弾は、ベトナム戦争の時にアメリカによって開発された新型のもので、水をかけても、砂をかけても火が消えない「黄燐(おうりん)」という特殊な薬剤が使われています。写真に添えられた文章には、「少量でも一度体に付くと、体の奥深くまで焼き尽くすのです」とありました。どうにか火は消し止められたようですが、少女の右手は、カタチが変わってしまっています。

アメリカが「テロと戦うため」、「人々の自由と安全を守るため」と戦争を仕掛けたアフガニスタンでは、女性の焼身自殺が増えているそうです。こういった爆弾によって顔や体に酷い火傷を負った彼女達は、自分の将来を悲観して、自ら火の中に身を投じるのだそうです。

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そして、こちらの写真(一番上)。

ウクライナという国のターニャという、本来なら遊びたい盛りのはずの14歳の少女が、小さなベッドに横たわり、傍らの母親は彼女の手握っています。彼女は、4歳の時に、チェルノブイリの原発事故の影響で、知らぬうちに放射能に身体を侵されていました。おそらく当時、「ここまでは放射能はこない。安全だ」という情報が流されていたのでしょう。しかし、ターニャは10年後に甲状腺ガンを発病。子供の身体は発育が早いので、小さいうちに放射能を浴びた子供は、病気の進行も物凄く早いんだそうです。

母親の顔が目の前にあるのに、天井の方をうつろに見るターニャの黒い瞳は、ガンの影響で、この時既に失明していたそうです。

広河さんが彼女に「何か欲しい物はないかい?」ときくと、彼女は「モルヒネが欲しい」と答えたそうです。14歳の少女が欲しいものをきかれて、出てきた言葉が・・・「モルヒネ」。広河さんが母親に「何故病院は彼女にモルヒネを与えないんですか?」と訊ねると、「病院で、『薬は治る患者にだけ使うから、もう治らない患者には与えない』と言われました」と答えたそうです。怒った広河さんは病院へ怒鳴り込んで、ターニャのためにモルヒネを出させたそうです。

ターニャは、この写真を撮った二ヵ月後に亡くなりました。

モルヒネは、そんなに高いものではありません(日本で点滴1ℓ=約300円程度)。でも、病院にはその痛み止めのモルヒネさえ、十分になかった、と想像できます。病院側からしても、苦肉の策だったのでしょう。

日本は軍用機を一機300億円で何機も買っています(つい先日、墜落しましたね)。300億円あったら、モルヒネはどれだけ買えるのでしょうか、などと、どうしても思ってしまいます。たとえ治らなくたって、激痛に苦しみながら死んでいった子供に、人々を、せめて痛みの無い、安らかな死を迎えさせてあげることは、出来たはずです。

そして残された母親は、今どんな気持ちなのでしょうか。間違った情報を鵜呑みにして、娘を死なせてしまった、と自分を責めているのではないでしょうか。基本的に、人間は自分の住む場所を自由に移動できる唯一の動物だと言われていますが、子供には、住む場所は選べない。そこが目に見えない放射能で、酷く汚染されていたとしても。しかし、母親を責めることはできません。問題は、誤った情報、いや、操作された情報なのです。

変なことを言うようですが、・・・もしも今ひとつリアリティが感じられなかったら、ターニャ、という少女の名前を、あなたの愛する家族や恋人の名前に置き換えて読んでみたら、どうでしょう。あるいは、子供の頃の、あなた自身の名前で。

僕達の住む日本にも、原子力発電所が沢山あります。事故だって、実際に時々起こっていますよね。まだ、チェルノブイリほどの事故には至っていませんが、それは明日起こるかもしれないんです。パレスチナやロシア、ウクライナ(他にも沢山の国と人が放射能に侵されています。この事故だけでなく、依然続けられている原爆実験でも)とは遠く離れているようで、実は僕達の足元は、凄く危ういんです。都合の悪い情報は、流されませんから、僕達は、ただ知らないだけで。

 

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他にも、御巣鷹山での日航機墜落事故で、早く現場に到着していた自衛隊員が「飛行機に放射能物質が搭載されていた」という情報の為に、事故現場を遠巻きにしたまま近寄らず、後から来た「情報を持っていなかった」消防や警察が現場に入るのを見てから、救助に参加した、という現場の写真と文章がありました。

僕はあの日の事を良く覚えています。前の日、テレビでは航空機が行方不明になったというニュースが興奮気味に伝えられ続け、受験勉強で朝まで起きていた僕は、届いたばかりの朝刊の一面に、大きく「524人、絶望」と書かれた黒に白抜きの文字を見て、思わず反射的に目を瞑り、手を合わせていたんです。自分が咄嗟にああいうことをするとは、思ってもみなかったので、・・・とても記憶に残っています。

添えられた文章には、「先に到着していた自衛隊がもっと早く救助に当たっていたら、もっと救われた命があったはずだ」、とありました。もっともです。しかし、自衛隊には救助にあたれ、という命令が下りなかった。「放射能汚染はどんな手段でも防ぎきれない」、という情報を、当時の日本で自衛隊だけが持ってたのだそうです。なので、様子を見ていたのです。後から現場に入った警察や消防は、近づかない自衛隊員を見て「不思議に思った」と言っていたそうです。実際、4名の生存者は、墜落当初にはかなりの生存者がいた、という証言をしています。そして、朝まで救助が来なかった、その間に皆んな死んだ、と(墜落は前日の午後7時前)。

実は事故を知ったアメリカ軍厚木基地のヘリコプターが、事故から2時間後には現場に到着、救助体制に入っていたのに、日本政府から打診を受けた警察庁上層部が「その必要なし」それを拒んだため、救助できずに帰還させられた、という事実があります。なぜか。・・・先にアメリカに救助されては、警察庁のメンツが立たないから、だったと言われています。開いた口が塞がらないとは、こういうことです。これが、日本の警察のお偉方の一つの顔です。そして、実はアメリカ軍への救助要請は政府が決定を出すものなんです。生命の危機に瀕した人命を前に、二の足を踏んだ日本政府の責任は、とてつもなく重大です。

実際には航空機に積まれていたのは医療用の放射性物質だったようですが、逆にそれが人体に危険な放射能物質だったらどうだったんでしょう?そして、それを知らずに救助に当たった消防や現地警察の人達の命は、どうなっていたんでしょう。情報一つで、人の命は確実に、そして簡単に左右されているんですよね。繰り返しますが、時にはそれが間違った情報だったとしても。

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長くなりましたので、紹介はこれくらいにしますが、あの日見た広河さんの写真は、どれも僕の目の奥に深く焼きついて離れないものばかりでした。

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じゃあ僕には、何ができるのか。

・・・やっぱり、この問題です。爆弾の飛んでこない、放射能にも汚染されていない、エアコンの効いた温かい部屋でこうしてパソコンに向ってブログを書いている僕は、結局高見の見物をしているだけの、ただの偽善者なのか。

 

その答えを探したくて、今日、広河さんの発行しているフォトジャーナリズム雑誌、「DAYS JAPAN」の年間定期購読を申し込みました。バックナンバーも、手に入れていこうと思っています。

この雑誌がどういう雑誌か、ご興味のある方は、こちらをご覧下さい。廃刊の危機にさらされながら、定期購読料や寄付、そしてボランティアの方々の力で存続しているんだそうです。

その1、(広河さんの講演より。)

その2(中ほどよりちょっと下あたりです。僕はこれを読んですぐに購読ボタンを。)

最後に、この雑誌に、毎号書かれているという言葉をご紹介します。


『人々の意志が戦争を止める日が必ず来る』
『一枚の写真が国家を動かすこともある』

 

お疲れ様でした。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

ではー。



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