怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

「自分が高齢になるということ」和田秀樹

2019-06-01 21:33:01 | 
随分前に読んだ本ですが、早川一光さんの「わらじ医者京日記」だったと思うのですが、「人間はみんな死ぬのが怖い。だからボケるんだよ」というようなフレーズがあったと思います。当時は高齢の祖母がそろそろさしかかるぐらいで、そんなもんかとそれなりに感心していた覚えです。
そんな私も齢65歳を超え、間違いなく高齢者の仲間入り。本人的にはまだまだ高齢者とは認めたくはないのだけど、敬老パスももらい、基礎年金も受給しているのだから、残念ながらこれはもう否定しようがない。
では高齢者になるということはどういうことなんだろう。

和田先生によれば85歳を過ぎれば40%程度の人に認知症の症状が出るとか。脳を解剖してみるとその年齢を過ぎればほぼ全員にアルツハイマー型の認知症に特有の所見がみられるそうです。認知症というのは老化現象で避けられないもの。長生きしたいと思うのは誰でも同じですが、それは同時にボケを受け入れて生きるということ。
沢山の認知症高齢者を見てきた和田先生は、ボケても幸せそうで、こういうボケはいいなあと思うことはよくあるとか。避けられないものならボケてもいいから幸せな老人を目指した方が、ゆったりした気持ちで生きられるし、結果として長生きもできるはず。
ボケを恐れたり蔑視したりして受け入れられないと、結局は自分を不幸にしてしまうので、「私もやっとボケの仲間入り」くらいの気持ちで歳を重ねることを受け入れることです。といわれるとわかるけど、う~ん。まあ、日本人は「周りに迷惑をかける」ということに罪悪感が強いので忌避感が強いんですよね。これまで頑張ってきたんだから少しぐらいわがままになってもいいと言われるとちょっと楽になりますけど。 
ところでボケても、すべての能力が失われていくわけではなくて、残存能力は人それぞれ進行程度によっていろいろ残る。毎日、一日一日を楽しんでできることをすればいい。過去の栄光に拘ってできない自分に失望するのではなくて、邪魔なプライドは捨て日々を朗らかに。
因みに認知症の診断基準となる長谷川式スケールの開発者の長谷川和夫さんは自分が認知症であることを講演会で発表しています。でも新聞のインタビューにもこたえ、講演もこなしつつ、自分の状況をよく観察して報告したいと言っています。俳人の金子兜太も晩年は認知症でしたが、亡くなる直前まで投稿俳句の選者を務めたり原稿を書いたりしていました。認知症であっても中期ぐらいまでは、備わった能力や長年磨き続けた能力はほとんど衰えることなく保たれている。ただ頭を使い続けることが前提ですけど。そうなるとこの拙いブログも多少は頭を使うので効果があるのかも。最もいつまで続くのかですけど。
余計なプライドは捨てて毎日を楽しむことの大切さを忘れずに生きて行けば、ボケたおかげで幸せになる「力」をつけることが出来るとか。
ところで後半は自分の親のボケと向き合うことに対する心構えが書いてあります。無用なストレスを与えずに、その人の「変わらない部分」と付き合って、長い人生の物語の話を傾聴してみよう。
う~ん、話としてはよく分かりますが、実際の自分の親が一つ一つ今までできたことが出来なくなってくるのを見るのは、とてもつらいものですし、頓珍漢なことをしたり言ったりすると腹立たしくとても付き合いきれません。
一人暮らしをしているのでできるだけ毎日顔を出していますが、15分もいると腹が立ってくるので早々に退出しています。人間としての嫌なところが年齢とともに増幅されて出てくるようで、同じ遺伝子を受け継ぎ、将来の自分の姿かもと思うと耐えられません。確か佐野洋子が、歳を重ねるたびに母と似てくる部分が多くなって愕然としたと書いていたが、激しく同感です。
仮に同居でもしたら朝から晩まで険悪な雰囲気になるかもしれないので、絶対に無理だろうな。
今は介護サービスについて拒否感か強くて利用していないのですが、もうすぐ私に余裕ができるので、もう少し頻繁に買い物に連れて行って、併せて介護サービスをうまく利用するように誘導できないかと思っています。
そういうことが私のボケ防止になれば一石二鳥なんですけどね。
高齢になるということは気が滅入ることですが、こういう本を読んで気分を明るくすることです。その意味では読む薬。
 


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする