織田信長が天下人への道を歩みだす契機となった「桶狭間の戦い」
戦国時代でもっとも名高い合戦なのだが、今川義元がどこで討ち取られたかについても、名古屋市緑区と豊明市に桶狭間古戦場の碑が立っている。
中島砦から織田信長がどう進軍していったかについても諸説あって明確ではない。
先日有松に行った時には駅に「桶狭間史跡マップ」があり、信長公記から読み解く戦いの跡をたどるコースがゆったりとちょっとの2つのコースになっている。

当たり前のことなのですが、桶狭間合戦当時は、地形として海がかなり広がっていて、おおざっぱに言えば伊勢湾台風で浸水した地域はほぼ海だったと考えてもいいかと思う。
当時の東西の交通の主要街道は鎌倉街道で、いわゆる東海道はまだ整備もされておらず有松の町ができるのも江戸時代以降の話。
加えて今では都市化がすすみ、川は改修され、ビルが立ち並ぶので地形も定かでなくなっているので、現在の姿からはなかなかどこが本当の古戦場かは想像できない。
戦前には陸軍参謀本部が「迂回攻撃奇襲説」を唱えていて、結論が出ていたかのようになっていたが、今では北へ大きく迂回して奇襲攻撃をしたという説は否定されている。参謀本部的には強大な今川軍を少数ながら精鋭部隊で奇襲攻撃して打ち破ったという説は強国ロシア、アメリカと戦い、奇襲攻撃で打ち破る日本と重ねるためにも魅力的だったのでしょう。
今では東海道筋を通って正面から今川軍を撃破して今川義元を討ち取ったという正面攻撃説が有力になっています。有松駅にあったマップもほぼその説に沿っていると思います。
ところで今川軍4万5千などというのは戦後織田が自分の戦果を大々的に宣伝するために大げさに言ったものと思われます。そもそも今川軍4万に対して信長軍2千と言われていますが、兵力は国力によるものであり、駿河・遠江・三河3カ国の当時の生産力は豊かな土地と経済力があった尾張と比べてそんなに圧倒的なものでもなかったはず。上洛の意図も怪しいもので、信長を叩いてまずは今の緑区南区を攻略し尾張攻略の足掛かりにできれば上出来ぐらいの感じだったのでは。
それにしても大軍を率いて出陣した今川義元を見事に討ち取っているのは事実で、そこには今川軍の油断があり、何らかのすきをついての奇襲攻撃だったと思うのが合理的です。
そこで地元の強みで足で歩き回り地形を熟知している郷土史家がこれこそが真実と説を出しています。
最初の本は、船橋武志著「織田信長が駆け抜けた道」、これは尾畑太三「証義・桶狭間の戦い」のダイジェストともに一緒に現地を歩いた記録です。

起点は地下鉄野並駅で、そこから桶狭間迄十数キロを歩いている。丁度いいウオーキングのガイド本なのですが、如何せん地図が分かりにくい。国土地理院の2万5千分の1の地図は本に印刷されていると何が何だかよく分からない。写真もついているのですが、これも分かりにくい。地図と写真を連動させればもう少しわかりやすくなるのでは…
とにかく信長は中島砦を出てからは旧東海道を左京山あたりまで進み鎌研橋から手越川沿いの道なき道を進んで高根山の松井宗信を避け桶狭間へ。今は桶狭間古戦場公園があるところが義元討ち死にの地と言うことです。せっかく現地を歩いているのですからもう少しわかりやすい地図と要所要所の奇麗な写真をつけてもらうと多少間違っていようとも歩いてみようと思います。持ちやすいように別紙できれいな地図のウオーキングマップをお願いします。
もう少し詳細なのが太田輝夫著「桶狭間合戦 奇襲の真実」です。

大高めざして進軍する義元軍本隊は田楽狭間に差し掛かったあたりで、織田側の佐々、千秋の攻撃を正面に受け一時進軍を止める。今川軍は織田の先鋒ともいうべき佐々・千秋を討ち取り、油断して祝勝の宴を催して休憩しているところに織田信長率いる本隊が太子が根より南に回り込み不意を突いて急襲。深田に追い込み義元を討ち取った。
中島砦からの信長軍は東に進み天満宮の横を通り太子が根,大将が根の間を通って田楽狭間の義元本陣へ突っ込んだ。それに先行して佐々・千秋隊は桶狭間田楽坪の今川軍の正面へ突入。討ち取られていますが、結果的におとりの効果を出しています。今川軍は兵力を大高城からの鷲津・丸根砦攻めと佐々千秋軍を打ち破った高根山の前衛軍にと展開していて義元本陣は2~3千か。そこで不意をつかれたので織田軍の何倍かという兵力を活かすことが出来ず大混乱に陥ったということでしょうか。
この本の手書きの地図の方が分かりやすいのですが、これだと義元最後の地は豊明の古戦場伝説地になります。いずれにしても別紙のウオーキングマップをつけてください。
どちらの本も「信長公記」と「武功夜話」を参考にしているのですが、信長公記は年の間違いもあり、著者の太田牛一が実際に体験したことと見聞したことが混在していて、史料的な検討は必要でしょう。武功夜話は偽書との説もあり、紙質とか表現などからも実際に書かれたのは江戸時代後期以降と言われています。しかし全くのフィクションというには迫真性があり、後世に編集されたかもしれないけれど
原武功夜話みたいなものとか伝承はあったと思われるのでどこまでを歴史としてみることが出来るか検討が必要なのでしょうけど門外不出で史料的検討ができないみたいなので全面的にこれによるのはどうなんでしょう。
時あたかも梅雨入りで、桶狭間合戦と同じ時期。この2冊の本をもって有松近辺でも歩きに行こうかと思ったのですが、まさに梅雨入りしたばかりで、合戦当時の雷雨は経験したくないので天気は歩きには不向き。今度気候がいい時に有松の史跡マップの道(ゆったりコースで4キロ約2時間とか)を歩いたらまた報告します。
戦国時代でもっとも名高い合戦なのだが、今川義元がどこで討ち取られたかについても、名古屋市緑区と豊明市に桶狭間古戦場の碑が立っている。
中島砦から織田信長がどう進軍していったかについても諸説あって明確ではない。
先日有松に行った時には駅に「桶狭間史跡マップ」があり、信長公記から読み解く戦いの跡をたどるコースがゆったりとちょっとの2つのコースになっている。

当たり前のことなのですが、桶狭間合戦当時は、地形として海がかなり広がっていて、おおざっぱに言えば伊勢湾台風で浸水した地域はほぼ海だったと考えてもいいかと思う。
当時の東西の交通の主要街道は鎌倉街道で、いわゆる東海道はまだ整備もされておらず有松の町ができるのも江戸時代以降の話。
加えて今では都市化がすすみ、川は改修され、ビルが立ち並ぶので地形も定かでなくなっているので、現在の姿からはなかなかどこが本当の古戦場かは想像できない。
戦前には陸軍参謀本部が「迂回攻撃奇襲説」を唱えていて、結論が出ていたかのようになっていたが、今では北へ大きく迂回して奇襲攻撃をしたという説は否定されている。参謀本部的には強大な今川軍を少数ながら精鋭部隊で奇襲攻撃して打ち破ったという説は強国ロシア、アメリカと戦い、奇襲攻撃で打ち破る日本と重ねるためにも魅力的だったのでしょう。
今では東海道筋を通って正面から今川軍を撃破して今川義元を討ち取ったという正面攻撃説が有力になっています。有松駅にあったマップもほぼその説に沿っていると思います。
ところで今川軍4万5千などというのは戦後織田が自分の戦果を大々的に宣伝するために大げさに言ったものと思われます。そもそも今川軍4万に対して信長軍2千と言われていますが、兵力は国力によるものであり、駿河・遠江・三河3カ国の当時の生産力は豊かな土地と経済力があった尾張と比べてそんなに圧倒的なものでもなかったはず。上洛の意図も怪しいもので、信長を叩いてまずは今の緑区南区を攻略し尾張攻略の足掛かりにできれば上出来ぐらいの感じだったのでは。
それにしても大軍を率いて出陣した今川義元を見事に討ち取っているのは事実で、そこには今川軍の油断があり、何らかのすきをついての奇襲攻撃だったと思うのが合理的です。
そこで地元の強みで足で歩き回り地形を熟知している郷土史家がこれこそが真実と説を出しています。
最初の本は、船橋武志著「織田信長が駆け抜けた道」、これは尾畑太三「証義・桶狭間の戦い」のダイジェストともに一緒に現地を歩いた記録です。

起点は地下鉄野並駅で、そこから桶狭間迄十数キロを歩いている。丁度いいウオーキングのガイド本なのですが、如何せん地図が分かりにくい。国土地理院の2万5千分の1の地図は本に印刷されていると何が何だかよく分からない。写真もついているのですが、これも分かりにくい。地図と写真を連動させればもう少しわかりやすくなるのでは…
とにかく信長は中島砦を出てからは旧東海道を左京山あたりまで進み鎌研橋から手越川沿いの道なき道を進んで高根山の松井宗信を避け桶狭間へ。今は桶狭間古戦場公園があるところが義元討ち死にの地と言うことです。せっかく現地を歩いているのですからもう少しわかりやすい地図と要所要所の奇麗な写真をつけてもらうと多少間違っていようとも歩いてみようと思います。持ちやすいように別紙できれいな地図のウオーキングマップをお願いします。
もう少し詳細なのが太田輝夫著「桶狭間合戦 奇襲の真実」です。

大高めざして進軍する義元軍本隊は田楽狭間に差し掛かったあたりで、織田側の佐々、千秋の攻撃を正面に受け一時進軍を止める。今川軍は織田の先鋒ともいうべき佐々・千秋を討ち取り、油断して祝勝の宴を催して休憩しているところに織田信長率いる本隊が太子が根より南に回り込み不意を突いて急襲。深田に追い込み義元を討ち取った。
中島砦からの信長軍は東に進み天満宮の横を通り太子が根,大将が根の間を通って田楽狭間の義元本陣へ突っ込んだ。それに先行して佐々・千秋隊は桶狭間田楽坪の今川軍の正面へ突入。討ち取られていますが、結果的におとりの効果を出しています。今川軍は兵力を大高城からの鷲津・丸根砦攻めと佐々千秋軍を打ち破った高根山の前衛軍にと展開していて義元本陣は2~3千か。そこで不意をつかれたので織田軍の何倍かという兵力を活かすことが出来ず大混乱に陥ったということでしょうか。
この本の手書きの地図の方が分かりやすいのですが、これだと義元最後の地は豊明の古戦場伝説地になります。いずれにしても別紙のウオーキングマップをつけてください。
どちらの本も「信長公記」と「武功夜話」を参考にしているのですが、信長公記は年の間違いもあり、著者の太田牛一が実際に体験したことと見聞したことが混在していて、史料的な検討は必要でしょう。武功夜話は偽書との説もあり、紙質とか表現などからも実際に書かれたのは江戸時代後期以降と言われています。しかし全くのフィクションというには迫真性があり、後世に編集されたかもしれないけれど
原武功夜話みたいなものとか伝承はあったと思われるのでどこまでを歴史としてみることが出来るか検討が必要なのでしょうけど門外不出で史料的検討ができないみたいなので全面的にこれによるのはどうなんでしょう。
時あたかも梅雨入りで、桶狭間合戦と同じ時期。この2冊の本をもって有松近辺でも歩きに行こうかと思ったのですが、まさに梅雨入りしたばかりで、合戦当時の雷雨は経験したくないので天気は歩きには不向き。今度気候がいい時に有松の史跡マップの道(ゆったりコースで4キロ約2時間とか)を歩いたらまた報告します。