く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「清閑の暮らし 隠者たちはどんな庵に住んでいたのか」

2014年04月04日 | BOOK

【大岡敏昭著、草思社発行】

 著者大岡氏は1944年神戸市生まれ、九州大学大学院博士課程(建築学専攻)修了。古代~現代の日本・中国の住宅とその暮らしの風景を研究している。現在、熊本県立大学名誉教授。著書に「日本の住まい その源流を探る」「江戸時代 日本の家」など。  

 本書では世俗を離れ清閑の暮らしを送った日本・中国の著名な隠逸詩人8人を取り上げ、詩歌や日記などからそれぞれの人生の軌跡をたどる。その8人とは古代中国の陶淵明と白楽天、平安中期の兼明(かねあきら)親王と慶滋保胤(よししげのやすたね)、平安末期~鎌倉時代の西行と鴨長明、江戸時代の芭蕉と良寛。彼らが雨露をしのいだ庵のイラストも添えている。

       

 著者は8人の共通点として①自然をこよなく愛した②隠棲したとはいえ人との関わりを大切にした③着るものや食べ物に乏しく、住む家はあばら家だったが、それに頓着せず天命として受け入れた④終生自らを修める生き方を貫いた――などを挙げる。そして「かれらの詩歌や句を読むとき、その哀しいまでの誠実な生きざまと生涯に胸打たれること、たびたびであった」と振り返る。

 陶淵明は上官に媚びへつらう役人生活が全く合わず、世俗との関係を断ち切って故郷での隠棲の道を選ぶ。自給自足の貧苦の生活は没するまで続くが、心が安らぐ自由な暮らしに満足していたようだ。晩年の詩「詠貧士」の末節には「已(や)んぬる矣(かな)何の悲しむ所ぞ」とある。

 中唐の詩人、白楽天は科挙に合格し官職に就くが、たびたび左遷させられた。そんな中で選んだ生き方は陶淵明のような世俗を逃れた暮らしではなく都にあって〝心の隠棲〟といえるものだった。「老子のいう『知るを足る』の思想である。また易経の『天を楽しみ命を知る、ゆえに憂えず』の思想でもあった。楽天という字はそのような意味でもあった」。白楽天は琴と詩と酒を〝三友〟とした。

 平安~鎌倉時代には多くの貴族や武士が出家し、さらに寺も出て漂泊の旅に出た。諸国行脚は「苦難の修行の旅であり、また物乞いの旅でもあった」。彼らは「乞食聖(こつじきひじり)」と呼ばれた。

 その1人、西行は23歳のときに出家した。都に近い東山や嵯峨、小倉の山里に質素な庵を結び、たびたび諸国を行脚した。著者は西行の庵の広さを「一間(当時の寸法で約3m)四方」と推測する。「あばれたる草の庵のさびしさは風よりほかに訪(と)ふ人ぞなき」(山家集)。西行にとって風は友でもあった。

 西行は2090首の歌を遺したが、直接家族を詠んだものはない。出家時にまだ2歳ほどとみられる娘は後に出家し、母を追って高野山で尼になったという。鴨長明の出家は50歳のとき。「方丈記」には「もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし」とあり、西行と違って家族はなかったようだ。

 芭蕉は37歳のとき江戸市中から場末の深川の庵に隠棲、自らを〝乞食の翁〟と呼んだ。庵の周りには大好きな芭蕉の木を植えた。芭蕉は同じ武士出身ということもあって西行を敬慕した。しばしば旅に出た目的も「西行が旅で和歌をきわめたように自分の俳諧の新しい道を探ることにあった」と著者はみる。

 芭蕉は故郷伊賀上野にたびたび立ち寄ったが、芭蕉を慕った良寛も故郷越後への思いが強かった。帰郷後の約20年を山中の「五合庵」で過ごした。庵のみずぼらしさを「其れ鳥の巣の若(ごと)く然り」と詩に詠んだ。そこで坐禅を組み、托鉢に出ては村の子どもたちと手まりなどで遊んだ。「汚れた世俗を捨てたかれにとって、子どもたちの遊びは澄みきった清らかな世界であった」。

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