く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「鶴子と雪洲―ハリウッドに生きた日本人」

2014年04月14日 | BOOK

【鳥海美朗著、海竜社発行】

 表紙のタイトル「鶴子と雪洲」の左側にやや小さく「日本人初のハリウッド女優青木鶴子と世界で活躍した早川雪洲の愛」。2人は草創期のハリウッド映画界で知り合い、1914年4月14日に婚姻届を出した。ちょうど100年前のきょう。異色の日本人俳優2人は映画ファンから「ツル」「セッシュウ」と呼ばれトップスターとして人気を集めた。

    

  早川雪洲といえば「戦場にかける橋」(1957年)。本書を手にする少し前、偶然にもDVDで数十年ぶりに観たばかりだった。舞台は第2次世界大戦中にタイとビルマの国境付近にあった日本軍の捕虜収容所。雪洲はその収容所長「斎藤大佐」を重厚な演技で圧倒的な存在感を示した。正直なところ、雪洲の映画はこれしか観たことがなく、青木鶴子のことは全く知らなかった。

 著者は産経新聞の元記者で、外信部長、編集長、論説委員などを歴任して昨年6月に退社。これを機にロサンゼルス特派員時代のハリウッド取材に加え、鶴子の手記や雪洲の自伝などを基に本書をまとめた。執筆の狙いを「あとがき」にこう記す。「『国際俳優』として一世を風靡した夫の雪洲に比べて注目されることが少なかった妻・鶴子の足跡に照明を当てることだった」。タイトルを「雪洲と鶴子」ではなく「鶴子と雪洲」としたのもそんな思いからだろう。

 鶴子の母親は「オッペケペー節」で知られる川上音二郎の妹。9歳の時、音二郎一座とともに子役として渡米したことが波乱に富む人生の始まりだった。米国では小児保護法令で子どもを夜間舞台に立たせることが禁じられていた。このため鶴子は青木瓢斎という日本人画家に預けられ、瓢斎没後は鶴子が渡米直後に知り合った2歳年上の女性ジャーナリストが〝養母〟となった。

 その女性が演劇学校に通っていた鶴子をハリウッドの関係者に紹介し、映画に出演することに。デビュー作は「ツルさんの誓い」(1913年)。英語を自在に操る日本人形のような鶴子は大きな話題を集めた。その鶴子がたまたまロスで雪洲主演の演劇を見て、雪洲に「大物の片鱗」を感じた。それを所属映画会社の社長に伝えたことが雪洲のハリウッド入りにつながった。「ツルがいなければ、セッシュウという伝説のスターが誕生することはなかった」。著者がこう繰り返すのもそのためだ。

 雪洲が出演した「神々の怒り」や「タイフーン」は大ヒットし、雪洲はその後、米国をはじめ、日本、フランス、英国、ドイツと5カ国の映画100本以上に出演した。一方、鶴子は結婚後「家庭が第一、女優は第二」と考えて1923年には女優業を引退した。

 だが「日本の芸能史上、早川雪洲ほど女性遍歴を重ねた俳優は少ない」こともあって、鶴子の苦労は絶えなかったようだ。雪洲は新人女優たち2人との間に男1人女2人をもうけたが、鶴子は3人を自分の子どものように可愛がった。70歳を過ぎて鶴子にハリウッドから声が掛かった。37年ぶりに出演した映画は「戦場よ永遠に」。日本でも1960年秋に公開された。鶴子はその1年後、71歳で急逝。雪洲は12年後、87歳で逝った。

 長男の雪夫(1921~2001)は生前「私に限りない愛情を注いでくれた」と鶴子に感謝し、女優としても尊敬していたという。一方で、父親の雪洲には強い反発を抱いていたようだ。雪夫は戦後、外国テレビ映画の輸入・販売会社で日本語の吹き替え台本づくりを担当した。「ララミー牧場」「名犬ラッシー」「ボナンザ(カートライト兄弟)」――。どれも懐かしい番組ばかりだ。

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