【白石太一郎氏講演、「〝大后〟は6世紀前半の継体朝から始まった」!】
奈良文化財同好会の月例講演会が15日、奈良市の中央公民館で開かれ、大阪府立近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)が「皇位継承に果たした皇妃の役割―6世紀を中心に」と題して講演した。白石氏は「天皇の(複数いる)后の中で特定の后が大后(たいこう)として特別扱いされ始めたのは6世紀前半の継体天皇と安閑天皇の時代からではないか」などと話した。
講演は継体天皇(531年没)の陵墓所在地の話から始まった。宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体陵としているが、白石氏は出土した円筒埴輪などから同古墳は5世紀中頃のもので年代が合わないと指摘。さらに延喜式の記述「摂津国嶋上郡」から、継体陵は同じ大阪府三島野古墳群の中にある今城塚古墳(高槻市)に間違いないと話した。
「問題は継体陵が淀川右岸の摂津にあること。ヤマト王権の地域的な基盤は畿内の南側の大和川水系。それまでの大王墓も大和、河内、和泉に集中していた。それだけに継体陵は極めて特異。そこには継体天皇の出自が大きく関わっていたに違いない」。継体天皇は近江で生まれ、父の没後は母の故郷、越前で育った。河内樟葉で即位したものの遷都を重ね、大和の磐余玉穂に移るまでに長い歳月を要した。
その背景を白石氏はこう説明する。「継体天皇を支えた勢力は畿内東辺の近江、越前や淀川水系の摂津などの豪族で、大和に基盤を置いた大王家とのつながりを持たなかった。そのため、即位してもなかなか大和に入れなかった」。継体天皇を支えたのが手白香(たしらか)皇后。仁賢天皇の娘で、武烈天皇の姉(妹説も)でもある。白石氏は「継体天皇は入り婿という形で、ヤマト王権につながることができ、反対勢力も皇位継承を認めざるを得なかった」と話す。
宮内庁は大和(おおやまと)古墳群のうち西殿塚古墳(天理市)を手白香皇后陵に治定しているが、この古墳も含め大和古墳群の大半は3~4世紀のもので年代が合わないと指摘する。ただ1基だけ前方部を北側に向けた6世紀前半築造とみられるものがある。西殿塚のすぐ北西に位置する西山塚古墳。西殿塚に比べるとやや小さいが、それでも全長が114mもある。白石氏はこれが手白香皇后陵とみる。
継体天皇没後には最初の后といわれる目子媛(めのこひめ)との間に生まれた安閑天皇、次いで宣化天皇の兄弟が即位する。目子媛は尾張の豪族の娘だった。安閑天皇は仁賢天皇の娘、春日山田皇女を后とし、宣化天皇は義母の手白香皇后の姉妹、橘仲皇女を后とした。「この2人の天皇もいわば入り婿で、皇位継承の正当性を担保する狙いがあった」。
高屋城山古墳(大阪府羽曳野市)が安閑天皇陵、島屋ミサンザイ古墳(奈良県橿原市)が宣化天皇陵とされ、当時としては珍しく夫婦が合葬されているという。白石氏は「当時の人たちからみれば、皇后の墓に天皇が合葬されたという意識が強かったのではないか」と推測する。宣化天皇没後には継体天皇と手白香皇后の間に生まれた欽明天皇が即位する。