く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<餅飯殿センター街> ビルの谷間に「めえめえ牧場」出現!

2014年07月15日 | アンビリバボー

【空き地の除草にヒツジ3頭が活躍、ちびっ子たちも次々に見学】

 奈良市の中心商店街の1つ、餅飯殿(もちいどの)センター街と猿沢の池を結ぶ路地「猿沢遊歩道」。これまで何度も通っているコースだが、15日久しぶりに歩くと、その途中の高いビルに囲まれた空き地の風景が一変していた。前回通った時はキク科の白い花(多分ヒメジオンかハルジオン)で一面埋め尽くされていた。ところがその空き地に突如ヒツジが3頭出現し「メエ」「メエ」と鳴きながら草を食んでいた。

 

 空き地の場所はセンター街にある商業施設「きらっ都、奈良」の東側隣接地。金網には「出張 めえめえ牧場」「羊の親子がお食事中」などの張り紙が掛かっていた。そばにいた関係者らしき男性によると、ヒツジたちは除草のため山添村にある「めえめえ牧場」から借りたものという。期間は13日から2週間、27日まで。いずれも頭と足だけが黒い「サフォーク」という種類で、首には「とみ」「メイ」「モコ」という名札が下がっていた。

  

 しばらくすると、かわいいちびっ子たちが先生らしき女性に引率されてやって来た。センター街のすぐそばにある奈良市立椿井小学校の1年生15人だった。初めは金網越しに草をあげていたが、そのうち11人は鍵を開けてもらって中に入った。恐る恐るヒツジの背中に触る子、ヒツジに追われて「キャー」と悲鳴を上げて逃げ回る子……。残りの4人は「怖いから」と中に入らず外から様子を眺めていた。この日は〝牧場〟見学が1年生の課外活動になっていたのか、児童たちが十数人ずつ順番で来ているようだった。

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<イヌゴマ(犬胡麻)> 唇形の淡紅色の小花がかわいいシソ科の多年草

2014年07月14日 | 花の四季

【実がゴマに似ているが食用にはならず、「チョロギダマシ」の別名も】

 北海道から九州まで全国各地の湿地に生えるシソ科イヌゴマ属の多年草。6~8月ごろ、直立した茎の上部に淡紅色の小花を輪生状に付ける。シソ科に多い唇形花で花冠の長さは1.5cmほど。草丈は40~70cm。茎の断面もシソ科に特徴的な四角形で、稜(角)には下向きの小さな棘があるため触るとざらつく。イヌゴマ属の仲間にチョロギ、ラムズイヤー(和名ワタチョロギ)など。

 花が終わるとゴマに似た真っ黒い粒状の種子ができる。だが食用にならないため「ゴマ」の上に「イヌ」が付いた。頭に「イヌ」が付いた植物は多い。イヌツゲ、イヌビワ、イヌブナ、イヌホオズキ、イヌザクラ、イヌガシ、イヌサンショウ……。その多くが「役に立たない」「食用にならない」「似て非なるもの」といった意味合いで名付けられた。

 「イヌ」には漢字で「犬」の字が当てられている。犬が付く言葉には植物以外にも「犬死」や「犬侍」など侮蔑的なものが多い。ただ植物名の「イヌ」には、本物とは違うという意味で「否(いな)」から来ているのではないかという見方も。イヌゴマには「チョロギダマシ」という別名もある。これも塊茎が食用になる中国原産のチョロギに似ていることに由来する。和名に「イヌ」、別名にも「ダマシ」。そう名付けられたこの草花が少々気の毒に思えてきた。

 しかも湿地の開発や田畑の圃場整備などで西日本を中心に分布域も減少している。環境省の絶滅危惧種にはなっていないものの、高知、福岡、宮崎、山口の各県では絶滅危惧Ⅰ~Ⅱ類としてレッドデータブックに記載、奈良、岡山両県でも準絶滅危惧種になっている。昨春、北原白秋が一時住んでいた東京都江戸川区北小岩の一角に、白秋の歌が刻まれた石碑が建てられた。「夏浅み朝草刈りの童らが素足にからむ犬胡麻の花」。

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<奈良県立民俗博物館> 夏季企画展「金魚と暮らす」

2014年07月13日 | メモ

【養殖道具から様々な金魚グッズ、金魚すくい大会の優勝トロフィーまで】

 奈良県立民俗博物館(大和郡山市)で12日、夏季企画展「金魚と暮らす」が始まった。大和郡山は和金を中心とした金魚の一大産地。会場内には金魚の養殖や出荷のための道具類のほか、金魚をデザインした様々なグッズや金魚鉢、「全国金魚すくい選手権大会」の優勝トロフィーなどが並ぶ。9月7日まで。

 金魚は室町時代中期の1502年(文亀2年)に中国から堺に初めて伝来したという。大和郡山での養殖は一説に柳沢吉里が1724年(享保9年)初代藩主として着任した際、前任地の甲斐甲府から多くの金魚職人を連れてきたのが始まりといわれる。もともと農業用の溜め池が多く、餌となるミジンコも確保しやすかったこともあって、最初は下級武士の副業として、明治維新後は農家の副業として広まった。金魚出荷量は年間約4000万匹(2012年)に上る。

 

 会場入り口の左側壁面には全国金魚すくい選手権の歩みをたどる巨大な張り紙。1995年の1回目から昨年の19回目までの優勝者(小中学生・一般・団体各部門)の名前やすくった金魚の数などが詳細に記されている(20回目の今年の大会は8月23~24日に開催)。右手には金魚の上手なすくい方などのパネル展示も。中に入ると、まず金魚グッズコーナー。土鈴・風鈴・箸置き・根付・湯呑・扇子・巾着……。そばに選手権の優勝トロフィーやメダル、金魚をデザインした副賞の赤膚焼の壺なども並ぶ。

 続いて金魚の養殖~出荷に使われる様々な道具類。「トオシ」は網目の大きさで、稚魚の餌となるミジンコの大きさをそろえるための「ミジンコ用」と、金魚の大きさを調べるための「選別用」の2種類ある。ミジンコを〝卒業〟した金魚には毎朝餌やりが始まるが、その餌は小麦粉や米粉、はったい粉、魚粉、蚕の蛹など養殖業者によって異なるという。金魚の選別は大きさや尾びれの形、色の付き具合などを基準に、生後1カ月前後の1回目を皮切りに出荷までに数回行う。

 会場には金魚をすくうための様々な大きさの手網や、少しずつ狭めて池の金魚を集める竹簧(たけす)、金魚を運ぶための丸桶、鉄道での出荷に使っていた重ね桶、大正時代まで金魚を販売する時に着用していたという半纏(はんてん)なども展示されている。金魚観賞用の金魚鉢の中では周りを木の枠で囲んだ円形の「金魚鉢桶」が目を引いた。

    

 ちなみに、縁日の金魚すくいでよく見かけるのは体長4~5cmほどの〝小赤〟だが、大きくなるに従って〝姉金〟や〝大姉金〟と呼ばれるそうだ。6~7年ほど前だったか、小赤を10匹ほど購入して飼っていたところ、そのうち3匹が大きく成長して今では13~14cmほどになった。3匹とも元気いっぱい。もう〝大姉金〟と呼んでいいのだろうか。 

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<橿原市昆虫館> 南西諸島の蝶が飛び交う癒しの空間「放蝶温室」

2014年07月12日 | メモ

【オオゴマダラやオオムラサキなど10余種、今秋で開館から丸25年】

 橿原市昆虫館が香久山公園内にオープンして今年10月で25周年を迎える。来館者は2010年に200万人を突破した。中でも人気を集めているのが「放蝶温室」。主に沖縄・八重山地方に分布するオオゴマダラなど十数種、500~1000匹の蝶が年中飛び交う。子ども連れの家族客のほか、癒しを求めて繰り返し来館する若者や熟年の方も多いそうだ。(下の写真上段㊧オオゴマダラ、㊨リュウキュウアサギマダラ、下段㊧ジャコウアゲハ、㊨ツマベニチョウ)

 

 

 温室は広さが約500㎡。ランタナなど蜜源植物のほかハイビスカスなどカラフルな亜熱帯性の植物も多い。その間を様々な蝶が舞い、花に止まっては蜜を吸う。白地に黒の斑点が入ったオオゴマダラは開張(羽根を広げた横幅)が15cm近くもある。中には海を越えて〝渡り〟をするアサギマダラの仲間も。ジャコウアゲハやシロオビアゲハなどは独特な匂いを出すことで知られる。日本の〝国蝶〟オオムラサキはずっしりした胴体で存在感十分。紫色に輝く羽根も美しい。(下の写真㊧オオムラサキ、㊨シロオビアゲハ)

 

 ここの蝶は野外で採集したものではなく、原則として昆虫館生まれの蝶ばかり。母蝶は幼虫が好む植物(食草)に卵を産み付ける。卵は毎日夕方に回収して別の飼育室で育てる。食草は別棟の温室で栽培しているが、それだけでは間に合わないため沖縄の石垣島にも食草栽培圃場を設けている。食草の葉が少なくなる冬期には代用食として人工飼料も作っているそうだ。食草を乾燥させた粉末に栄養素を混ぜて作る。(下の写真上段㊧カバマダラ、㊨スジグロカバマダラ、下段㊧ツマムラサキマダラ、㊨?)

 

  

 南西諸島にすむ蝶は寒さに弱いため、飼育室の室温は冬期でも25度前後を保っている。放蝶温室に放つ蝶の数を調整するため、種類によっては低温下で飼育して幼虫や蛹の生育速度を遅らせることもあるという。怖いのは病気の発生。そのため飼育容器や器具は特に入念に消毒する。温室内の植物にハダニやアブラムシなど害虫が発生することも。そんな場合、農薬を使えないため、枝を切り取ったり強く放水したりテントウムシなどの天敵を使ったりしているそうだ。優雅な蝶の舞の裏側では担当者の様々なご苦労があった。

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<ユウギリソウ(夕霧草)> 紫色の無数の小花が霧にかすんだように

2014年07月09日 | 花の四季

【キキョウ科、原産地は地中海沿岸地方】

 キキョウ科ユウギリソウ属(トラケリウム属)の多年草で、原産地は南ヨーロッパと北アフリカの地中海沿岸地方。日本には大正末期に渡来してきたといわれる。ユウギリソウ属には7種あり、このうち草丈の高い「カエルレウム種」がユウギリソウという和名で呼ばれている。他にギリシャ南部原産で矮性種の「アスペルロイデス種」などがある。

 花期は6~9月ごろ。草丈は30~100センチほどで、直立した茎の先端に青紫色の小花が無数に集まって直径約20センチの花をドーム状につける。小花は2ミリほどのベル形で、中心から長い雌しべが突き出して伸びる。そのため遠目では無数の雄しべで花全体の輪郭が霞んで見えるということで「夕霧草」という優美な名前をもらった。名付け親は誰だろうか。

 属名の「トラケリウム」はギリシャ語で「喉(のど)」を意味し、この植物が喉の病気に効くことに由来するという。英名は「スロートワート(Throat Wort)」。これも直訳すると「喉の草」になる。ユウギリソウの種名「カエルレウム」の語源は「青い色」という。

 花色は青紫が一般的だが、白や淡桃色などもある。涼しげな花姿から切り花として人気が高く、花壇や鉢物用も出回っている。もともとは宿根草だが、やや寒さに弱いことから日本では1年草として扱われることが多い。初夏に摘心すると、脇芽が出て花数が多くなるそうだ。

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<奥田蓮取り行事> 金峯山寺の蔵王権現に供える蓮の花の摘み取り

2014年07月08日 | 祭り

【奈良県無形民俗文化財、約30人の行者による大護摩供も】

 修験道の祖、役の行者(小角)ゆかりの「奥田蓮取り行事」が7日午前、大和高田市奥田の捨篠池(すてしのいけ)で行われた。今が盛りと咲き誇る蓮の花たち。その蓮池に漕ぎ出した蓮取り舟には行者2人も乗り込んで高らかに法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らした。摘み取った蓮のつぼみ108本はその日午後、行者衆によって吉野山まで運ばれ、金峯山寺で執り行われた「蓮華会」で秘仏の蔵王権現に供えられた。

 蓮取り行事は吉野・竹林院が所蔵する室町時代(15世紀半ば)の文献「当山年中行事条々」にも記されており、少なくとも約600年前から行われてきた。舟を使った蓮取りは明治時代初めの1870年代に途絶えていたが、1997年の市制施行50周年に舟を新調したのを機に復活した。今では奈良県の無形民俗文化財に指定されている。  

 この蓮池には「一つ目蛙」という民話が語り継がれている。池のそばに立つ「役の行者生誕地伝承」の石碑によれば――。行者の母・刀良売(とらめ)が白蓮の上に現れた金色に輝く蛙に、何気なく岸辺の萱(かや)を抜き取って投げたところ蛙の片目を射抜いた。再び水面に浮き上がってきた蛙は土色の一つ目になっていた。刀良売はこのことを気に病み、やがて亡くなる。役行者はこれを機に発心して修行を積み、吉野の山奥に分け入って蔵王権現を崇め、蛙を追善供養し母の菩提を弔った。

 

 

 蓮取りは午前10時、花火を合図に始まった。その後、行者衆約30人は摘み取った花のつぼみを3つの樽に入れ1列になって善教寺→福田寺→刀良売の墓を巡り、蓮池そばの弁天神社へ。福田寺は役の行者の生誕の地といわれ「行者堂」とも呼ばれている。善教寺は役の行者創建の捨篠院の旧跡に立つ。かつて行者産湯の井戸があったという。

   

 弁天神社では正午から大護摩供が営まれた。点火に先立って弓矢や真剣などの儀式。行者衆の中には女性の姿も目立った。そのうちの1人が呪文を唱えながら東西南北など上空5~6カ所に向けて矢を高く放った。続いて男性の行者が護摩の正面に立って、気合いとともに剣を縦横に振り回す。悪を祓って清めるための儀式だろう。その迫力はすさまじいばかり。

 

 開始から約30分、ようやく護摩に火が入った。打ち鳴らされる太鼓、一心に般若心経を唱える行者たち、もうもうと煙を上げて燃え盛る大護摩……。行者の一行はこの後、金峯山寺蔵王堂での蓮華会と蛙飛び行事に参列した。8日には蓮の花を持って大峯奥駈道を辿り、山上ケ岳山頂の大峯山寺にも供える。 

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<吹奏楽団「A-Winds」> ピーター・グレイアム作曲「地底旅行」など 

2014年07月07日 | 音楽

【やまと郡山城ホールで第43回定期演奏会】

 「A-Winds」(奈良アマチュアウィンドオーケストラ)の「2014年夏の演奏会」が6日、大和郡山市のやまと郡山城ホールで開かれた。1999年の発足から今年で丸15年。四季折々に開催してきた定期演奏会も回を重ねて今回で43回目を迎えた。

 

 前半の第1部は英国の作曲家の作品を集めた。幕開けは「オリエント急行」や「宇宙の音楽」などで知られるフィリップ・スパーク(1951~)の「ハンティンドン・セレブレーション」。明るいファンファーレで始まるテンポの速い曲。2曲目もスパーク作曲の「タイム・リメンバード(追憶されるべき時)」だが、曲調は一転してゆったりとした叙情的な作品だった。

 この2曲は団員指揮者の魚谷昌克がタクトを振ったが、3曲目から後半の第2部にかけては松下浩之が客演指揮した。松下は元大阪市音楽団のトロンボーン奏者で、現在は大阪音楽大学や神戸山手女子高校音楽科などの講師を務める。3曲目はグスターヴ・ホルスト(1874~1934)作曲の「吹奏楽のための第二組曲ヘ長調」。あの「惑星」で有名なホルストが吹奏楽の分野でも多くの作品を残していることを初めて知った。

 第2部最初の曲は米国の作曲家ラリー・クラーク(1963~)の「デジタル・プリズム」。25人という小編成での演奏だったが、次の合田佳代子(1973~)作曲の「『斎太郎節』の主題による幻想」ではコントラバスも加わり50人近いフルメンバーによる演奏だった。この曲は今年の全日本吹奏楽コンクールの課題曲の1つ。作曲者の合田は阪神大震災の被災者の1人として、東北地方の民謡をテーマとしたこの曲に東日本大震災復興への思いを込めたそうだ。

 第2部最後の演奏曲は英国出身の作曲家ピーター・グレイアム(1958~)の「交響的情景『地底旅行』」。もともとは金管と打楽器のための作品として2005年に発表されたが、大阪市音楽団の委嘱で吹奏楽版が出来上がったという。演奏時間は約15分で、ピアノも加わってトロンボーン、フルート、クラリネット、パーカッションなどの聴きどころが次々に表れる壮大な演奏。吹奏楽の醍醐味を十二分に満喫させてくれた。アンコールは天野正道(1957~)編曲の「キラキラ星変奏曲」だった。

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<ロバート・キャンベル氏> 「誰もが生きやすい多文化共生社会の生き方」

2014年07月06日 | メモ

【奈良市の「人権ふれあいのつどい」で講演】

 奈良市の「人権ふれあいのつどい」が5日、学園前ホールで開かれ、日本文学者で東京大学大学院総合文化研究科教授のロバート・キャンベル氏が「誰もが生きやすい多文化共生社会の生き方」と題して講演した。キャンベル氏が九州大学の文学部研究生として来日したのは1985年。来年で丸30年になる。

   

 キャンベル氏は東京都議会でのヤジ発言を見て、自分自身の心の中にも差別がないか自問自答したという。「差別的な振る舞いがまかり通っているのを見ると悲しくなるとともに、もったいないなと思う。日本人1人1人には非常に良識があるが、グループになると差別が生まれやすい。外の人に対して心無い発言をしたり主義を否定したりする傾向があるようだ」。専門の日本文学にも触れながら「文学者は書くことで生きるとは何なのかを問うてきた。それは究極的には〝尊厳〟だと言えるのではないか」と話した。

 キャンベル氏は病床にある明治時代の俳人ら2人が最期の時に向かってどう生きたかを闘病記をもとに紹介した。中江兆民(1847~1901)は咽喉がんで医者から「一年半善く養生すれば二年」と宣告されて、随想記『一年有半』を書き始めた。医者に余命を聞いたのは「此間に為す可き事と楽む可き事と有るが故に一日たりとも多く利用せんと欲するが故」。キャンベル氏は「病気に対し一度ものろったり、ののしったりしなかった」と兆民の潔い生き方に共感する。

 もう1人はこの兆民の随想に刺激を受け、結核療養中に『病牀六尺』を新聞に連載した正岡子規(1867~1902)。連載100回目にこう書いた。「百日の日月は極めて短いものに相違ないが、それが余にとっては十年も過ぎたやうな感じがするのである」。連載は死の2日前、127回まで続いた。キャンベル氏は「2人は病状が進行していく中で、生きるとは何か、自分とは何かを毎日考えながら書き続けた。〝究極の個〟に追い込まれた人の生き様は、1つの参考として生活の中に生かしていくことができるのではないか」と話した。

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<京大未来フォーラム> 人と防災未来センター長の河田惠昭氏が講演

2014年07月05日 | メモ

【「国難」研究の最前線~南海トラフ巨大地震と首都直下地震の被害の定量化】

 「京都大学未来フォーラム」が4日、京大百周年時計台記念館で開かれ、阪神・淡路大震災記念人と防災未来センター長で関西大学社会安全研究センター長・教授の河田惠昭(よしあき)氏(京大名誉教授)が講演した。演題は「『国難』研究の最前線~南海トラフ巨大地震と首都直下地震の被害の定量化」。河田氏は「災害と私たちの知恵比べで、〝想定外〟となるような巨大な災害を起こさないことが重要」とし、そのためにも想定される被害全体の定量化と最悪被害のシナリオが不可欠と強調した。

 河田氏はまず「起こってほしくない地震群」として3つを挙げた。①首都直下地震がウイークデーの朝のラッシュアワーに起きる②南海トラフ巨大地震が台風接近中あるいは梅雨前線豪雨時の夜中に起きる③京都東山36峰と平行して南北に走る花折断層帯地震が、祇園祭の宵山あるいは山鉾巡行の最中に起きる。「こんな最悪な事態も想定されるものの、現実には全く対策が立てられていない」。

 河田氏は首都直下地震と南海トラフ巨大地震は「国難」となって日本衰退を招く恐れがあると警告を発する。過去の例として江戸幕府解体につながった江戸末期の複合災害を挙げる。1854年に安政東海地震と南海地震、55年には安政江戸地震、さらにその翌年には安政江戸暴風雨に見舞われた。巨大災害群の襲来で幕府の財政は逼迫し、外圧(列強の開国要求)と内圧(倒幕運動)と相俟って、幕藩体制崩壊の大きな要因の1つになったとみる。

 平安時代の9世紀後半にも富士山貞観大噴火、貞観地震、仁和南海地震が相次ぎ発生し国難に直面した。貞観地震は京都の祇園祭が始まるきっかけになったことでも知られる。18世紀初めにもわずか4年の間に元禄地震、宝永地震、富士山宝永噴火と大災害が続いた。「歴史は繰り返す。(大災害が連続して)起こるということを考えておく必要がある」。東日本大震災に続いて首都直下地震、南海トラフ巨大地震が発生すると、日本は立ち行かなくなって先進国から落ちこぼれていく恐れもあるという。

 首都直下地震は30年以内の発生確率70%で、被害想定は死者2万3000人、被害額200兆~300兆円、震災がれき量は約1億トン(東日本大震災の3倍)。南海トラフ巨大地震は死者32万人、被害額220兆円、がれき量3.1億トン。「ただ、公表数字はあくまでも限定的なもの。社会・経済的な被害額はカウントできるものしか含まれておらず、現実的にははるかに超える数字になる」と予想する。

 河田氏は上場企業の86%が本社を東京に置き、人口が集中する首都圏一極集中の現状を憂慮する。「フランスと英国もパリ、ロンドンに集中しているが、日本と違って両国には活断層がない。東日本大震災は復興に20年を要するといわれるが、首都直下地震の復興には少なくとも100年はかかる」と指摘する。そして「首都圏一極集中を意識的に破壊することができるかが(防災・減災上の)最大の課題」とも力説していた。

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<BOOK> 「オオカミが日本を救う! 生態系での役割と復活の必要性」

2014年07月04日 | BOOK

【日本オオカミ協会会長・丸山直樹編著、白水社発行】

 編著者の丸山氏は自然保護文化論、野生動物保護学を専門とする農学博士。シカの研究に20年以上関わってきた丸山氏がポーランドの田園地帯で野生のオオカミ2匹に遭遇したのは四半世紀前の1988年。「それまで植生とシカなどの植食獣止まりだった研究分野に、頂点捕食者オオカミが加わり、ようやく食物連鎖全体が視野に入り、生態系の自然調節機能も何となく理解できるようになった」。5年後の1993年には「日本オオカミ協会」を設立、以来、精力的にオオカミ再導入の必要性を訴えてきた。

   

 全国各地でシカの増え過ぎによる森林の荒廃や生態系への悪影響などが問題になっている。イノシシやサル、アライグマなどによる農業被害もますます深刻化。こうした獣害問題を解決して生態系を保護するには「狩猟・駆除だけでなく、頂点捕食者であるオオカミの復活がどうしても欠かせない」と繰り返し説く。だが、オオカミは童話や民話に必ず悪役として登場し、日本には「送り狼」「狼に衣」といった言葉もある。著者はこうした怖いオオカミ観を〝赤ずきんちゃん症候群〟と呼ぶ。

 オオカミは数十万年前から日本に生息し人と共存してきた。だが100年ほど前に突然姿を消した。絶滅の原因は「野生動物の全国的な乱獲と、当時の行政による強力なオオカミ駆除政策が主因とみられる」。海外では生態系保護のため、いち早くオオカミ復活への取り組みが始まった。米国は1990年代半ばイエローストーン国立公園で世界で初めてオオカミ再導入に踏み切った。ヨーロッパでもEUが保護政策を打ち出し、今では29カ国でオオカミが復活し1万7000~2万5000匹が生息しているという。いない国は英国、オランダ、ベルギーなど数カ国にすぎないそうだ。

 本書は様々な疑問に答える形で、オオカミに関する誤解と偏見を解くことに力を注ぐ。人を襲うのでは?「オオカミは人への恐れと警戒心が強く、人との遭遇を避けようとする」「オオカミによる人身事故の発生の確率は限りなくゼロに近い」。ヨーロッパでの過去50年間の人身事故は9件にすぎず、うち5件は狂犬病にかかったオオカミによるもの、残り4件は不用意な餌付けなどによる人馴れが原因という。欧米の多くのオオカミ研究者の間では「健康なオオカミはヒトを襲わない」というのが今や定説という。

 最近読んだ『ヒトは食べられて進化した』(化学同人発行)にも「北アメリカではこれまで、人間はオオカミ(狂犬病のオオカミを除く)に一度たりとも襲われていない」とあった。ただ「ヨーロッパのオオカミは中世以前から現代までそれとは正反対の記録を残していた」として、いくつかの事例を挙げている。時代を遡るが、エストニアでは「1804~53年の間に111人がオオカミによって殺され、その中の108人が子ども(平均年齢7歳)だった」という。この数字をどう捉えたらいいのだろうか。

 狭い日本にオオカミの居場所はあるのか?「人口の大部分は国土面積のわずか十数%にすぎない平野部の都市域に集中しており、オオカミ生息可能域は各地に広大な面積で存在している」。羊や牛などの家畜が襲われないか?「夏季を中心にしたヒツジの野外飼育は小屋の周りの狭い飼育場に囲われていて、オオカミによる捕食害発生の可能性は考えられない」「成牛はオオカミにとっては体が大きすぎて捕食の対象になりにくい」。オオカミを復活させるとしたら、どこから連れてくるのか?「ユーラシア大陸に広く分布するタイリクオオカミ(ハイイロオオカミの1つの亜種とされる)のうち日本に一番近い地域に生息するものが第一候補」。

 生態学者はオオカミを「キーストーン(要石)種」と呼ぶそうだ。「オオカミ復活論は好き嫌いや恐れなどによる感情論ではなく、あくまで論理的な思考にもとづいて議論し、合理的な判断を下すべき問題。一言でいって、最近の獣害の激化を見るならば、オオカミ復活をためらっている状況ではない」「奇人変人と見られようが、オオカミ復活は日本の国土を救うために必要なことなのです」。著者の固い信念と意気込みがひしひしと伝わってくる。復活へのカギは国民の間に蔓延する〝赤ずきんちゃん症候群〟を払拭しながら、同時にどう行政側の理解を得ていくかだろう。

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<トケイソウ(時計草)> 花の幾何学模様を時計の針や文字盤に見立て

2014年07月02日 | 花の四季

【英名は「パッション・フラワー」=キリスト受難の花】

 トケイソウ科の常緑つる性植物。主な原産地はブラジル、アルゼンチンなどの中南米で、トケイソウ属の仲間は熱帯アメリカを中心に世界に500種以上が分布する。日本への渡来時期は享保年間(1716~36年)とする説のほか豊臣秀吉の時代(1582~98年)には既に来ていたとする説など諸説がある。トケイソウは1642年完成の比叡山延暦寺の根本中堂の天井画「百花の図」にも描かれているそうだ。いずれにしろ江戸時代前半までに渡来していたのは間違いない。

 花期は6~8月ごろ。個性的で不思議な幾何学模様が目を引くが、その派手な色と形は原産地の熱帯地方で昆虫を誘うためといわれる。日本では3本に分かれた雌しべを時計の時針・分針・秒針に、その下の雄しべと花被片(萼と花びら)を文字盤に見立てて「時計草」の名前が付いた。実に言い得て妙な命名だが、所変われば品変わる。英名では「パッション・フラワー」と呼ばれる。この「パッション」は「情熱」ではなくて、キリストの「受難」を意味する。

 英名は16世紀に布教のため南米に渡ったイエズス会の宣教師がこの花を見てラテン語で「受難の花」と呼んだことに由来する。属名の「パッシフローラ」もここから来ている。3本の雌しべを十字架に掛けられたキリストの姿、副花冠と呼ばれる細い花びらを後光、そして10枚の花被片を裏切り者のユダとペテロを除く10人の使徒たちと見立てた。果実が生食やトロピカルジュースになる「パッション・フルーツ」は和名では「クダモノトケイソウ(果物時計草)」と呼ばれ、沖縄や鹿児島で栽培されている。

 東経135度の日本標準時子午線上に立つ「明石市立天文科学館」では、阪神大震災が起きるまで毎年「時の記念日」(6月10日)にトケイソウの苗を配布していた。3年余にわたる復旧工事の間に栽培していたトケイソウはなくなったが、配布苗を育ててきた市民から株分けを受けて再び栽培している。今年の記念日には市民グループが育てた苗500株を配布した。記念日の6月10日は天智天皇の漏刻(水時計)が初めて時を刻んだ日。南米生まれのトケイソウが記念日が近づくと咲き始めるというのもなんだか不思議な気がする。「時計草雄しべと雌しべ交はらず」(大堀柊花)。

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<石上神宮> 厳かに「神剣渡御祭」 太鼓の音から「でんでん祭」とも

2014年07月01日 | 祭り

【茅の輪をくぐって半年間の罪穢れを祓う「夏越の大祓式」も】

 日本最古の神社の1つといわれる奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮で30日「神剣渡御祭」が行われた。末社の神田(こうだ)神社に向かう渡御の行列が、太鼓をデン・デンと打ち鳴らしながら進むことから「でんでん祭」とも呼ばれる。この日夕には半年間の罪・穢れを祓い清める「夏越の大祓式」も行われた

 

 神剣渡御祭は大和の夏祭りのさきがけといわれる。神事は国宝の拝殿で、一般の参拝者も多く参列して午後1時から始まった。その後、先祓い・太鼓を先頭に行列を組んで神田神社に向かった。行列は早苗籠、早乙女、作男、唐櫃、神剣、斎主と続いた。神剣は明治時代まで古くから伝わる「七支刀」を用いていたが、国宝の貴重な神宝であることから今では複製の刀(上の写真右奥の縦長の袋に収められたもの)を用いているという。

  

 神田神社に到着すると、例祭に続いて五穀豊穣を祈願するお田植え神事。神前に設けられた祭場で作男、牛役の神職が鍬入れ、田起こしなどの農作業の所作をユーモラスに繰り広げると、見学者の間にたびたび笑いの輪が広がった。この後、早乙女3人が早苗を一つ一つ丁寧に並べていった。松葉などで代用する神社も多いが、ここでは本物の早苗を使っていた。家内安全や厄病退散のお守りになるということで、終了後には見学者が自由に持ち帰っていた。実際に植える人も多いそうだ。

 

 全ての神事が終わったのは午後3時すぎ。行列は再び太鼓を打ち鳴らしながら石上神宮に戻っていった。社務所前の参道には直径が2mほどもある大きな茅の輪。午後5時から始まる大祓式の前に引き揚げたため、その模様はお届けできないが、例年、神剣を先頭に神職らが次のような古歌を唱えながら3回くぐるという。「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり」。

  

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