kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「生きる」とは「生きていくこと、生きていること」  カズオ・イシグロの世界に再び

2023-04-05 | 映画

黒澤明ファンでも、古い日本映画ファンでもないので、さすがに志村喬版は見たことがない。それでも、カズオ・イシグロ脚本にかかる本作を見れば、黒澤・志村の「生きる」が名作であることが偲ばれる。

ストーリーに現代のようにひねりがあるわけではない。余命いくばくもないことを知った男が、無気力に生きてきた自身の現在、生き方を見つめ直し、最後にやり遂げる仕事を見出す。言ってしまえばただそれだけだ。もちろん彼が正気を取り戻したのには、職場の部下である溌剌とした若い女性の存在がある。これは老いらくの恋ではないし、下心でもない。彼女は、階層的には上流出身ではなく、洞察力深い人物にも描かれていない。若さとそこから迸る衒いのなさだけが取り柄にも見える。しかし、そこに彼は「生きる」意味とその表し方を見とったのだ。そう、「生きる」ことの崇高さを見出したのだ。

日本人のルーツを持つカズオ・イシグロが小津安二郎の世界ではなく黒澤映画、それも「生きる」を選んだことに英国と日本、明快ではない曖昧な態度、本質を直接は問わないその文化的近似性に着目したからの成功と言えるだろう。カズオ・イシグロの世界は静謐、特に大きな事件も起こらず、展開も穏やかであるのに読む者を引き込む。『クララとお日さま』は未読だが、『日の名残り』の語り手のとても抑えた、それでいてページを繰るのももどかしいくらいの展開にワクワクし、アンソニー・ホプキンスの映画版も何度も見たことを思い出す。そのイシグロが選んだのが「生きる」。戦後間もない頃を時代背景として、敗戦国の日本と戦勝国の英国。とは言え、どちらも戦後復興からこれからという時代。高度経済成長はまだだが、これからは戦争もなく、働いて自分も家庭も国も上向きになるだろう。主人公は世代的に戦争も経験している。出征経験もあるかもしれない。それが、不治のガンと知り、半ば自暴自棄になるが、それまで自分は一所懸命に生きてきたのか、なすことをなしてきたかと反芻すると、光が見えてきた。人の「生きる」には死とは違った終わり方があるのだと。

ウィリアムズ演じるビル・ナイがいい。風貌はリタイアしてもいい老齢だが、部下はいるが役所の一介の市民課の課長。部署間の関係もあり、権限が大きいわけではない。たらい回しにしてきた案件、地区の婦人らが陳情してきた公園整備がある。死期を知り、貯金をおろして無断欠勤を続けるウィリアムズは、街で部下のマーガレットに会い、何かと誘い出す。戸惑うマーガレット。しかし、ウィリアムズが、忙しそうにして自分の退職金だけが目当ての息子にはガンを告げられないでいるのに、マーガレットには打ち明ける。驚くマーガレットの頬を伝う涙がとてつもなく美しい。本作で一番好きなシークエンスだ。やっと他者に自己の残された時間の短さを伝えられたウィリアムズは、公園整備に残り時間の全てをかける。

マーガレットに「ゾンビ」とあだ名を付けられていたウィリアムズが「復活」したのだ。黒澤の「生きる」には、戦中世代の志村演じる渡辺の記憶、それは戦時中賛美された「散華」という戦場で死ぬことこそ美とする倒錯した価値観を見出すのは容易だろう。しかし、ウィリアムズの「復活」は死して、あるいは死ぬ前の底力といった嫌らしい見方はしたくない。「生きる」ということは、時流を含めいかなるものにも流されず、流されていることを自覚しつつ、それに抗う自己確認の絶え間ない、弛まない作業なのだろう。

かくも「生きる」というのは深く、尊いものなのだ。

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一人がひとつ コスパやタイマが重宝される社会への異議申し立て 「チョコレートな人々」

2023-02-18 | 映画

日本酒やワインの「あて」にチョコレートが好きだ。それも、カカオをあまり使わず、砂糖で誤魔化しているような安ものが気に入っている。けれど、こういった安くて、どこで生産されたかもよく分からない製品は、児童労働や生産者の正当な収入につながっていないとの指摘もあり、本来は避けるべきだろう。そこで、最近はフェアトレードのチョコを買うようにしているが、どこの国のどの生産者か不明な製品を除くという意味で「シングルオリジン」までには程遠いようだ。ゴディバをはじめ、高級チョコはそれなりに高価だ。しかし、原材料の正当な価格、製造者の適正な賃金という意味では、安すぎるのがおかしいのだろう。

高級チョコレートというとゴディバくらいしか思いつかなかったくらいであるから、久遠チョコレートは知らなかった。そこは、障がい者雇用の理想系、発展系。創業者の夏目浩次は言う。なぜ障がい者ということで賃金がおそろしく安いのか、最低賃金を超える額を目指すべきではないかと。夏目は少年時代、障がいのある同級生をいじめたことで、その同級生が転校、それを負い目に感じていた。そして障がいのある人にも正当な賃金を支払うとしてパン屋を開業。しかし、現実は甘くない。カードローンで作った膨大な借金を抱え、努力すれば障がいを乗り越えられるとの思いが強く、パン屋の「看板娘」だった美香さんを失う。美香さんの母親からは、「もう少し成長してください」。手間の割に利益が少なく、廃棄も多いパン製造。そこに手を差し伸べたのがトップショコラティエの野口和男さんだった。「一人がひとつ、プロになればいい」。できない、ではなくて、できることを分かち合えばいいのではと。パン屋からチョコ店への挑戦だ。

「チョコレートは失敗しても温めれば、作り直すことができる」。映画で何度も流れるフレーズ。そう、さまざまにある作業工程を分割、分類し、それぞれの得手不得手で担当する。単純作業を素早く繰り返しこなせる人、手先の器用さが要求される細かな飾りつけ、なんでもできるゼネラリストは要らないのだ。すると夏目の職場には障がいのある人だけでなく、シングルマザーや家族を介護中の人、そしてセクシャルマイノリティで、これまでの職場で生きづらかった人まで働き出す。セクマイの「まっちゃん」は、チョコ店の隣にオープンしたカフェの店長に。身体的、時間的などそれぞれの制約に合わせた職場環境の結果だ。そして、夏目の次の挑戦はより重度の障がいがある人の安定的な雇用だ。突然の発作のチック症で床を強く踏み鳴らしてしまう鈴木さんが働きやすいよう、1階の作業ラボを開設。鈴木さんが好きな音楽を鳴らすことによって症状は減っていった。

障がいのある被用者全員の最低賃金克服はまだ道半ばだ。安く使い回しているとの批判もある。しかし、久遠のチョコは今や、百貨店のショコラ祭典に出店、全国に展開する。久遠の看板商品、テリーヌはさまざまな素材、果実はもちろんのこと、ナッツ類、日本茶などまで石臼などで細かく、細かく丁寧にすりつぶした粒や粉が混じる逸品で、150種を超える。マッチ箱より少し大きいくらいで1枚250円。しょっちゅう購入するにはうなってしまう高級さだ。けれど、その背後に「正当な賃金」への思いが込められていることに想像力を働かせるべきだろう。

特別支援学校を卒業しても一般の就職先は少ない。授産施設などで工賃0円の仕事に就く人も少なくない。その特別支援学校の卒業式で象徴的なシーンがあった。「君が代」斉唱だ。

大阪の特別支援学校で生徒の体調を心配し、生徒とともに「君が代」斉唱の際、座ったままでいたことで処分された教員がいる。「一人がひとつ」を認めないなんという硬直さ。夏目さんの理想のためには、学校現場からも改革が必要だろう。

制作は長く時間をかけ、丁寧な取材でドキュメンタリーの名作、快作を作り続けてきた東海テレビ。次回作も楽しみだ。

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#Me Tooはあなたも、そして告発される側も   SHE SAID その名を暴け

2023-02-03 | 映画

「話す」「語る」といった英単語を思いつくだけ挙げてみても、talk, tell, speak, mention, referなど幼稚な英語力でもいくつも浮かぶ。「主張する」や「告発する」なども入れるともっと多いだろう。しかし、ここではsayなのだ。つまりそれまでは、長い人で20数年も「言えなかった」のだ。

世界で拡がった主に性暴力、性犯罪被害女性らの告発、真相究明、責任追及の運動“#Me Too”の発端となったハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの悪行とそれを実名で告発する勇気を描いた、調査報道したニューク・タイムズ紙実在の記者2人と報道現場の物語である。

キャリー・マリガン演じるミーガン・トゥーイー記者は産後うつに苛まされていた時期にこの厳しい案件を抱え、ゾーイ・カザン演じるジョディ・カンター記者は一つ間違えば危険と隣り合わせの取材を敢行する。そして映画では2人の私生活も描かれ、スーパーウーマンではない生身のフツーの記者や社内での強固なバックアップ態勢、編集長のぶれない姿勢も描かれる。そう、ウォータゲート事件を暴いた往年の名作「大統領の陰謀」(1976)では、男性記者の背景、家庭が描かれることはなかった。40年以上経って報道の現場やそれを描く側に女性がきちんと進出してきた証である。不十分ではあるが。

映画にはワインスタインの姿はチラリとしか出てこないし、暴行現場の再現も一切ない。薄暗いホテルの廊下を映し出すだけで、どんな恐ろしいことが行われていたかを示すには十分な演出なのだ。日本でも男性映画監督の性暴力を告発した動きの中で、インティマシー・コーディネーター(セックスシーン、ヌードシーンや性的連想を含む場面で演者に寄り添い、その尊厳を損なわないよう配慮する専門職)起用の動きが広がったが、震源地のハリウッドではずっと進んでいるという。そして、性暴力を告発するのに、その暴力場面は必然でないことが本作で明らかになった。本作のような実話に基づく作品も含めて、暴力場面の再現はサバイバーの負担やフラッシュバックの危険性さえある。その狙いが奏功してか、被害者であるアシュレイ・ジャッドは本作に実人物として出演している。

ハリウッドの醜聞とNYタイムズ社というアメリカ社会そのものを描きながら、マリア・シュラーダー監督はドイツ出身、マリガンは英国俳優だ。マリガンには出世作「17歳の肖像」(2009)をはじめ、カズオイシグロの名著「私を離さないで」(2010)、そしてサフラジェット(女性参政権運動)を描いた「未来を花束にして」(2015)と好もしい作品が目白押しだ。トゥーイーは敵役だったと思う。

本作の出来とは関係なく、少し残念なことが2点。連邦議会の中間選挙の趨勢やインフレに伴う大幅な物価上昇などに注目が集まり、アメリカでは興行的にはあまり成功しなかったそうだ。#Me Tooは世界的な動きなのだから、アメリカ以外での成功を祈る。

そして、#Me Tooの範疇に入るかどうか分からないが、自分自身、苦い思い出がある。「残念」とは違うかもしれないが、それを決して忘れないことが、自分なりの#Me Tooに対する贖罪の回答だと考えている。

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凍りつくようなビジネス会議の実相  ヒトラーのための虐殺会議

2023-01-24 | 映画

とても怖い映画だ。数多あるオカルトやサスペンス、スリラーではない、現実を映し、それも登場人物が全て冷静、正気、論理的に整合性が保たれているのが何よりも怖いのだ。

ヴァンゼー会議。1942年1月20日、ベルリン、ヴァンゼー湖畔の邸宅で行われたわずか90分の会議で、ナチスドイツの高官らによって「ユダヤ人問題の最終的解決」が話し合われ、全員一致で遂行が決定された。「最終的解決」とは言わずもがなの虐殺、滅殺である。そこで話し合われたのは、欧州に住まう1100万人のユダヤ人をいかに効率的に運搬し、虐殺し、死体を処理するかということ。そして、選別、運搬等は「人道的」に行わらなければならず、対象のユダヤ人の血統性も。ナチスドイツの占領現場の軍人や高官らが気にするのは、その地域に何人のユダヤ人がいて、その「処理」にいかほどの労力、日数がかかるかということ。彼らが見ているのはユダヤ人という「人間」ではない。まるで、生産・流通・消費管理とも言える工業製品の数のようだ。そう、原題はTHE CONFERENCE。「会議」であったのだ。

進行はビジネス会議そのもの。ヒトラー総統の意思―アーリア人のヨーロッパ建設のめにユダヤ人を一掃―との計画を説明するラインハルト・ハイドリヒは、ゲシュタポ(親衛隊=SS)高官を引き連れ、話し合いと言いながら用意した「解決」策を政府次官や軍事参謀に飲ませる。そう、異論は許さないし、そもそも、異論が生じる余地もない。ユダヤ人の「最終的解決」については誰も疑いなく賛同していたからだ。彼らの興味関心は、あくまで遂行に至る輸送や担当するドイツ軍の受け入れ態勢、「処理」する時間などであって、ユダヤ人という「人」にはない。それまで行われてきた銃殺では、撃つ兵士に心的影響が発する恐れがあるけれども、ガス室で大量「処理」すればそれは解決されるというのだ。それも、徴発したユダヤ人を貨物車両に押し込み、収容所に引き込み線を設置し、降車させてすぐガス室に入れれば、ドイツ人の誰の「手も汚さず」、心理的負担もないという。なんというビジネスライクなのだろう。

ハイドリヒの説明を有能な事務方として補足するのはアドルフ・アイヒマン。アーレントが「凡庸な人物」と評した一公務員ではなく、冷酷な執行者であった。アイヒマンは、建設中の巨大な「殺人工場」アウシュビッツはじめ、収容所へのユダヤ人の強制輸送を「効率的」、計画的に「成功」させた人物として知られる。しかし、多分、アイヒマンのみならず、ハイドリヒやその他の次官、軍人等、会議に出席したナチスドイツの指導・決定層は仕事としてユダヤ人の「最終的解決」をいかに成し遂げるかという公務―それがヒトラーのおぼえめでたい地位になりたかったとしてもーに邁進していたに過ぎない。そこまでユダヤ人であれ、ナチスに有用でないと見た人であれ同じ「人間」と見ない感性と、それを後ろ押しする政策のコマに過ぎなかったということだ。

ヴァンゼー会議に集った者らは、ヒムラーやゲーリングといったヒトラーの最側近ではなかった。いわば現場のトップに過ぎなかった。中には、この会議で重要な決定に与ったとしてヒトラーに面談をと願う者もいる。王に見(まみ)えたい下僕そのものの心性だ。

さすがにヴァンゼー会議のような悪魔の決定を行なっているとは思わないが、国会という代表民主制の枠組みがあるにもかかわらず、この国では軍事拡張を目指す重要な決定を国会に諮らずに閣議決定という手法を用いている。暴走する政権が勝手に開く「会議」の怖さと内容を改めて思うのだ。

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パンドラの箱を開け、出てきたのは  「エルピス  ー希望、あるいは災いー」

2022-12-31 | Weblog

このブログで映画ではなくテレビドラマを取り上げるのは本当に珍しい。それくらい取り上げるに値する優れた作品だと思うからだ。

長澤まさみさん主演の「エルピス ―希望、あるいは災いー」(関西テレビ系)は、冤罪事件に関心のある者なら、物語のベースに飯塚事件や足利事件の要素があることにすぐ気づくだろう。現にプロデューサーの佐野亜裕美さんは、さまざまな冤罪事件を参考にしたことを明らかにしているし、同時に伊藤詩織さんの性被害もみ消し事件にもヒントを得ていると明かしている。なるほど、飯塚事件や足利事件はいずれも女児の殺害事件である。そして、飯塚事件で犯人とされた久間三千年さんが、確定後わずか2年で死刑が執行されたのは、ちょうど確度の高い新しいDNA鑑定により足利事件で服役していた菅谷利和さんの無実が明らかになる直前だったことから、久間の死刑を急いだのではと大きな疑惑がある。エルピスでは被害者が中学生に置き換えられてはいるが、飯塚事件のように連続犯、真犯人のDNA鑑定によって、無辜の死刑囚の雪冤につながるという点も同じだ。さらに、物語の前半が冤罪事件を追う展開が中心であるのが、後半は、真犯人を匿い、無関係の被疑者をでっち上げる権力犯罪の様相が大きくなる。そして、終始それを追い、描く報道の側の問題、視聴率重視や横並び、権力への忖度、自己保身といったテレビ業界の膿を自ら仔細に描いているところが凄みだ。

真犯人の父親が自己の地盤の有力支援者であり、その醜聞をなきことにするため、警察に圧力をかけ、無実の人を死刑にまで落とし込む政権与党の大門雄二副総理は、麻生太郎現副総理がモデルとのもっぱら話題となっている。そして麻生副総理といえば、安倍晋三政権を支えた功労者であり、伊藤詩織さんを性暴行した件で山口敬之元TBS記者に逮捕状まで出ていたのに、執行直前に取り消しになったのは菅義偉官房長官に近い中村格警察庁刑事部長が指示したことも明らかになっている。紛れもない権力犯罪(もみ消し)である。

ドラマでは、現実にはあり得ないと思いたい、大門副総理が自分に近い議員の性犯罪をもみ消すために、それを明らかにした娘婿まで「始末」する様が描かれる。もちろん自殺に見せかけて(もっとも、ロッキード事件での田中角栄秘書の「自殺」や、あの森友事件でも自殺者が出ている)。この議員による性暴行と娘婿の疑惑死をニュースでぶち上げようとする長澤まさみさん演じる浅川恵那キャスターに、現場責任者は放送させまいと必死で止めるが、聞かない浅川のもとに現れるのは元恋人で、テレビ局の政治部官邸キャップから大門の引きで議員出馬を目指し、現在はフリージャーナリストの斎藤正一(鈴木亮平)。斎藤は、浅川に今それを明かせば、日本の政治、外交、経済等に大きな影響が及び、不幸になる国民が夥しく生まれることを想像できるか、責任が取れるのかと問う。そして自分が国会に出た暁にはけじめをつけるとも。このシーンには若干違和感があった。と言うのは、権力が本当に権力たり得て怖いのは、一メディアの暴露により権力構造そのものが崩れることは考えにくいからである。たとえ政権与党が変わっても。「文春砲」を後追いする現在の野党に皮肉を効かせているのかもしれないが。むしろ、志を持ち、清廉な政治をと目指した一議員も権力に近づけば、近づくほど当初の志から遠ざかってしまう(だろう)という現実を暗に示しているのかもしれない。

「カーネーション」をはじめ、数々の傑作を送り出してきた脚本の渡辺あやさんと、この企画を数年がかりで、放送局を移ってまで実現させた佐野プロデューサーとのコンビで面白くないはずがない。ドラマでは死刑囚には解放された平和の日々が、マスコミに追い回される大門副総理の姿が描かれる。飯塚事件の久間さんの雪冤も是非と思うが、よりハードルが高いだろう。

中村格氏は論功で警察庁長官まで上り詰めたが、安倍氏銃撃事件の警護ミスの責任を取り、辞職した(退職金は8000万なそう)。歴史の皮肉とうやむや感はどこにもあるが、せめてドラマでは正義を通して欲しいし、それを考えさせるドラマであったと思う。

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そう、関西最大の美術運動なのに「未知」であったのだ。「すべて未知の世界へ GUTAI  分化と統合」

2022-12-06 | 美術

ちょうどゲルハルト・リヒター展(豊田市美術館2022.10.15~2023.1.29)で見たリヒターの〈アブストラクト・ペインティング〉(「抽象画」というとそのままだが、作品名(シリーズ)である。)でスキージ(squeegee:平ヘラ)が使用され始めたのが1980年代だと知ったことから、名坂有子が具体美術協会で活動しだした1960年代にスキージを使用した同心円状の作品を多く制作していたことに驚いた。ただ、両者の間には制作手段(道具)がたまたま似ていただけでその意味合いは大きく異なるだろう。リヒターの「かたちを成してはまた別様に転じる」手法は「20世紀後半のモダニズム絵画が志向したような絵画の自律性とは異なり、メディウムとしての絵具が自律へと解放されている」からだ(「「絵画は役に立つのです」−リヒター作品における「もの」と「ビルト」、「複数性」と「真実性」をめぐって」鈴木俊晴『ゲルハルト・リヒター展図録』2022)。

「絵画の自律性」とは何か。筆者の拙い理解で言うと、絵画はそれ自体で完成形であり、他の要素に左右されない、という考え方と言っていいだろう。ここでいう「他の要素」は、典型的には明確な政治的主張や美術界にとどまらない既存の体制に対する反抗といったものが考えつくだろう。それは、戦争中自由な表現が圧殺され、体制が認める表現しか選択しえなかった世代が、戦後、民主主義の世の中となり、圧殺の反動として開花させた表現でもあった。大正期に花開いた近代日本美術の中の前衛は、徐々に体制側に組み込まれ、ある者は従軍画家のように戦意高揚の片棒を担ぎ、ある者は積極的に美術界の国家主義化、天皇制軍国主義発意の頭目となった。そして、1941年にシュルレアリストの福沢一郎と瀧口修造が治安維持法違反で検挙されるに及んで、日本の前衛美術は終焉した。

 戦後、前衛をはじめ画家らは活動を再開し、戦争下の鬱屈を表現したり、明るい希望を画布に託そうとした。そういった中で共産党など左翼陣営の復興に合わせて、労働運動・農民運動をサポートする絵画(ルポルタージュ絵画)や、より自由な表現を求めてアンデパンダン展への「過激な」出品なども相まった。これらはいずれも「他の要素」を背景とした、美術作品で自己の主張を背景にした表現活動と言えるだろう。

そういった時代背景の中で、占領下も終わり、戦後10年近く経った時、「(絵画の)自律性」を高らかに宣言した美術運動が始まった。1954年発足の、政治も美術もあらゆる近代的価値の中心地である東京ではなく、関西、それも大阪ではない地芦屋と言う街で勃興した「具体美術協会」(「具体」)である。指導者・吉原治良の宣言は言う。「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。具体美術は物質を偽らない。具体美術に於ては人間精神と物質が対立したまま、握手している。」(「具体美術宣言」『芸術新潮』1956年12月号)。折りからのアメリカ抽象表現主義の理論的バックボーンともなった、絵画における歴史的文脈を拭い去ろうとしたフォーマリズムを、さらに戦後・解放後の日本の美術事情を加えたメディウムの力、表現そのものの力を強調する物言いと言えるであろう。

本展では、大阪中之島美術館で具体の個々のメンバーの表現の独立した挑戦を「分化」で、国立国際美術館では、その個々のメンバーが団体として「統合」する様を読み解く。具体の作品がそれぞれに散らばっていたものを集合、系統立てて知ることができるのも2館を跨いだ本展の特徴だ。戦後、関西が産んだ最大の美術運動であるのに、美術界以外の一般鑑賞者にはとっつきにくい感もあった具体の総合展。心して見ていきたい。(すべて未知の世界へ  -GUTAI 分化と統合 展は、1月9日まで)

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壁を越える試みが、人をつなぐ  「こころの通訳者たち」

2022-12-01 | 映画

講演などをテープ起こしするにはカセットテープが一番で、ICレコーダーは使いにくいと思っていたら、文字変換ソフトがかなり進化していて、今では正答率が90数%までいくとか。そもそもカセットテープは百均くらいにしか売っていないし、レコーダーはどこに売っているのだろう?

「こころの通訳者たち」は、舞台手話通訳者(通常の手話通訳と違い、通訳者も出演者として、役者と同じ衣装を舞台に立つ)が聴こえない人のためにどう演劇を楽しんでもらうか、その演出、表現等工夫して作り上げた舞台映像(「ようこそ舞台手話通訳の世界へ」)を、今度は、流される文字の台詞をラベリング(台詞を音声に変換)して、見えない人に舞台を楽しんでもらおうとする取り組みを描いたドキュメンタリーである。こんがらがりそうだが、要するに①聴こえる、見える人を対象にした舞台 → ②台詞を舞台袖に流し、聴こえない人に対応 → ③その台詞を、見えない人に理解しやすいよう言い換えて音声として加える。という途方もなく時間と労力のかかる作業の成功譚だ。

これは、通常「健常者」だけを観客として想定している舞台に聴こえない人に対する壁を越え、さらに見えない人に対する壁も壊す、拡げるコミュニケーションの「越境」挑戦なのだ。しかし、「越境」が現代には必要不可欠であることは言を俟たないであろう。

グローバリズムというとき、すぐに日本人の英語力(最近では中国語力か)などをと想起されるが、コミュニケーションの手段は語学だけではない。そもそも手話(見えない人に対する触手話なども含む)は言語であるし、独立した伝達方法である。この言語によって見えない人や聴こえない人との会話が成立するなら、見える人、聴こえる人の世界も広がるのは明らかである。だから、私たちが外国語を学ぶ時に、もちろん海外赴任でイヤイヤというのもあるだろうが、その言語を話す人の背景に思いをいたし、想像力を掻き立てられることが理由となるのには、見える、聴こえるにとどまらない。

人は言葉が通じず、すぐにの伝達が困難な時、一所懸命伝えよう、理解しようと工夫、努力する。そうしている間は、人間関係に紛争は生じない。その努力に時間を割いている間は戦争も起こらない、というのは楽観すぎるだろうか。しかし、歴史を見れば、他者を差別、迫害する際には、その他者を「何を言っているか分からない蛮人」と見做してきたのではないか。そして、仮に同じ民族内であっても、見えない、聴こえない人は情報弱者として差別、迫害してきたのではないか。

ちょうど『くらしと教育をつなぐ We』241号(2022/12/1)では、日本で唯一「日本手話」を使って幼・小・中学部の一貫教育(バイリンガルろう教育)を行なっている東京・品川区の「名晴学園」のことが取り上げられている(http://www.femix.co.jp/latest/index.html)。幼い頃から二つもの言語を手に入れた(しかも、「日本手話」はアクティブ!)子どもらの生き生きとした様子が素敵だ。

「こころの通訳者たち」のサブタイトルはWhat a Wonderful World。原曲はサッチモことルイ・アームストロング。戦前から(敵性語)英語で外の世界とつながろうとした人たちを描いた「カムカムエブリバディ」の主人公雉真るい(深津絵里)の愛称は「サッチモ」であった。

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「文にあた」っている人の誠実な仕事ぶり  牟田都子『文にあたる』

2022-10-27 | 書籍

三浦しおんさんの『舟を編む』は、映画を見てから、原作を読んだが、辞書編纂という途方もなく手間のかかる作業描写が臨場感溢れていてとても面白かった。その辞書をいくつも調べ、それではもちろん足りないので、専門書にあたる。そのために図書館や資料施設に当たり、現在ではネット情報まで渉猟する。校正の仕事とはそういうものだと、ぼんやりと想像していたが、まさしくそうだったのだ。それでも「落とす」(誤植等を見逃す)こともあり、ひたすら「拾う」(誤植等を見つけ出す)作業に従事する。とても地味な仕事だ。でもその地味な世界の広さと深さと言ったらない。

著者は、人気校正者という。校正に携わる人に人気かどうかがあったのも驚きだが、その徹底した細かな仕事ぶりと、それを自慢げに開かさない謙虚さが魅力だ。しかし、仕事は微細に及ぶ。「てにをは」や漢字の間違いは初級で、文系には門外漢?の理系の記号や単位の確認といった高度なものまで。著者が専門とする文芸誌には、当然小説も含まれるが、そこに登場する地名や時代考証、固有の店舗の正否まで。2021年に「すかいらーく」はあるはずなく(2009年に全店舗閉店)、2002年には「セブンイレブン」は四国にはなかっただの。『海辺のカフカ』に出てくるこれら実在の店舗の記述に読者からの指摘を受けて、村上春樹は重版で訂正したそうな。店舗程度では現在なら「ググれ」ば、事実が容易に判明するが、パンダの尻尾が白いことの典拠は?大辞典も専門の動物辞典にも、パンダは目の周囲と耳、首の後ろ、四肢は黒く、それ以外は白い、と書いてあるが、尻尾が白いとは書いていない。ならば、生物学の専門書にあたった末、図書館司書経験もある著者は、子ども向けの動物図鑑にたどり着く。パンダの尻尾が白いとちゃんと書いてある。

校正に完璧、終局はないと言う。むしろ、あれも拾えなかったのではないか、落としたのではないか、との後悔、葛藤の連続とも言う。著者のようなフリーで校正を生業とするほどの実力にしてこの謙虚さと向上心が、より読み手や書き手に寄り添った裏方を裏方せしめているのだろう。けれど、書物に限らず、裏方あっての完成形と言うのは成果物全てに言えることだろう。ところが、読み手には書き手と完成物しか見えず、その間に校正や印刷、装丁などに携わる者の姿は見えにくい。それら間に介在する黒子の努力、研鑽があってこそ、完成された「書籍」に見えることができるのだ。だが、著者はまだまだと言う。

その昔、産地偽装問題が起こった頃、「根室産蟹」とするから偽装になるので、手作り風コロッケみたいに全て「根室産(風)蟹」と「風」を入れれば全て解決すると、私は冗談で言っていたが、本書の著者は許さないというか、納得して世間に出すことはないだろう。それくらい厳しい世界なのだが、その追求心、妥協のなさが本当に面白いのが本書の魅力だ。

著者が関わった仕事ではないが、アメリカのモード誌『ニューヨーカー』に英国の詩人W・B・イェイツの少年時代を過ごした通りに、そのことを記した青い陶板がロンドンの小さな通りにあるという話が出てくる。イェイツが過ごしたことも小さな通り名も裏が取れたが、「青い陶板」かどうか。陶製ではないのではないか。『ニューヨーカー』誌のロンドン支局長が自転車を漕いで確認しに行ったと言う。ウィキペディアだの「ググる」だの、ネットで確認できる世界は限られる。実見主義の大事さを彷彿させる話だ。仮想空間より、辞書や図書館、過去文献など世界には校正だけが知る限りない別の「世界」がある。(『文にあたる』牟田都子 2022年 亜紀書房)

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ボーダーーを作らずに一人ひとりの居場所を 陳天璽『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』

2022-10-06 | 書籍

「チコちゃんに叱られる!」では、「すべての日本国民に問います」という決まり文句があって、なぜ「日本国民」なのだろうと違和感をおぼえていた。番組制作側はそこまで考えていないかもしれないが、この「日本国民」は「日本国籍保持者」のことだろう。しかし、日本には外国籍の人が300万人くらいいるし、技能実習生など短期滞在者を含めればもっといるだろう。一方、出生率は下がり続け、「日本人」は毎年50万人以上減っている。「外国人」の割合は増え続けるのだ。そして、日本国籍がないからといって他国の国籍があるとは限らない。また、日本以外にも国籍を持っている人も。

『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』は、著者自身がおよそ30年無国籍で過ごし、そのために経験する不便、不合理、不条理に苛まされてきた当事者である。それらは差別である。人が国民国家の枠内に生きている限り、何らかの線引きは必要という。しかし、本当にそうだろうか?その線は本人が引いたものではない。戦争や民族紛争、戦後の国家間の取り決めなどにより、個々人を無視して無理やり引いてきたのが「国籍」という線引きだ。著者自身、中国大陸出身の父と母のもと、横浜の中華街で生まれ育ち、一家は中華民国(台湾)の国籍を有していたが、日本が中華人民共和国と国交正常化し、台湾と国交を断絶した1972年に家族で無国籍となった。合法的な定住者であったため、生活が激変することはなかったという。ところが、海外渡航の際に、その不便さは一気に顕在化する。パスポートがないため法務省が発行する「再入国許可書」、渡航先国のビザなど沢山の証明書類を揃えてからでないと出国・帰国ができなくなるからだ。ビザを大使館に申請しに行く際には、健康診断書や所得証明書、残高証明書、相手国の機関が発行した招請状…。ところが、台湾発行のパスポートを持っていたのに、台湾のビザを持っていないとして入国できなかったことも。自分がこれほど苦労するということは、他にも苦労している人が大勢いる。さまざまなケースと付き合っていく中で、見えてきたのは「線引き」こそが、おかしいということだ。

日本が北朝鮮と国交を樹立していないことを知っている人はほとんどだろう。しかし、在日朝鮮(韓国)人の国籍が「大韓民国」はあり得ても、「朝鮮」がないことを知っている人は少ないのではないか。運転免許証などに書かれている「朝鮮」は、北朝鮮はもちろん、国を指すのではなく記号であることを。そう、サンフランシスコ講和条約で日本が植民地であった朝鮮半島のうち、韓国とだけ国交を結んだために、韓国国籍を選ばなかった人たちの出身を示すものが地域名、記号に過ぎない「朝鮮」となったのだ。定住外国人である在日コリアンは「朝鮮」であるからといって日常生活に不便はないという。しかし、東大阪で喫茶店を営む世界的詩人でもある丁章(チョンジャン)さんは、台湾の大学から招聘を受けたが、ビザ申請の項目に「その他(無国籍)」の選択肢がないため、渡航できなかった。台湾の旅券発行当局は、日本の「再入国許可書」の「朝鮮」を現在の北朝鮮と勝手に理解していたからだ。今や性別欄に「その他」があるという時代にである。

無国籍の反対に見える複数国籍。それは、日本のように多重国籍を認めない国と、アメリカのようにそれを認める国との間で生まれ育った人にも不便と不条理をかこつ。日本とアメリカのように先進国同士の国とは限らない。政情によって、国籍の線引きを急に変えたり、国内に自国民と認めない非迫害民を抱えている国からの避難でたまたま日本に来た例もある。それも子どもの時に。

「国籍」という国が引く線によって差別されない権利は、世界中すべての人が有しているはずだ。ところが、現実はそうではない。そして、その線引きもその時代の、その政権の思惑と相手国との関係で位置が変わったり、緩んだり、厳しくなったりする。ミャンマーから自国民と認められないロヒンギャの人は群馬県館林市に、トルコやイラク、イランで迫害されて逃げ来たクルド人は埼玉県蕨市に多いという。国籍をめぐる差別と、在留資格による差別はパラレルでどちららも一人ひとりの幸せ、それは確かな「居場所」を必要とする、が享受できるようにするべきだろう。

「親ガチャ」という嫌な言葉が流行っているが、「国ガチャ」もあってはならない。著者の本当に息の長い活動と研究に頭が下がる。(光文社新書 2022)

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子どもに必要な「自由」と「平和」  「ぜんぶ、ボクのせい」

2022-08-24 | 映画

「子どもたちをよろしく」(http://kodomoyoroshiku.com)は、このブログで紹介したかったのだが、あまりにキツイ内容であったためもあり、書けなかった。「ぜんぶ、ボクのせい」はある意味、それ以上の苦さである。救いはないが、この国の現実を描いているのは明らかである。

児童養護施設で暮らす優太は、中学生になったら母親が迎えに来てくれると聞いていたのに一向に現れない母。施設の説明にも不信感を増し、飛び出した優太は、自分を邪魔者とする母に直面し、ホームレスの「おっちゃん」、おっちゃんを話し相手に来る訳ありそうな女子高生詩織と居場所を見つけたに思えたが。

ここでは施設の現況や課題を伺わせる場面は明確には描かれない。しかし、職員の数に比して子どもの数の多さは明らかだ。優太を気にかける職員も優太にだけかまっているわけには行かない。そして、優太は自分のことを、考えるところを全く話さない子である。優太が生まれ、幼かった時は母親も本当に可愛がり、甲斐甲斐しく愛したのだろう。けれど、男に頼って生きるしかない母親は、次第に優太が邪魔になった。話は飛ぶが、大阪で小さな子どもを自宅に置き去りにして、男友だちと過ごしている間に子どもらを死なせてしまった母親がいた。彼女にはさまざまな批判の声があがったが、彼女自身、スポ根で厳格すぎる父親からとても厳しく育てられ、その反動として若いうちから自立、幸せな結婚を演じようとした無理がたたったことが事件の背景にあることが明らかになっている。優太の母親にこの大阪の女性を見た。幸い優太は施設に入り、命の危険には晒されなくなったが、優太には優しく、自分を愛しく接してくれた頃の母親の記憶しかない。だからだらしない母親の姿を知らないし、それを実感するには幼すぎたのだろう。

でも、責められるべきは母だけなのだろうか。大阪の事件では、子どもらの父親は何をしているのだ、関わらなかったかのか、との追及の意見もあったが、結局、「父親」は不在だった。

父を知らない優太に、時に父のように接する「おっちゃん」は自由だ。そして優太にお姉さんのように接する詩織も、優太のあれこれを詮索しない。けれど、ホームレスへの差別や排外、地域社会の均衡を大事にする現実から、優太も詩織もおっちゃんも自由のままではいられない。ほんの束の間の自由だったのだ。

「8月のジャーナリズム」という言葉がある。広島・長崎の原爆忌や終戦(敗戦)日を中心に8月だけ戦争モノが取り上げるメディアの姿勢を揶揄していう。その中に被爆者に「平和とはなんですか?」と訊くシーンがあり、被爆者の方が「普通に過ごせること」と答えていた。私がもし問われたら「子どもが、食事ができて、屋根のある住居があって、信頼・安心できる大人に囲まれていること」と答えることを勝手に想定していた。優太には、一応、食事も屋根のある寝床も、おっちゃんもいた。が、優太は「平和」を享受できていただろうか。

できていたかもしれない。しかし永遠ではなかったのだ。「自由」と同じく、ずっと得られるものではなかったのだ。だから、現実にいる優太らに「平和」は必要だ。

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知ったふりを自戒、知らないことに含羞 『中学生から知りたい ウクライナのこと』

2022-08-11 | 書籍

どこかの記事で読んだ「ゼレンスキーは西側に『武器をくれ』ばかり言うが、ポーランドをはじめ大勢の避難民を受け入れた国に一言感謝述べてもいいのではないか」に、うんうんとうなずいた覚えがある。ゼレンスキー=祖国を守るため力強く訴え続ける英雄、プーチン=悪魔の単純な構図にも疑問を持っていたからだ。

短絡的には、プーチンの言うNATOを拡大しないという約束を破った西側が、ウクライナというロシアの隣国にまでその版図を拡げようとしているに対し、防衛のため、ウクライナのロシア系住民を守るため侵攻(「特別軍事作戦」と言うらしい)したという論理は、NATO約束破りまでは理解できても「侵攻」は正当化できない、と言うのが一般的ではないだろうか。しかし、この理解もソ連の崩壊とウクライナの独立、1991年からの30年余りだけを前提にしているに過ぎない。歴史理解とは、それ以前の歴史に対する理解を含むと言うことを本書は教えてくれる。

藤原辰史さんは『[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(2016 共和国)でその緻密な実証主義的手法に歴史学者の矜持を見たが、その藤原さんさえもドイツの隣国ポーランドの歴史にはあかるくないと述べ、だからウクライナからも見ても隣国であるポーランド歴史家から見たウクライナという観点を提起する。小山哲さんはポーランドに留学経験もあり、ウクライナの地政学的な歴史に通暁している。そこで明らかにされるのは、前述の「短絡的な」理解では収まらないウクライナ史の複雑さと、それが現在に連なる一筋縄ではいかない関係性の錯綜だ。藤原さんは、本書を「中学生から知りたい」と冠した理由を、中学生が授業で習ったロシア、ウクライナあるいは東欧の版図を大人は理解、咀嚼できていないのではないかとの思いからとする。そう「分かった、分かっている」気で理解していてはだめなのだ。

ボルシチはロシアかウクライナか、コサックはどうか。ウクライナ正教はロシアの東方正教と違うのか、ユダヤ系と言われるゼレンスキーだが、そもそもウクライナにおけるユダヤ人の立ち位置、構成、民族的割合はどうであるのか。断片的に想起されるウクライナの「豆」知識が、有機的に説明され、そしてますます「ウクライナ」と一言で括るのが難しいくらい「ウクライナ史」の有機性、多様性が語られる。小山さんの話では3大宗教の併存期、ウクライナ公国の勢力圏、オスマン帝国の伸長、ロシア帝国の時代、第二次ポーランド分割、そしてその度に境界線が引き直される曖昧で不安定な「ウクライナ」の様が活写される。そう、「ウクライナ」を一言で言い表すこと事態が困難なのだ。

中学生の教科書に載っているウクライナの版図を仮に知っていても、ウクライナを「知った」ことにはならない。そして、現在のウクライナ「情勢」も知った、分かったと納得することでこれからも続く「歴史」を切り取り、知識の一部分に留め置くことに警鐘を鳴らしている、と本書を読めた。戦争はいつか終了するだろうが、どの戦争もスッキリした形で、どういう形がスッキリかもあるが、終わった試しがない。だから、今起こっている事態を理解するため、後世につなげるため「歴史」を学ぶというのは大切なのだ。

(『中学生から知りたい ウクライナのこと』小山哲・藤原辰史 2022.6 ミシマ社)

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買うな、買うシステムを許すな。だが実態をまず知ること。『性的人身取引』

2022-07-09 | 書籍

関西、大阪に長くいると飛田新地やその他の廓、女郎街の存在は知っていて、歩いたこともある。しかし、飛田も含め、現代では、廓ではなくて売買春が公然と行われている「風俗」と法律上は区分されている形態、地域であろう。そういった都会の「合法的」な営業形態とは遠く離れた地方でも「風俗」はあって、そこに働く女性は日本人でないことも多い。著者によれば東欧などからヤクザのコネクションで連れて来られた女性も多いという。日本も「性的人身取引」の当事国であったのだ。

著者の調査、データは日本語版の出版から20年以上前のものもあり、古いと思わされる。しかし、調査自体が、南アジア、南欧、東欧、東南アジア、アメリカと世界各地に渡り、その調査を裏付ける公式な統計、メディア、学術論文などを渉猟し、調査の実態を客観的に裏付けるのに数年も費やしているからだ。英語版の原著は2009年であり、翻訳者の原著の正確性、信頼性を確認しての12年後出版となった労苦がしのばれる。それくらい、大著で重要な仕事なのだ。

インド、ネパールでは子どもたちが親の債務の担保として、あるいは売買の対象として売られていく。強制売春させられるムンバイなどの大都会では、驚くほど安い値段で毎日何十人もの男性の相手をさせられる。病気や暴力にさらされ、多くが長くは生きられないだろう。性的ではないが、男の子は臓器を取られるだけ取られ、死体は闇に葬られる。現代社会にこのような非道があっていいのかと驚き、怒りが湧いてくるが、供給は需要があるからこそ成り立つ。それは、世界中どこでも変わらない。しかし、著者も指摘する通り、陸路の移動が可能、便利である場所から「商品」は調達されることが多い。タイの売春宿にはタイ奥地の村のほかラオスやビルマなどから、イタリアやバルカン半島には東欧や旧ソ連圏、西欧ではアフリカのナイジェリアからも「稼ぎに」来ているという。

東欧、旧ソ連圏からイタリアなどへ供給される「性商品」は、モルドバなど貧困国がもちろん多い。仕事がない、生計が成り立たないと被害者が一旦モルドバに帰国しても、出国、再び性産業に従事することも多いという。貧困が解消されないと解決できない問題でもあるのだ。

それにしても、著者が聞き取った彼女らの境遇には絶句する。13、4歳で無理やり、縫製などの仕事があると騙され、親が現金を得るために、全く知らない土地へ移され、そこでの暴力、幾度もの強姦、怪我や病気の手当てもなく、いつまでも「借金を返せてない」と脅かされる。そこでは医療的に十分ではない中絶や、産み落とした子どもがどこかへ奪われるというのもある。この世に希望は一切ない。しかし、それを聞き取り、明らかにするために著者は辛抱強く、調査を重ね、そして著した。

「(世界の)売買春」でもなく、「性奴隷の実態」でもなく、「性的人身取引」。サブタイトルに「現代奴隷制というビジネスの内側」に著者の意図するところは明らかだろう。現代社会では「奴隷」は冷酷なビジネスなのだ。そして、その奴隷になるのが多くの年はもいかない女性たちであることに、怒りと諦観と、でもなんとかしたいという思いを感じる。そのためには実態解明がまず必要なのだ。

もう、買うな。

(『性的人身取引 現代奴隷制というビジネスの内側』はシドハース・カーラ著、山岡万里子訳、明石書店、2022年刊)

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「家族」は「家族」になってゆくもの  ベイビー・ブローカー

2022-07-02 | 映画

是枝裕和監督は「家族であることとないこと」と「家族でいることといないこと」を描くのが本当にうまい。家族とは他人である異性が結合し、子をもうけ、血縁関係が基本であるとの「理想の」「伝統的で」「健全な」家族像を疑うことから始まる。現にDVや児童遺棄などの問題は血縁家族から発生していることが多い。しかし、是枝監督が問うのは、理想の家族とは何かではなく、一人ひとりの人間がどの時点で家族を形成、意識していくかという点にあり、それを世間=多数派の他者が「そんなものは、家族ではない」という決めつけを打ち消すところにあると思う。

「誰も知らない」(2004)では、子ども置き去り事件を、「そして父になる」(2013)では、新生児取り違えを、そして「万引き家族」(2018)では、血縁のない一家の擬似家族ぶりを描いた。そして本作は赤ちゃんポストである。

日本では熊本慈恵病院のただ一ヶ所だけで運営されている通称「赤ちゃんポスト」(慈恵病院では「こうのとりのゆりかご」)は、韓国では3ヶ所あり、保護数も日本より圧倒的に多い。日本より少子化がはるかに進む韓国で(合計特殊出生率は0.81、2021年)、授かった命を手放さなければならない境遇の母親が多い事実と、その命をなんとか守ろうとする国を挙げての取り組みに驚かされる。しかし、もちろん綺麗事ではない。

本作でカンヌ映画祭主演男優賞を得た名優ソン・ガンホ演じるサンヒョンは、自身親から遺棄された過去を持つドンス(カン・ドンウォン)と赤ちゃんポストに託された子どもを売るベイビー・ブローカー。赤ちゃんを取り戻したい母親ソヨン(イ・ジウン)は、彼らと共に買い手探しの奇妙な旅に出る。途中でドンスの育った施設の子どもヘジンも加わり、ロードムービーが展開する。児童売買の現場を押さえようと彼らを追う刑事スジン(ペ・ドゥナ)は何か重い屈託を抱えていて。配役と場面ごとの間の妙に唸っているうちに、事態はとんでもない方向へ。そう、血縁関係も、もともとなんの関係もなく、感情や利害の対立さえあった人たちが「家族」になってゆくのだ。しかし、当然犯罪がらみ、警察に追われる「家族」は「家族」として成就はしない。

あらためて「家族」とはなんだろう。私ごとで恐縮だが、筆者はある資格官職として勤めていた。資格には一般的に試験通過が必要で、多くの場合、その資格を得るためには研修もあり、研修を終わった者だけが官職を名乗ることができた。しかし、私は試験に通ったから、研修を終えたからその官職を名乗れるのではなく、その官職名で呼ばれ、働いているうちにその官職となるのだと常々感じていたし、若い人にもそう伝えていた。家族も同じようなものではないだろうか。「家族」として見なされると同時に、実感することと、その「家族」の一員であることを自身が受け入れていく過程そのものが「家族」であると。そう「家族」は「家族」になってゆくのだ。だから、「家族」と見なされていることだけにすがり、その家族間にずれや軋轢が生じると容易に壊れるものでもあると。異性、年長と年少、血縁などの属性は関係ない。

同性カップルの権利や、出自の不明なままの内密出産の法的保護など「多様な家族像」という一言には納めきれない現実もまた、「これが家族です」という定義づけを不明にし、その意味をも問い直す。日本では独り世帯が増加し、高齢者の「独居」も増加の一途だ。しかし、「家族」を上記血縁や同居の有無に囚われることなく、緩やかな人間関係の上で再定義するならば、悲惨な実態とイメージは薄れるのではないか。ところが、カンヌで同時期に賞を取った早川千絵監督の「PLAN75」が上映中で、日本では「家族」どころか「無用な」人間を減らす試みが現在進行形に見えるのが恐ろしい。

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「修復的司法」を問う好著 『当事者は嘘をつく』『プリズン・サークル』

2022-06-18 | 書籍

この2冊を同時に紹介するのは、どちらも「修復的司法」に深く関連した内容であるためで、どちらの著者もお互いの業績を詳しくご存じだと思うが、両者を直接つなぐからではない。

小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』は読了後、この欄などで紹介したいと思ったが、著者自身の性暴力被害のカムアウトとその後の葛藤が重すぎて、評しようとする筆者の任には負えないと感じた。しかし、『プリズン・サークル』の著者坂上香さんもまた、自身の凄惨な暴力被害と、それの反動から弟にひどい暴力を振るっていたこと、弟さんのオーバードーズ、罪を犯しての入獄に直面した経験を言わばあけすけに語っていることに接し、何か書かなければと思ったのだ。

『当事者は…』では、自身の記憶を反芻する思い自体が上書きされているのではないか、書き替えられているのではないかと自身にしかないはずの「真実性」を疑う様が吐露される。著者は自助グループでの出会い、そこで自身の回復を得た。しかし同時に、長い時間が経ってからの加害男性への追及とその時の相手の反応や、支援者の曲解・決めつけとも取れる当事者を置き去りにした対応、あるいは、性暴力を学問として極めんとすることへの無理解など様々な齟齬、非難、攻撃も経験した。それらは全て著者の求めていたものとは違う姿勢だ。著者は、被害者と加害者が相対したり、加害者が被害者からのコミットにより加害を直視して、解決を企図する修復的司法が性暴力の場でも可能か考え、それを学問として生業とすることによる研究者の道を歩むことになる。もちろん、その途は簡単ではない。研究対象と研究者が一致し、主観と客観のせめぎ合いに自身が悩まされることになるからだ。精神医療の現場では北海道浦河町の「べてるの家」での当事者研究という先駆的な成功例があり、本書でも紹介される。著者の場合、被害者がフラッシュバックやPTSDなど、働き、安心して普通に生きていくことがずっと困難な場合もある中で、研究者の道を得たのは幸運だったろう。もちろんそこには著者の努力と少なからぬ同伴者、理解者がいたからに違いない。そして、研究者として進む覚悟と自信が高まっていた著者は、修復的司法の可能性を戦後最悪、最長の公害ともされる水俣病を研究対象とすることで、その道を深めていく。水俣病を直接知らない世代の著者が現場に幾度も入り、地元の人と交流を重ねていく、次第に打ち解けていく様は、「研究者」という一見オカタイ立場に見える一人の人間が、水俣と関わっていく「随伴者(ヒト)」になっていくようで素敵だ。

「修復的司法」が日本で広く知られるようになったのはおそらく坂上さんの映像によるところが大きい。1990年代の早くからからアメリカの「修復的司法」(元々は、Restorative justiceの和訳である)を取材、映像化してきた坂上さんが今回取り上げたのは、日本の島根あさひ社会復帰促進センター、官民混合運営刑務所での前進的な試み、TC(回復共同体:Therapeutic Community)である。TCとは「依存症や犯罪などの問題を、当事者たちの力を使って共同体の中で解決していこうとする試み」(2頁)であって、受刑者同士が援助者のファシリテイトとともに、自分の過去や内面を捉え直し、仲間から共感や共有、時に厳しい指摘を受けて、直視する学びとエンパワメントの場が描かれる。日本で刑務所にカメラが入るなど前代未聞でしかも、TCユニットの実際が細かに映し出される。しかし、受刑者の顔出しは禁止、様々な制約の中で刑務所内の撮影に2年間、周辺取材や準備、編集作業に10年以上を費やした労作で、頑なだったり、発言も少なかったTCユニット参加者が次第に心を開き、自身の虐げられた過去を思い出し、その被害者が加害者に転ずるメカニズムを体感していく様は感動的だ。そう、犯罪加害者は多くの場合被害者だったのだ。

父親からの凄まじい暴力、親からの遺棄、児童保護施設でのいじめ、親戚からの性暴力など、誰か手を差し伸べられなかったのかと暗澹とする。幼少の頃から自尊感情が育まれない子らはやがて、他者への想像力も著しく欠く。島根あさひのTCユニットには殺人などの重大事犯はなく、窃盗や詐欺などが多いが、それでも傷害致死の例もある。登場する一人ひとりの物語を丹念に辿り、その過去と未来を否定しないTCのプラクティスは、彼らを再び犯罪者にしないという確固たる眼差しに満ちている。それはTCでは受刑者を番号ではなく「さん」付けで呼ぶなど、「ヒト」として尊重する姿勢からも窺える。しかし、島根あさひの試みは例外中の例外で、坂上さんの取材後は、TCが縮小しているとも。

巷間に言われるように「被害者の人権」が十分守られていない事例も多いだろう。しかし、再犯率の異様に高いこの国で、加害者を再び加害者にしない社会への投資は結果的にはムダにならない、経済的にも合理性があるのではないか。

『当事者は…』は被害者の立場から、『プリズン…』は、加害者の姿を追うことにより、一人の人間が生きていく、生きながらえて行く希望の路を示唆しているように思える。小松原さんは研究(者)という生き方を、坂上さんは加害の深淵にある被害と、そこからの救済を模索し、どちらも立ち止まったままにしない。どんな形でもいい、被害者にはサンクチュアリ(TCで参加者が感じる自己開扉の「聖域」)やアジール(避難場)が必要だ。(『当事者は嘘をつく』は、2022年、筑摩書房刊、『プリズン・サークル』は同年、岩波書店刊。なお、映画「プリズン・サークル」は、このブログで紹介「人は人の中で生き直すことができる プリズン・サークル」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e1c3174a519eabe3a07623c58879db7a

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不合理、不条理に慣れてしまうのが戦争 日常にその芽はある  「ドンバス」 

2022-06-08 | 映画

 戦争の不合理、不条理が語られることは多い。しかし、そもそも合理的な戦争、条理にかなった戦争などあるものだろうか。本作を見た第一の感想だ。そして、その不合理、不条理の被害を受けるのは戦争を開始し、指揮する指導層とは一番遠い存在の市井の市民、末端兵士などだ。

 本作とその後のロシアのウクライナ侵攻をめぐる情勢−姿勢と言った方がいいかもしれない−から、ロシアでは上映が禁止され、自身はプーチン非難をしないヨーロッパ映画アカデミーに抗議し、一方ロシア映画をボイコットせよとウクライナ映画アカデミーを批判したため除名されたその人こそ、監督のセルゲイ・ロズニツァである。

 ロズニツァ監督はこれまで数々の優れたドキュメンタリー作品を制作している。だから本作もリアルと見紛うが、完全な劇映画である。戦争の不合理、不条理は、例えば戦火を逃れ、ジメジメした地下で不衛生、不健康な生活を余儀なくされる住民に、ウクライナ軍の末端兵士が親ロシア軍兵士に捕らえられ、晒し者にされるが、その兵士を辱め、苛烈な暴力をふるい、そして「殺せ」と騒ぎ立てる親ロシア住民に見るころができる。そしてその暴力的な若者は結婚式では明るく祝う姿が。さらに、政治に距離を置きビジネスに勤しむ男は、ビジネスに不可欠の車を親ロシア軍に接収され、「車を軍に委任します」と書けと脅かされる。その上で法外な金銭を要求される。これでもかと描かれる不合理、不条理の連続にげんなりする私たちを欺くかのように、最初と最後に登場する被災者アクターたち。親ロシア勢力の宣伝のために、地域住民を装ったアクターに「(ウクライナ軍の砲撃で)人が死にました。本当に怖いです」と語らせる。ところが、アクターら全員と、軍との連絡役の人間まで、射殺する兵士。その現場に急行したのは警察や救急と共にテレビメディアであった。そう、全てやらせだったのだ。そうすると、途中の地下の避難住民も、うち殴られるウクライナ兵士も、全てやらせかと勘繰ってしまう。その証拠に、最初から最後まで当時人物は少しづつ、つながりがあり、全て一連の輪の中に収まってしまう、ある意味壮大なメタ構造を有しているのが本作のキモだ。

 これは戦争の本質、つまり、始まってしまえばどんどん誰が本当の責任者か、誰を追及すれば正当であるのか分からなくなってしまうという、終わりが見えない果てしない戦争の本質を表していると言えよう。そして、その責任追求の矛先の不明さとパラレルにあるのが、住民、兵士らを取り巻く不合理、不条理の連続だ。例えば、車を奪われるくらいの不条理は、命を落とすことに比べればマシに思えてくるし、あまりにも不合理、不条理が蔓延していて、戦争そのものへの反戦、厭戦感も麻痺してしまうかのようだ。そういう目で見ると、安倍政権以降何重にも、何度も重ねられてきた不合理、不条理−国会招集を怠ったり、モリ・カケ・サクラ、日本学術会議任命拒否などいくらでもある−は全て、この不合理、不条理に国民を馴致させるためであったのか、戦争準備だったのかと合点がいく。ロシアのウクライナ侵攻で「核共有」「敵基地攻撃」「憲法9条改正」と、好戦派が勢いを増している現在の姿がその証だ。

 ロズニツァ監督は自分をコスモポリタン(地球市民)であるとする。国境なきところに国境を超えた戦争など存在しない。そんな夢想を嘲笑うがの如く、あらゆる不合理、不条理に直面し、人間のいやらしさ、悲しさ、愚かさ、非道さをこれでもかと見せつける本作は劇映画であるゆえにとてつもなくリアルである。

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