kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ぶっとばす対象は今もある 梶原公子『男社会をぶっとばせ! 反学校文化を生きた女子高生たち』

2023-06-01 | 書籍

何十年も前の自分の高校生時代を思い返してみた。卒業後すぐに事故で亡くなった同級生がいた。格闘技系で横柄な彼を私は苦手だったが、いじめられた訳でもないのでお葬式には出た。その場で級友がつぶやいた。「Aは勉強は嫌いだったけれど、学校は好きだった。」。多分そうだろう。けれど、比較的いじめられっ子だった私は、「(科目にもよるが)勉強は好きだったけれど、学校は嫌だった」。

『男社会をぶっとばせ! 反学校文化を生きた女子高生たち』には勉強しに行くわけでもないのにせっせと登校する学校が好きな少女たちが主人公だ。「ヤンキー」である彼女たちを著者は「女版野郎ども」と呼ぶ。「野郎ども」とは、学校教育で成功を手にいれるという能力主義万能の世界とは正反対の「反学校文化」を体現したイギリスの労働者階級の少年たちを指す(ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』1985 筑摩書房)。学校の勉強に励み、規則をきちんと守っても社会で「成功」する地位にはならないと分かっているから、小さな反抗を繰り返す彼ら。著者の勤めた公立のH女子高校は、がんじがらめの管理教育校だったのがどんどん「自由な校風」になり、高校ぐらいはと進学してくるヤンキーの巣窟に。それとわかる服装に始まり、教室での化粧はもちろん、喫煙、禁止されているバイト、そしてセックスがある。高校生も真面目に、に重きをおいていた著者も彼女らの実態に触れ、話を交わすうちに変わっていく。学校はメリトクラシー(能力主義)が貫徹した社会、そしてある程度そこで勝ち上がったとしても勝ち続け、逃げ切れるわけではない。ましてやそのアリーナにも立てない底辺女子校に来る私たちなんてと自分らを客観視、達観していると気づくのだ。そしてその中でどう生きていくか、生きながらえていくか。すぐに男に頼ったり、そして稼がない、育児をしない、暴力を振るうなどの男はすぐに切る。そもそもセックス後の危険負担は全て女性だ。現実主義者なのだ。ここでは「高邁な」フェミニズムは不要。同時に個人的なことは政治的なこと。

H女子高校の生徒らは、自分らとは正反対の真面目で、学歴をつけ、働き続けられる正規労働に就けたとてしてもガラスの天井があり、決定の場からは排除され、就職時には対等だと思っていた夫は家事も育児も自分任せで、どんどん昇給・昇進していくことを見抜いている。そんなアホらしい現実に気づいている。体感していたからだろう。家庭で、学校の規則や教員らの姿勢で、バイト先で感じる社会に。

著者は、半世紀を超え、かつての教え子(と言っても、そもそも授業を聞かない生徒らに対し、「授業をしません」宣言した著者も相当「ヘンな先生」だ。)からあの頃の私たちの話を本にしたいと相談を受け、それなら私がと社会学も知悉しているので、したためたのが本書だ。著者が教員になった当初描いていた、学力優秀、勉強が好き、読書が好き、品行方正な「よい生徒」像が、自身の偏見や傲慢さ、教師という高みに立った歪んだ視線であることを生徒らとの「出会い」によって変えられていった。著者自身の「信念変更」の物語である。彼女らは勉強嫌いではあったが、学校に仲間を求め、確かに日々の成長を自分のものとしていた。教壇を離れ、ずいぶん経っているのに、ましてや「女版野郎ども」も40代。それでも話を聞けたのは、著者が彼女らとずっと繋がりを持っていたことと、彼女らに微妙な距離感を保つ著者に対する信頼もあったからだろう。熱血教師は要らないのである。

ちょうど「あまちゃん」が再放映中だ。主人公の母小泉今日子演じる天野春子は元スケバンで足首まであるスカートを履き、ぺしゃんこの鞄姿だった。著者が「女版野郎ども」と過ごしたのは少し後なので、スカートはとんでもなく短くなっていたが、現在の学校ではスケバンも「野郎ども」もいない。反対に学校に行けなくなった多くの子らと、学校に順応できる子らは小中とか中高一貫校でどんどん勝ち上がっていく(ように見えるだけ)。子どもらにとってオールタナティブなアジールなど存在するのだろうか。

(『男社会をぶっとばせ! 反学校文化を生きた女子高生たち』あっぷる出版社 2023年)

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周囲の物語でアンネの時代を思う 『アンネ・フランクはひとりじゃなかった』

2023-04-23 | 書籍

アムステルダムの一大観光地は「アンネ・フランク・ハウス」である。2年以上アンネら一家が潜んだ隠れ家が再現され、企画室は、人権に関わる様々なプロジェクトが紹介、展示されている。見て感じ、アンネの時代に想いをはせることのできる素敵な施設だ。本書の後書きにあるようにアンネとその隠れ家には皆興味を抱き、関心を持つが、その周囲の状況はどうであったかの関心は薄い。アンネ一家がナチスに捕らわれたのは密告によると言われる。ならば、アンネ一家が暮らした家のみならず、その街はどのようなものであったか、誰がどんな暮らしをしていたのか。生存者からの聞き取りや膨大な公文書資料などを渉猟し、アンネの暮らしたメルウェーデ広場とその周辺の姿を立体的に明らかにしたのが本書である。

メルウェーデ広場は、ドイツから逃れてきたユダヤ人コミュニティーであった。逃れてきた当初は、ここなら大丈夫という安心の地であったろう。しかし、オランダにもナチス・ドイツの支配が及ぶにいたって、広場も安住ではなくなる。次々に捕えられるユダヤ人、ユダヤ人以外ですすんで手先となる者、そしてレンジスタンス運動に身を委ねる者。しかし、1933年から34年にかけて広場に移住したフランク一家にとって、隠れ家に身を潜めるまで8年あった。だからアンネも学校に通い、友だちと遊び、時に大人を困らせたりする「子どもらしい」時間を過ごしていたのだ。直接、間接を問わず、フランク一家となんらかの繋がりのあった人たち、その周辺の人たち、そして、そのまた周辺の人たちがコミュニティーを形成し、時に助け合い、突然いなくなったりした。そう、フランク一家も家族を助けたミープ家以外の者にとっては「突然いなくなった」のだ。

オランダはドイツに併合、支配されることまではないだろうと移った人たち。そして、オランダでは生きながらえていけると。しかし、結局ナチドイツに占領され、オランダ王国は英国へ逃れ亡命政府を樹立する。亡命政府に、自国民の安寧、ましてや移住してきたユダヤ人を助ける力はない。だからコミュニティーで助け合っていたのだ。しかし、ユダヤ人であるからユダヤ教が紐帯となっていたとは限らない。熱心な教徒も居れば、シナゴーグに行くのも億劫な人もいたようだ。だから宗教がコミュニティーを支えていた理由というより、むしろドイツから逃れてきた同じエグザイルやエクソダスとの立場での共同であったのだろう。しかし、緩やかな共同であっても、ナチスから見れば皆同じ絶滅対象であったことが間違いない歴史的事実だ。

著者のリアン・フェルフーフェン自身、メルウェーデ広場の住人である。そして、アンネの死去(1945年2月頃、アウシュビッツ絶滅収容所からベルゲン=ベルゼン強制収容所に移送後死亡)頃までに至る、広場の住人の去就を克明に追っている。調査時には、まだ、生存している人もいたからだ。一人ひとりの物語は、同時に一人ひとりの尊厳を描く。多くが絶滅収容所に送られるギリギリまで、貧しく、苦しくとも豊かで、幸せな時期もあった人たちだ。そして、その一人ひとりは、時にエゴイスティックで慈悲深く、家族や仲間を大事に思い、時に裏切り、厳しい選択をせざるを得なくなった小さく、弱い人間であった。だからこそ、アンネと同じく生の物語が大事に語られるのだ。いく人ものアンネがいた。

アンネ・フランクはひとりじゃなかった。

(『アンネ・フランクはひとりじゃなかった アムステルダムの小さな広場 1933-1945』みすず書房、2022年)

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「文にあた」っている人の誠実な仕事ぶり  牟田都子『文にあたる』

2022-10-27 | 書籍

三浦しおんさんの『舟を編む』は、映画を見てから、原作を読んだが、辞書編纂という途方もなく手間のかかる作業描写が臨場感溢れていてとても面白かった。その辞書をいくつも調べ、それではもちろん足りないので、専門書にあたる。そのために図書館や資料施設に当たり、現在ではネット情報まで渉猟する。校正の仕事とはそういうものだと、ぼんやりと想像していたが、まさしくそうだったのだ。それでも「落とす」(誤植等を見逃す)こともあり、ひたすら「拾う」(誤植等を見つけ出す)作業に従事する。とても地味な仕事だ。でもその地味な世界の広さと深さと言ったらない。

著者は、人気校正者という。校正に携わる人に人気かどうかがあったのも驚きだが、その徹底した細かな仕事ぶりと、それを自慢げに開かさない謙虚さが魅力だ。しかし、仕事は微細に及ぶ。「てにをは」や漢字の間違いは初級で、文系には門外漢?の理系の記号や単位の確認といった高度なものまで。著者が専門とする文芸誌には、当然小説も含まれるが、そこに登場する地名や時代考証、固有の店舗の正否まで。2021年に「すかいらーく」はあるはずなく(2009年に全店舗閉店)、2002年には「セブンイレブン」は四国にはなかっただの。『海辺のカフカ』に出てくるこれら実在の店舗の記述に読者からの指摘を受けて、村上春樹は重版で訂正したそうな。店舗程度では現在なら「ググれ」ば、事実が容易に判明するが、パンダの尻尾が白いことの典拠は?大辞典も専門の動物辞典にも、パンダは目の周囲と耳、首の後ろ、四肢は黒く、それ以外は白い、と書いてあるが、尻尾が白いとは書いていない。ならば、生物学の専門書にあたった末、図書館司書経験もある著者は、子ども向けの動物図鑑にたどり着く。パンダの尻尾が白いとちゃんと書いてある。

校正に完璧、終局はないと言う。むしろ、あれも拾えなかったのではないか、落としたのではないか、との後悔、葛藤の連続とも言う。著者のようなフリーで校正を生業とするほどの実力にしてこの謙虚さと向上心が、より読み手や書き手に寄り添った裏方を裏方せしめているのだろう。けれど、書物に限らず、裏方あっての完成形と言うのは成果物全てに言えることだろう。ところが、読み手には書き手と完成物しか見えず、その間に校正や印刷、装丁などに携わる者の姿は見えにくい。それら間に介在する黒子の努力、研鑽があってこそ、完成された「書籍」に見えることができるのだ。だが、著者はまだまだと言う。

その昔、産地偽装問題が起こった頃、「根室産蟹」とするから偽装になるので、手作り風コロッケみたいに全て「根室産(風)蟹」と「風」を入れれば全て解決すると、私は冗談で言っていたが、本書の著者は許さないというか、納得して世間に出すことはないだろう。それくらい厳しい世界なのだが、その追求心、妥協のなさが本当に面白いのが本書の魅力だ。

著者が関わった仕事ではないが、アメリカのモード誌『ニューヨーカー』に英国の詩人W・B・イェイツの少年時代を過ごした通りに、そのことを記した青い陶板がロンドンの小さな通りにあるという話が出てくる。イェイツが過ごしたことも小さな通り名も裏が取れたが、「青い陶板」かどうか。陶製ではないのではないか。『ニューヨーカー』誌のロンドン支局長が自転車を漕いで確認しに行ったと言う。ウィキペディアだの「ググる」だの、ネットで確認できる世界は限られる。実見主義の大事さを彷彿させる話だ。仮想空間より、辞書や図書館、過去文献など世界には校正だけが知る限りない別の「世界」がある。(『文にあたる』牟田都子 2022年 亜紀書房)

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ボーダーーを作らずに一人ひとりの居場所を 陳天璽『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』

2022-10-06 | 書籍

「チコちゃんに叱られる!」では、「すべての日本国民に問います」という決まり文句があって、なぜ「日本国民」なのだろうと違和感をおぼえていた。番組制作側はそこまで考えていないかもしれないが、この「日本国民」は「日本国籍保持者」のことだろう。しかし、日本には外国籍の人が300万人くらいいるし、技能実習生など短期滞在者を含めればもっといるだろう。一方、出生率は下がり続け、「日本人」は毎年50万人以上減っている。「外国人」の割合は増え続けるのだ。そして、日本国籍がないからといって他国の国籍があるとは限らない。また、日本以外にも国籍を持っている人も。

『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』は、著者自身がおよそ30年無国籍で過ごし、そのために経験する不便、不合理、不条理に苛まされてきた当事者である。それらは差別である。人が国民国家の枠内に生きている限り、何らかの線引きは必要という。しかし、本当にそうだろうか?その線は本人が引いたものではない。戦争や民族紛争、戦後の国家間の取り決めなどにより、個々人を無視して無理やり引いてきたのが「国籍」という線引きだ。著者自身、中国大陸出身の父と母のもと、横浜の中華街で生まれ育ち、一家は中華民国(台湾)の国籍を有していたが、日本が中華人民共和国と国交正常化し、台湾と国交を断絶した1972年に家族で無国籍となった。合法的な定住者であったため、生活が激変することはなかったという。ところが、海外渡航の際に、その不便さは一気に顕在化する。パスポートがないため法務省が発行する「再入国許可書」、渡航先国のビザなど沢山の証明書類を揃えてからでないと出国・帰国ができなくなるからだ。ビザを大使館に申請しに行く際には、健康診断書や所得証明書、残高証明書、相手国の機関が発行した招請状…。ところが、台湾発行のパスポートを持っていたのに、台湾のビザを持っていないとして入国できなかったことも。自分がこれほど苦労するということは、他にも苦労している人が大勢いる。さまざまなケースと付き合っていく中で、見えてきたのは「線引き」こそが、おかしいということだ。

日本が北朝鮮と国交を樹立していないことを知っている人はほとんどだろう。しかし、在日朝鮮(韓国)人の国籍が「大韓民国」はあり得ても、「朝鮮」がないことを知っている人は少ないのではないか。運転免許証などに書かれている「朝鮮」は、北朝鮮はもちろん、国を指すのではなく記号であることを。そう、サンフランシスコ講和条約で日本が植民地であった朝鮮半島のうち、韓国とだけ国交を結んだために、韓国国籍を選ばなかった人たちの出身を示すものが地域名、記号に過ぎない「朝鮮」となったのだ。定住外国人である在日コリアンは「朝鮮」であるからといって日常生活に不便はないという。しかし、東大阪で喫茶店を営む世界的詩人でもある丁章(チョンジャン)さんは、台湾の大学から招聘を受けたが、ビザ申請の項目に「その他(無国籍)」の選択肢がないため、渡航できなかった。台湾の旅券発行当局は、日本の「再入国許可書」の「朝鮮」を現在の北朝鮮と勝手に理解していたからだ。今や性別欄に「その他」があるという時代にである。

無国籍の反対に見える複数国籍。それは、日本のように多重国籍を認めない国と、アメリカのようにそれを認める国との間で生まれ育った人にも不便と不条理をかこつ。日本とアメリカのように先進国同士の国とは限らない。政情によって、国籍の線引きを急に変えたり、国内に自国民と認めない非迫害民を抱えている国からの避難でたまたま日本に来た例もある。それも子どもの時に。

「国籍」という国が引く線によって差別されない権利は、世界中すべての人が有しているはずだ。ところが、現実はそうではない。そして、その線引きもその時代の、その政権の思惑と相手国との関係で位置が変わったり、緩んだり、厳しくなったりする。ミャンマーから自国民と認められないロヒンギャの人は群馬県館林市に、トルコやイラク、イランで迫害されて逃げ来たクルド人は埼玉県蕨市に多いという。国籍をめぐる差別と、在留資格による差別はパラレルでどちららも一人ひとりの幸せ、それは確かな「居場所」を必要とする、が享受できるようにするべきだろう。

「親ガチャ」という嫌な言葉が流行っているが、「国ガチャ」もあってはならない。著者の本当に息の長い活動と研究に頭が下がる。(光文社新書 2022)

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知ったふりを自戒、知らないことに含羞 『中学生から知りたい ウクライナのこと』

2022-08-11 | 書籍

どこかの記事で読んだ「ゼレンスキーは西側に『武器をくれ』ばかり言うが、ポーランドをはじめ大勢の避難民を受け入れた国に一言感謝述べてもいいのではないか」に、うんうんとうなずいた覚えがある。ゼレンスキー=祖国を守るため力強く訴え続ける英雄、プーチン=悪魔の単純な構図にも疑問を持っていたからだ。

短絡的には、プーチンの言うNATOを拡大しないという約束を破った西側が、ウクライナというロシアの隣国にまでその版図を拡げようとしているに対し、防衛のため、ウクライナのロシア系住民を守るため侵攻(「特別軍事作戦」と言うらしい)したという論理は、NATO約束破りまでは理解できても「侵攻」は正当化できない、と言うのが一般的ではないだろうか。しかし、この理解もソ連の崩壊とウクライナの独立、1991年からの30年余りだけを前提にしているに過ぎない。歴史理解とは、それ以前の歴史に対する理解を含むと言うことを本書は教えてくれる。

藤原辰史さんは『[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(2016 共和国)でその緻密な実証主義的手法に歴史学者の矜持を見たが、その藤原さんさえもドイツの隣国ポーランドの歴史にはあかるくないと述べ、だからウクライナからも見ても隣国であるポーランド歴史家から見たウクライナという観点を提起する。小山哲さんはポーランドに留学経験もあり、ウクライナの地政学的な歴史に通暁している。そこで明らかにされるのは、前述の「短絡的な」理解では収まらないウクライナ史の複雑さと、それが現在に連なる一筋縄ではいかない関係性の錯綜だ。藤原さんは、本書を「中学生から知りたい」と冠した理由を、中学生が授業で習ったロシア、ウクライナあるいは東欧の版図を大人は理解、咀嚼できていないのではないかとの思いからとする。そう「分かった、分かっている」気で理解していてはだめなのだ。

ボルシチはロシアかウクライナか、コサックはどうか。ウクライナ正教はロシアの東方正教と違うのか、ユダヤ系と言われるゼレンスキーだが、そもそもウクライナにおけるユダヤ人の立ち位置、構成、民族的割合はどうであるのか。断片的に想起されるウクライナの「豆」知識が、有機的に説明され、そしてますます「ウクライナ」と一言で括るのが難しいくらい「ウクライナ史」の有機性、多様性が語られる。小山さんの話では3大宗教の併存期、ウクライナ公国の勢力圏、オスマン帝国の伸長、ロシア帝国の時代、第二次ポーランド分割、そしてその度に境界線が引き直される曖昧で不安定な「ウクライナ」の様が活写される。そう、「ウクライナ」を一言で言い表すこと事態が困難なのだ。

中学生の教科書に載っているウクライナの版図を仮に知っていても、ウクライナを「知った」ことにはならない。そして、現在のウクライナ「情勢」も知った、分かったと納得することでこれからも続く「歴史」を切り取り、知識の一部分に留め置くことに警鐘を鳴らしている、と本書を読めた。戦争はいつか終了するだろうが、どの戦争もスッキリした形で、どういう形がスッキリかもあるが、終わった試しがない。だから、今起こっている事態を理解するため、後世につなげるため「歴史」を学ぶというのは大切なのだ。

(『中学生から知りたい ウクライナのこと』小山哲・藤原辰史 2022.6 ミシマ社)

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買うな、買うシステムを許すな。だが実態をまず知ること。『性的人身取引』

2022-07-09 | 書籍

関西、大阪に長くいると飛田新地やその他の廓、女郎街の存在は知っていて、歩いたこともある。しかし、飛田も含め、現代では、廓ではなくて売買春が公然と行われている「風俗」と法律上は区分されている形態、地域であろう。そういった都会の「合法的」な営業形態とは遠く離れた地方でも「風俗」はあって、そこに働く女性は日本人でないことも多い。著者によれば東欧などからヤクザのコネクションで連れて来られた女性も多いという。日本も「性的人身取引」の当事国であったのだ。

著者の調査、データは日本語版の出版から20年以上前のものもあり、古いと思わされる。しかし、調査自体が、南アジア、南欧、東欧、東南アジア、アメリカと世界各地に渡り、その調査を裏付ける公式な統計、メディア、学術論文などを渉猟し、調査の実態を客観的に裏付けるのに数年も費やしているからだ。英語版の原著は2009年であり、翻訳者の原著の正確性、信頼性を確認しての12年後出版となった労苦がしのばれる。それくらい、大著で重要な仕事なのだ。

インド、ネパールでは子どもたちが親の債務の担保として、あるいは売買の対象として売られていく。強制売春させられるムンバイなどの大都会では、驚くほど安い値段で毎日何十人もの男性の相手をさせられる。病気や暴力にさらされ、多くが長くは生きられないだろう。性的ではないが、男の子は臓器を取られるだけ取られ、死体は闇に葬られる。現代社会にこのような非道があっていいのかと驚き、怒りが湧いてくるが、供給は需要があるからこそ成り立つ。それは、世界中どこでも変わらない。しかし、著者も指摘する通り、陸路の移動が可能、便利である場所から「商品」は調達されることが多い。タイの売春宿にはタイ奥地の村のほかラオスやビルマなどから、イタリアやバルカン半島には東欧や旧ソ連圏、西欧ではアフリカのナイジェリアからも「稼ぎに」来ているという。

東欧、旧ソ連圏からイタリアなどへ供給される「性商品」は、モルドバなど貧困国がもちろん多い。仕事がない、生計が成り立たないと被害者が一旦モルドバに帰国しても、出国、再び性産業に従事することも多いという。貧困が解消されないと解決できない問題でもあるのだ。

それにしても、著者が聞き取った彼女らの境遇には絶句する。13、4歳で無理やり、縫製などの仕事があると騙され、親が現金を得るために、全く知らない土地へ移され、そこでの暴力、幾度もの強姦、怪我や病気の手当てもなく、いつまでも「借金を返せてない」と脅かされる。そこでは医療的に十分ではない中絶や、産み落とした子どもがどこかへ奪われるというのもある。この世に希望は一切ない。しかし、それを聞き取り、明らかにするために著者は辛抱強く、調査を重ね、そして著した。

「(世界の)売買春」でもなく、「性奴隷の実態」でもなく、「性的人身取引」。サブタイトルに「現代奴隷制というビジネスの内側」に著者の意図するところは明らかだろう。現代社会では「奴隷」は冷酷なビジネスなのだ。そして、その奴隷になるのが多くの年はもいかない女性たちであることに、怒りと諦観と、でもなんとかしたいという思いを感じる。そのためには実態解明がまず必要なのだ。

もう、買うな。

(『性的人身取引 現代奴隷制というビジネスの内側』はシドハース・カーラ著、山岡万里子訳、明石書店、2022年刊)

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「修復的司法」を問う好著 『当事者は嘘をつく』『プリズン・サークル』

2022-06-18 | 書籍

この2冊を同時に紹介するのは、どちらも「修復的司法」に深く関連した内容であるためで、どちらの著者もお互いの業績を詳しくご存じだと思うが、両者を直接つなぐからではない。

小松原織香さんの『当事者は嘘をつく』は読了後、この欄などで紹介したいと思ったが、著者自身の性暴力被害のカムアウトとその後の葛藤が重すぎて、評しようとする筆者の任には負えないと感じた。しかし、『プリズン・サークル』の著者坂上香さんもまた、自身の凄惨な暴力被害と、それの反動から弟にひどい暴力を振るっていたこと、弟さんのオーバードーズ、罪を犯しての入獄に直面した経験を言わばあけすけに語っていることに接し、何か書かなければと思ったのだ。

『当事者は…』では、自身の記憶を反芻する思い自体が上書きされているのではないか、書き替えられているのではないかと自身にしかないはずの「真実性」を疑う様が吐露される。著者は自助グループでの出会い、そこで自身の回復を得た。しかし同時に、長い時間が経ってからの加害男性への追及とその時の相手の反応や、支援者の曲解・決めつけとも取れる当事者を置き去りにした対応、あるいは、性暴力を学問として極めんとすることへの無理解など様々な齟齬、非難、攻撃も経験した。それらは全て著者の求めていたものとは違う姿勢だ。著者は、被害者と加害者が相対したり、加害者が被害者からのコミットにより加害を直視して、解決を企図する修復的司法が性暴力の場でも可能か考え、それを学問として生業とすることによる研究者の道を歩むことになる。もちろん、その途は簡単ではない。研究対象と研究者が一致し、主観と客観のせめぎ合いに自身が悩まされることになるからだ。精神医療の現場では北海道浦河町の「べてるの家」での当事者研究という先駆的な成功例があり、本書でも紹介される。著者の場合、被害者がフラッシュバックやPTSDなど、働き、安心して普通に生きていくことがずっと困難な場合もある中で、研究者の道を得たのは幸運だったろう。もちろんそこには著者の努力と少なからぬ同伴者、理解者がいたからに違いない。そして、研究者として進む覚悟と自信が高まっていた著者は、修復的司法の可能性を戦後最悪、最長の公害ともされる水俣病を研究対象とすることで、その道を深めていく。水俣病を直接知らない世代の著者が現場に幾度も入り、地元の人と交流を重ねていく、次第に打ち解けていく様は、「研究者」という一見オカタイ立場に見える一人の人間が、水俣と関わっていく「随伴者(ヒト)」になっていくようで素敵だ。

「修復的司法」が日本で広く知られるようになったのはおそらく坂上さんの映像によるところが大きい。1990年代の早くからからアメリカの「修復的司法」(元々は、Restorative justiceの和訳である)を取材、映像化してきた坂上さんが今回取り上げたのは、日本の島根あさひ社会復帰促進センター、官民混合運営刑務所での前進的な試み、TC(回復共同体:Therapeutic Community)である。TCとは「依存症や犯罪などの問題を、当事者たちの力を使って共同体の中で解決していこうとする試み」(2頁)であって、受刑者同士が援助者のファシリテイトとともに、自分の過去や内面を捉え直し、仲間から共感や共有、時に厳しい指摘を受けて、直視する学びとエンパワメントの場が描かれる。日本で刑務所にカメラが入るなど前代未聞でしかも、TCユニットの実際が細かに映し出される。しかし、受刑者の顔出しは禁止、様々な制約の中で刑務所内の撮影に2年間、周辺取材や準備、編集作業に10年以上を費やした労作で、頑なだったり、発言も少なかったTCユニット参加者が次第に心を開き、自身の虐げられた過去を思い出し、その被害者が加害者に転ずるメカニズムを体感していく様は感動的だ。そう、犯罪加害者は多くの場合被害者だったのだ。

父親からの凄まじい暴力、親からの遺棄、児童保護施設でのいじめ、親戚からの性暴力など、誰か手を差し伸べられなかったのかと暗澹とする。幼少の頃から自尊感情が育まれない子らはやがて、他者への想像力も著しく欠く。島根あさひのTCユニットには殺人などの重大事犯はなく、窃盗や詐欺などが多いが、それでも傷害致死の例もある。登場する一人ひとりの物語を丹念に辿り、その過去と未来を否定しないTCのプラクティスは、彼らを再び犯罪者にしないという確固たる眼差しに満ちている。それはTCでは受刑者を番号ではなく「さん」付けで呼ぶなど、「ヒト」として尊重する姿勢からも窺える。しかし、島根あさひの試みは例外中の例外で、坂上さんの取材後は、TCが縮小しているとも。

巷間に言われるように「被害者の人権」が十分守られていない事例も多いだろう。しかし、再犯率の異様に高いこの国で、加害者を再び加害者にしない社会への投資は結果的にはムダにならない、経済的にも合理性があるのではないか。

『当事者は…』は被害者の立場から、『プリズン…』は、加害者の姿を追うことにより、一人の人間が生きていく、生きながらえて行く希望の路を示唆しているように思える。小松原さんは研究(者)という生き方を、坂上さんは加害の深淵にある被害と、そこからの救済を模索し、どちらも立ち止まったままにしない。どんな形でもいい、被害者にはサンクチュアリ(TCで参加者が感じる自己開扉の「聖域」)やアジール(避難場)が必要だ。(『当事者は嘘をつく』は、2022年、筑摩書房刊、『プリズン・サークル』は同年、岩波書店刊。なお、映画「プリズン・サークル」は、このブログで紹介「人は人の中で生き直すことができる プリズン・サークル」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e1c3174a519eabe3a07623c58879db7a

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疑い、わかったふりをしないために 『社会と自分のあいだの難問』

2022-02-28 | 書籍

2021年9月に53歳で早逝した法哲学者那須耕介さんの遺稿ともなった対談を収めた本書は、混沌、複雑化とのありきたりな言葉で現代を表象、説明して終わりとしたがる風潮に鋭く切り込み、そして大きな示唆に富んでいる。

キーワードは「自由のしんどさ」「移行期正義」「遵法責務」。

「自由のしんどさ」は比較的分かりやすい、というか日々感じている。自由の範囲が拡大し、個人の選択を個人の責任でと言われると、何でもかんでも自分では決められない、もう国で決めてくれ、というのはあるだろう。そして、個々人の自由は必ず衝突する。だから民主主義が機能して話し合ったり、落とし所を見つけるというプロセスにつながる。また、自由同士の衝突でいえば、表現の自由がその典型的な場面だ。あいちトリエンナーレから続く「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の戦争責任追及や政権批判と歴史修正主義的価値観との対峙や、ヘイトスピーチ抑制のための「表現の自由」と「差別」との切り分けが想起されるだろう。歴史的に表現の自由の擁護者が、その枠外を規定していくことでその擁護を強固にしてきたという事実は興味深い。「「表現の自由」を制限する方向に働きかける動きは、僕たちの中にも絶えず働いている。そこをわかっていないと、「表現の自由」に大事さは、むしろ見失われてしまう。つまり、それがなぜ大事かという理屈自体が、もともとそんな盤石なものじゃないということ、それをちゃんとわかることの方が必要」(40頁)。

「民主化への過渡期のある社会において、先行する戦争・内戦・圧政期に行われた大規模・集団的悪行(人権抑圧・虐殺等)に対する適切な処理、もしくは処理の方針」これが「移行期正義」の定義である。つまり、人権抑圧や虐殺の張本人を裁判にかけるにしても遡及法で処罰してはならないけれど、そうすると全く責任追及しないという方法も取れないので、何らかの手立てが必要であるということ。同時に、結局そういった戦後処理に正義を貫徹する際の「正義」とはその社会の中で権力をにぎった人間が定義するものだということもある。これは、クーデターや民主的選挙であっても政権転覆後のどのような政権が誕生したかによって、先の権力者への対応が違うということを見るとわかりやすいのではないか。そして「負けた人間は、強い人間に従え」(86頁)ということ。しかし、そうはいっても近代社会、特に西洋思想が反映している中で、「そうはいっても」という対応がされる。黒の次は白ではないのである。「そうはいっても」の落とし所にまさに民主主義の深度や成熟度、あるいは不完全性や混沌にかかっているというのは言うまでもないだろう。

筆者が支援している「君が代」不起立で処分された教員らによく浴びせられる言葉が「ルールに従え」というものだ。思想信条は措いておいて面従腹背せよとも取れる。そしてそもそもルールが間違っていても従わないといけないものか。「遵法責務」のアポリアによく引用されるのが、戦後間もない頃、闇米を取らずに餓死した裁判官の話。本書でも繰り返し言及される。その裁判官は闇米で食糧管理法違反で法廷に引っ張り出された被告人らを次々有罪にしてきた、そんな自分は闇米を食べるわけにはいかないと。一方、公務員たる者職務を全うすることは当然で、私生活は別との安易な切り分けも可能だ。対談では「公民」と「市民」の違いも議論される。国は無くなっても社会は存在するので、法を守るべき「公民」の時と、それさえも前提ではない「市民」の立場はありうるとする。しかし、社会にはルソーの言う一般意志が既に貫徹しているのが通常なので、そこから外れる不服従は絶対に軋轢を生む。そう「自律と同調圧は裏表の関係」(241頁)なのだ。

法哲学という理屈をやっぱり理屈で説明づける学問は、哲学や論理学など、もちろん法学の識見が披瀝され、はっきり言って評しようとする筆者の手に負えるものではない。けれど、知識も学問もわかったふりをせず、同時に簡単にはわかった気にならない大切さを本書は教えてくれる。何よりも面白い。早逝した那須さんのお話が聞けず、もう執筆されない事実が何とも残念だ。(『社会と自分のあいだの難問』はSURE刊。3080円。一般書店では手に入りません。図書館に希望するか直接編集グループSUREにお問い合わせください。)

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加藤典洋が遺した問いを引き受け続ける  『9条の戦後史』

2021-10-23 | 書籍

井上ひさしさんが、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」と語っていたことを思い出した。

日本国憲法改正という議論は、憲法9条を変えるか変えないかという議論のことだ。そこには日本が自前の軍隊を持つことの是非はもちろん、自前の軍隊を持って他国を侵略した大日本帝国憲法をどう評価するかや、9条の出自がそもそもアメリカ由来であることをどう捉えるか、さらにはすでに自衛隊という大きな軍隊を持つ実態との乖離をどう考えるかと議論は多岐にわたる。そしてそれはすなわち戦後日本の歴史そのものである。

2019年若くして惜しまれながら亡くなった加藤典洋は、これらの難題を整理づけ、課題を提示する。そのためには新書版とはいえ500頁を超える大部が必要であった。そして、その整理づけのためには、9条、いや護憲派のうち少なからずの中には、筆者もそうであるが、丸山眞男といった戦後リベラルを象徴する知識人の言説、意見を言わば丸呑み、時に金科玉条のごとく盲信する姿勢をも突き崩さざるを得なかった。それは9条が抱えてきた時代背景を基礎とするその役割と、その扱い方を政治的立場も踏まえて歴史的に整理することにつながる。一方、9条をタテにアメリカからの軍事増強や更なる中国やソ連に対する政策の変更を拒み続けてきた自民党ハト派は、引き換えに日米安保体制の拡大を引き受ける。また、自主憲法制定を目指す自民党タカ派は、安保体制は自前の立派な軍隊を持つまでの一時的な仕組みと捉える。今日から考えると奇妙なねじれにも見えるが、結局55年体制とは、護憲勢力が必ず3分の1以上国会を占める奇妙な安定体制でもあったのだ。しかし、それが護憲側の「安穏」を助け、自民党内でも経済重視のハト派的流れから、憲法9条をどうするのか、といった根本的課題にも「向き合わずに」済んだというのだ。

護憲派の「教条主義的」姿勢に疑問を呈しつつ、護憲の立場から9条の活かし方を提言し続けたためにリベラル派から批判を受けてきた加藤も、安倍政権の誕生によって政権と9条の関係が根本的、劇的に変わったとする。それは天皇を元首とするなど明治憲法の復活と見紛う憲法草案の発表と、そうであるのになりふり構わぬ対米盲従の両立というあり得ない選択を示したからである。そうであるから、加藤も現行憲法のまま、2015年の集団的自衛権の行使を可能にした安全保障法制や、その理屈づけには反対した。そして、その暴挙をなした安倍晋三はまたもやコロナ禍の中、2020年に政権を投げ出し、安倍のコピー政権である菅政権も確実にそれらを引き継ぎ、そして2021年夏に政権を投げ出した。その跡を継いだのが、ハト派の象徴であったはずの宏池会の岸田文雄政権誕生となったのだが、その岸田も安倍・菅の方向性を何ら正そうとしない。しかし、加藤はこれらの政権与党内の腐敗も知らずに世を去ったのであった。

冒頭に、井上ひさしの言葉を紹介したが、加藤の仕事は、9条という、戦後日本が、有権者たる日本国民の誰もが逃れられない、向き合わざるを得ないアメリカとの関係、国民国家の自立とは何かといったアポリアを「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく」説き起こしたことに他ならない。もうすぐ任期満了が僅かであるのに岸田政権がわざと解散した上での衆議院選挙がある。日本の有権者の半数はまた棄権するのだろうか。加藤の一番の危惧はそこではなかったか、との思いも拭えない。(2021年 ちくま新書)

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「中立」「両論併記」で差別は追及できないと知るべき 『ヘイトスピーチと対抗報道』

2021-09-03 | 書籍

常々思っていたことだが、マスメディアの「あなたは中国に親近感を持っていますか?」という世論調査はヘイトではないか、ということだ。こういった調査の問題点は二つある。一つは、ここでいう「中国」が何を指しているのか不明確なこと。現在の習近平政権のことであるのか、中国共産党のことであるのか、歴史的連続性としての中国であるのか。あるいは、仮に習近平政権であるとしても、その領土や軍事などの覇権主義的姿勢なのか、香港やチベットなどに対する人権蹂躙の姿勢であるのか、さらには知的財産権や産業構造の独占などその国家独占欲資本主義的な政策であるのか。反対にIT産業やコロナ対策で成果を上げていることであるのか。そして、政権のことではなく、多数の民族からなる中国人民のことなのか、世界遺産を多く有する豊かな土地のことであるのか、タブーが少ないとされる多様な食文化のことであるのか。これら質問の言う「中国」が何を指すかめ明確にせず訊く姿勢は、結果発表の際、調査者の意図に合うように操作される危険性が高い。

次にこのような質問は、普通中国か韓国に対して訊く場合がほとんどで、たまにアメリカもあるが、フランスに親近感を持っているかとか、エジプトに、あるいはインドにとかの質問はありえない。

このように中国や韓国にだけ「親近感」について訊き、答えの選択肢には「ある」「ない」「どちらとも言えない」しかない。朝日新聞は、読売新聞のように、どちらとも言えないと答えた人に対して「どちらかというとありますか、ないですか」と更に質問(更問い)を重ねて無理くり答えさせているかのようにはしていないことを強調するが、質問自体に疑問がある。

長々と自説を開陳してしまったが、本書はまさにヘイトスピーチとはそのようなものか、それにどう対抗するか、報道の現場を超えて問うている。著者の立ち位置は明らかだ。報道は差別に対しては中立を装う、両論併記で逃げるべきではないと。両論併記について言えば、筆者もずっと疑問に思ってきた。例えば、選択的夫婦別姓法制化について、賛成派はアイデンティティの喪失や、働く上での旧姓使用の限界、生活の上での不便さなど実利的、実際的な不合理を訴えるのに対し、反対派は「家族の一体感が失われる」とか「夫婦はそもそもそういうもの」などといった論理的、合理的に説明できない論を展開してきた。しかし、メディアはこれを両論併記として報道するのである。両論とは、一方の論が他方に対する反対論になっているべきと思うが、そうはなっていない。論争などそもそも成り立たないのである。が、マスメディアは必ず両論併記として紹介する。

著者は、韓国での記者経験も踏まえてこの中立、両論併記の悪弊は、従軍慰安婦のことなど日本と韓国との関係での関係改善の壁となっている、むしろそこから解放されて報道すべきと、拓かれたのである。

考えて欲しい。「ゴキブリ、朝鮮人!」とのデモを前にして、「鶴橋(の朝鮮人)大殲滅です」と言われて、報道に中立などあるのか。言われた人間の側に尊厳を保てと平静さを求めるのか。

報道の現場にたち、世間に広く実態を知らせるジャーナリストの役割とは、「“中立”を掲げた無難な報道に逃げ込まず、ヘイトクライム・レイシズムに本気で抗う」(安田奈菜津起氏評)こととの明確な姿勢であり、それは差別を表現の自由の範疇に逃げ込ませない報道記者の指針となり得るだろう。(『ヘイトスピーチと対抗報道』角南圭祐 2021 集英社新書)

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