何十年も前の自分の高校生時代を思い返してみた。卒業後すぐに事故で亡くなった同級生がいた。格闘技系で横柄な彼を私は苦手だったが、いじめられた訳でもないのでお葬式には出た。その場で級友がつぶやいた。「Aは勉強は嫌いだったけれど、学校は好きだった。」。多分そうだろう。けれど、比較的いじめられっ子だった私は、「(科目にもよるが)勉強は好きだったけれど、学校は嫌だった」。
『男社会をぶっとばせ! 反学校文化を生きた女子高生たち』には勉強しに行くわけでもないのにせっせと登校する学校が好きな少女たちが主人公だ。「ヤンキー」である彼女たちを著者は「女版野郎ども」と呼ぶ。「野郎ども」とは、学校教育で成功を手にいれるという能力主義万能の世界とは正反対の「反学校文化」を体現したイギリスの労働者階級の少年たちを指す(ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』1985 筑摩書房)。学校の勉強に励み、規則をきちんと守っても社会で「成功」する地位にはならないと分かっているから、小さな反抗を繰り返す彼ら。著者の勤めた公立のH女子高校は、がんじがらめの管理教育校だったのがどんどん「自由な校風」になり、高校ぐらいはと進学してくるヤンキーの巣窟に。それとわかる服装に始まり、教室での化粧はもちろん、喫煙、禁止されているバイト、そしてセックスがある。高校生も真面目に、に重きをおいていた著者も彼女らの実態に触れ、話を交わすうちに変わっていく。学校はメリトクラシー(能力主義)が貫徹した社会、そしてある程度そこで勝ち上がったとしても勝ち続け、逃げ切れるわけではない。ましてやそのアリーナにも立てない底辺女子校に来る私たちなんてと自分らを客観視、達観していると気づくのだ。そしてその中でどう生きていくか、生きながらえていくか。すぐに男に頼ったり、そして稼がない、育児をしない、暴力を振るうなどの男はすぐに切る。そもそもセックス後の危険負担は全て女性だ。現実主義者なのだ。ここでは「高邁な」フェミニズムは不要。同時に個人的なことは政治的なこと。
H女子高校の生徒らは、自分らとは正反対の真面目で、学歴をつけ、働き続けられる正規労働に就けたとてしてもガラスの天井があり、決定の場からは排除され、就職時には対等だと思っていた夫は家事も育児も自分任せで、どんどん昇給・昇進していくことを見抜いている。そんなアホらしい現実に気づいている。体感していたからだろう。家庭で、学校の規則や教員らの姿勢で、バイト先で感じる社会に。
著者は、半世紀を超え、かつての教え子(と言っても、そもそも授業を聞かない生徒らに対し、「授業をしません」宣言した著者も相当「ヘンな先生」だ。)からあの頃の私たちの話を本にしたいと相談を受け、それなら私がと社会学も知悉しているので、したためたのが本書だ。著者が教員になった当初描いていた、学力優秀、勉強が好き、読書が好き、品行方正な「よい生徒」像が、自身の偏見や傲慢さ、教師という高みに立った歪んだ視線であることを生徒らとの「出会い」によって変えられていった。著者自身の「信念変更」の物語である。彼女らは勉強嫌いではあったが、学校に仲間を求め、確かに日々の成長を自分のものとしていた。教壇を離れ、ずいぶん経っているのに、ましてや「女版野郎ども」も40代。それでも話を聞けたのは、著者が彼女らとずっと繋がりを持っていたことと、彼女らに微妙な距離感を保つ著者に対する信頼もあったからだろう。熱血教師は要らないのである。
ちょうど「あまちゃん」が再放映中だ。主人公の母小泉今日子演じる天野春子は元スケバンで足首まであるスカートを履き、ぺしゃんこの鞄姿だった。著者が「女版野郎ども」と過ごしたのは少し後なので、スカートはとんでもなく短くなっていたが、現在の学校ではスケバンも「野郎ども」もいない。反対に学校に行けなくなった多くの子らと、学校に順応できる子らは小中とか中高一貫校でどんどん勝ち上がっていく(ように見えるだけ)。子どもらにとってオールタナティブなアジールなど存在するのだろうか。
(『男社会をぶっとばせ! 反学校文化を生きた女子高生たち』あっぷる出版社 2023年)