20世紀を代表するオランダは構成主義のアート・デザインのグループ「デ・ステイル」のリーダー、テオ・ファン・ドゥースブルフと盟友であったピート・モンドリアンが絵画に斜めの線を入れるかどうかで喧嘩別れした話は有名である。斜線を絶対に拒否したモンドリアンは、その後フランスに渡り、ナチスに追われて渡米するまでパリを拠点に活動した。
バウハウスの流れを引くウルム造形大学の最初の日本人女子学生となった吉川静子は、ウルムに進む素養と実力がすでにあった。最初の進学先である津田塾大学で語学力を磨き、東京教育大学(現筑波大学)で建築や工業デザインを学んでいたからだ。自己の影響力を広めようとバウハウスに乗り込んだドゥースブルフ、同時代にマレーヴィチはじめロシアを席巻した構成主義の流れなど、吉川のデザインには先達の遺産、功績、技量の全てが詰まっている。
しかし、全体のフォルムは正四角形を斜めにしたものや、円を用いるのに画面には縦と横の直線しか登場しなかった吉川の画業にモンドリアンの頑固さを見てとったのは、完全に筆者の無知ゆえである。計さされ尽くしたグリッド(格子)は、その色調、長短、カッティングの妙とも変奏し、頑固どころか自由であり、さらなる展開を期待させる。吉川がこのような旺盛な制作をこなしたのは1960年代から21世紀にまでわたる。デザイン作家がエアーブラシを駆使する時代に、筆で細かく丹念に、愚直に線を引く様は画家の描画というより、建築家の製図を思わせる。しかし、間違いなく展開図などではなく画なのだ。
吉川の評伝を見ると、キネティック・アートの大家ブリジット・ライリーとも親交があったことが判明する。歴史として扱われる構成主義にとどまらず、同時代の規則的、数理的なデザインも貪欲に取り入れていたことが分かる。さらにローマ滞在中には、日の出や落日を思わせる幾つものカラーを組み合わせた反円の中のグリッドを、20世紀も終わる頃には竹林から着想を得たのか、斜めのラインが躍動し、そして21世紀に入ると楽しげな水玉模様まで現れる。しかもそれらが全て考え抜かれたフォルム、配色、配置であるのに驚嘆させられるばかりだ。そして、幾何学的矩形しか登場しない作品群は決して無機質ではなく、名状し難いが精神的な明るみ、楽しさ、華やかさに溢れている。
思うに、構成主義的絵画の起源は、ヨーロッパにおける聖堂建築の緻密さや、後期印象派やキュビスム以降の表現主義とも関わりがあるのではないか。しかし、幾何学的矩形という意味では、ミニマルアートを牽引したアメリカでも昨年亡くなったフランク・ステラなど著名な仕事も多いが、ヨーロッパ的な緻密さ、繊細さは見られない。そして、障子や襖など、日常の生活デザインにグリッドがふんだんに現れる日本の美意識とも親和性が高いのかもしれない。
吉川は、通訳を担ったことが縁となり、スイス人デザイナー、タイポグラファーであるヨゼフ・ミューラー=ブロックマンと結婚し、生涯ほとんどをスイスで過ごした。吉川が日本に留まっておれば、このような偉業は成し得なかったのではとは考えすぎであろうか。
(「Space In-Between:吉川静子とヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」展は、大阪中之島美術館 3月2日まで)
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