オスロに行ったのはムンクが目的ではない。ヴィーゲランである。ムンクと並ぶノルウェーの国民的芸術家であるのに日本ではムンクほど知られてはいない。その理由は、ヴィーゲラン自身が作品のノルウェー国外への持ち出しを禁じたこと、そしてもう一つは抽象彫刻が勃興する現代彫刻の時代にあってヴィーゲランの作品は古めかしさを感じさせるを得なかったこと、である。後者は私の勝手な想像であるが、ロダンが近代彫刻の師であるならば、ブールデルやマイヨールがその力強いあるいは滑らかな肉体にこだわった造形を完成させたのに比べ、ヴィーゲランの作品はその模倣とは言えないまでも「古い」とは言えるだろう。しかし、キュビズムの洗礼を受けた近代彫刻は大きくその姿を変質させていく。ブランクーシは言うに及ばず、未来派のボッチョーニやエルンストなど。
ブランクーシの鳥はおよそ鳥とも思えないし、エルンストの人物像は人ではない。けれどその極端化、洗練さは認めたとしても北欧の言わば田舎でせっせと人間讃歌を彫り続けたヴィーゲランもまた心惹かれる彫り物師なのである。
ルネサンス期のミケランジェロやその後のベルニーニなど前近代彫刻や、ロダンの人物主題はすべて聖書や神話世界からとったものである。実際に市井の名もなき人物像を彫りだしたのは近代彫刻以降であるが、ヴィーゲランのそれは本当に名もなき母と子、男と女、子どもたちなど無名の対象である。でもそのどれもが心さそう陰影を持っている。というのは、ヴィーゲランの主題は明るいもの 例えば、歓喜、抱擁ばかりではないからである。むしろ、「戸惑い」や「死」など人間のつらい場面をとらえたものが多い。いや、しかしヴィーゲランの眼は常に人に向けられているというのが正しいとろかもしれない。
若さも老いも、性の快楽も、その蹉跌もすべて描こうとしヴィーゲランは病や死を迎えざるを得ない人間の宿命に真っ向から彫ることで立ち向かおうとしたのかもしれない。直視とは、逃げないだけのことではなくて、むしろそこまでもと常人なら眼を背けたくなるようなときには現実の過酷さを描き切る芸術家の矜持なのかもしれない。
人は人の世界からは逃れることはできない。それこそをヴィーゲランは描きたかったのではないか。美術館と公園に設置されたおびただしい数のヴィーゲランの作品群。一人一人の表情を見ていると彫刻が持つ(と私が勝手に思う)無限の可能性に思いを馳せてしまった。
ブランクーシの鳥はおよそ鳥とも思えないし、エルンストの人物像は人ではない。けれどその極端化、洗練さは認めたとしても北欧の言わば田舎でせっせと人間讃歌を彫り続けたヴィーゲランもまた心惹かれる彫り物師なのである。
ルネサンス期のミケランジェロやその後のベルニーニなど前近代彫刻や、ロダンの人物主題はすべて聖書や神話世界からとったものである。実際に市井の名もなき人物像を彫りだしたのは近代彫刻以降であるが、ヴィーゲランのそれは本当に名もなき母と子、男と女、子どもたちなど無名の対象である。でもそのどれもが心さそう陰影を持っている。というのは、ヴィーゲランの主題は明るいもの 例えば、歓喜、抱擁ばかりではないからである。むしろ、「戸惑い」や「死」など人間のつらい場面をとらえたものが多い。いや、しかしヴィーゲランの眼は常に人に向けられているというのが正しいとろかもしれない。
若さも老いも、性の快楽も、その蹉跌もすべて描こうとしヴィーゲランは病や死を迎えざるを得ない人間の宿命に真っ向から彫ることで立ち向かおうとしたのかもしれない。直視とは、逃げないだけのことではなくて、むしろそこまでもと常人なら眼を背けたくなるようなときには現実の過酷さを描き切る芸術家の矜持なのかもしれない。
人は人の世界からは逃れることはできない。それこそをヴィーゲランは描きたかったのではないか。美術館と公園に設置されたおびただしい数のヴィーゲランの作品群。一人一人の表情を見ていると彫刻が持つ(と私が勝手に思う)無限の可能性に思いを馳せてしまった。