kenroのミニコミ

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何を学ぶのか   光州5.18

2008-06-01 | 映画
光州事件についてはあまりにも語ることが多いと感じ、また、語るほどにはその当時無知だった自分が恥ずかしいため、綴ってはこなかった。
1980年5月18日。あの日、軍事政権はノー、もうこれ以上軍部が支配する国家にノーとデモをした学生に襲いかかった軍隊。軍の怖さは武力を持っていることそれ自体ではない、その武力が国民を守ってくれるため存在していると思っていたのに、その銃の先が自分に向けられることだ。いや、軍事力の矛先が自分ではなく他者に向けられるはずだ、と考えること自体、国家権力としての軍隊に対する理解の足りなさ、おめでたいだけなのかもしれない。それほど軍というものは国民一個人を守るためでは決してなく、国家という幻想の共同体を守るためだけに存在価値があるのだと。
光州事件の犠牲者数は今だ分からず、2000人超とも言われる。黄皙暎は犠牲者数については正確なところは記述していないが(「光州5月民衆抗争の記録」)、たとえそれを大きく下回る犠牲者数であっても、権力による不合理、不条理な殺され方という意味ではその事実確認と責任追及は厳しくなされなければならないだろう。
現在の韓国が「民主化」を成し遂げ、軍事政権の首謀者たる全斗煥もその後全政権を引き継いだ廬泰愚もその在任中の責任を問われ、追放されたのにはその証があると言える。そして、光州事件で民衆を扇動した罪で「死刑」を宣告された金大中が大統領にまでなった国として光州事件の国家犯罪性は明らかになったとも見える。しかし、「光州5.18」も語るようにあの時、自由を求めた民衆に銃口を向けた兵士のPTSDは解決されていないし、ベトナム戦争やイラク戦争の米帰還兵のPTSDが解決されていないように国家の勝手(戦争における兵士の位置とはそんなものだ)に翻弄された兵士の姿は明らかにはなっていない。というのは、韓国はいまだ朝鮮民主主義人民共和国と戦争状態であるし、国民総背番号制どころか、住基カード、指紋押捺制度といい、国民をがんじがらめに管理する韓国とは、そして徴兵制のある韓国とは軍事国家としての反省を何らしていないとまみえるからだ。
いや、反省はありえないし、軍事国家を捨てる意志はないであろう。であっても、「シルミド」や本作に見えるように、韓国の現代軍部の暗部に光を当てる作品は韓国の先進性を物語っていると言えるのではないか。と言うのは、日本ではそのような映画はできないし、しかし、安保闘争の際市民を死に至らしめている実態を鑑みれば、韓国より後れをとっている部分がかなりある。
最近田中耕太郎元最高裁長官が長沼ナイキ事件で米から自衛隊違憲判決を出すなと圧力をかけられたと明らかにしたとの報道があった。事実ならそれに従った田中長官は売国奴きわまりないが、軍隊と国家の関係がおよそその時の政府の態度だけでは決まらないあかしと言える。光州の民衆も一時アメリカが韓国の軍事政権に圧力をかけてくれるのではという淡い期待をいだていたが、霧散した。
軍隊は絶対民衆を守らない。ましてや絶対的権力の軍隊は。という言い回しは「権力は腐敗する…」を想起させるが、そのような政治学における普遍的地平からは費やされた民衆の死は還りようもない。光州事件はそれくらい身近であったのに鈍感な自分だったのだ。
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