kenroのミニコミ

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美しき「すべて」を見尽くす  パリ・オペラ座のすべて

2009-12-08 | 映画
オペラ座は数年前パリを訪れた際、オペラ・バスティーユには行ったがオペラ・ガルニエには行かなかった。1月初旬だったからかたしかガルニエには公演がなかったように思う。バスティーユは、近代的な外観でまだ完成して20年という。ガルニエの方がルイ14世の肝いりでできたので今年で348年の歴史を持つというから、バスティーユの浅さが分かるというもの。ただ、バスティーユに出演しているのも国立バレエ団で演目はたしか「眠れる森の美女」だったと思うが、とても美しかったように思う(かなり後ろの席であった)。そのガルニエの方のオペラ座の「すべて」を映し出したのが本作である。ドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマンの手による伝統と格式の粋オペラ座の日常を切り取った、とは言っても、カメラが回っていると被写体に微塵も感じさせない風景の積み重ねと実際の公演模様である。
バレエ好き、演劇好きにとってその舞台裏というのはたいそう興味がそそられる。舞台というのはいつも完璧に作られているとまみえるのだが、そこまでに至る練習量や練習内容、振り付けや舞台芸術そのものの作られ方など。本作は振付家とダンサーのせめぎ合い、レッスンを通じての役づくり、表現方法の完成型をめざすやりとりを中心に、芸術監督を中心とした会議、あるいは公演計画の議論、食事風景から、清掃風景、屋上で採れる養蜂場面までオペラ座を取り巻く日常を描いて最後まで飽きさせない。そしてだんだん本公演に近づき完成していく出し物とその公演風景。「パキータ」や「くるみ割り人形」といった古典も、「メディアの夢」などのコンテンポラリーもその厳しい制作過程があますところなく映し出され嬉しいことこの上ない。
それにしても振付家とダンサーの役づくり、ダンスあわせは厳しい。素人目にはもう十分出来上がっていると思えるダンスも、振付家はダメ出しを連続、「もっと腕を上げて」とかこと細かな指示を連発する。それもオペラ座ダンサーの最高峰エトワールに対して。
ダンサーの方もそれら振付家の要求に応えようとする。振付家と言っても頭でっかちだけの理屈屋ではない、往年の名ダンサーばかりだ。そして、それら振付家が何よりもダンスを愛していること、もっと表現したいという意欲がダンサーに伝わってくるから。
バレエは時として観客を置いてきぼりにするほどダンサーら作り手の自己陶酔とも見える強烈な表現力に圧倒されることがある。それはダンサーだけが作り上げたものではない。振付家はもちろん、舞台をかたちづくるすべての人たち、パリ・オペラ座で言えば芸術監督、広報など事務方の人、舞台美術に大道具・小道具、それらの人々の食事方やホールの清掃係までわずか2、3時間の公演で「満喫した」と思える舞台を提供しているのはこのオペラ座にかかわるすべての人であり、そしてそれが舞台というものなのだ。
ダンサー他それぞれの役割に興味がそそられるが、フランスというバレエが育った国の度量の大きさをかいま見、そしてサルコジ政権下の厳しさが実感されたシーンもある。オペラ座のダンサーは定年が42歳、40歳から年金が出る特別職公務員であるが(!)、その年金開始年齢が一般職もそうであったのをダンサー以外には普通の公務員同様60歳からと法改正が提案されることをオペラ座の事務方が説明するシーンと、実際に技術職らのストによって公演が中止になったシーン。ダンサーらの外国人比率は5%以下と決まっているが、清掃などの従事する職員は黒人が多かったこと(しかし、おそらくこれら清掃員も給与体系は別にしても公務員である可能性が高い。)
国をあげての文化を大事にすることと移民混交の現実。公演もすばらしいが労働者の当然の権利としてのストもよい。パリ・オペラ座には目が離せないし、目を向けたいと思う。ヨーロッパの文化政策と移民とのシチズンシップを探る手がかりの一助として。
コメント (1)
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