東京に行ったのでいくつかの展覧会をはしごした。六本木ヒルズという、かの「ほりえもん」も住む?超タカビーなビルにある森美術館。開館当初は森美術館=MORI ART MUSEUMしかなかったらしいが、後にMORI ART CENTERもできて、2館になったのを知らず、間抜けなことをした。考えれば今回、森美術館に行こうと思ったのは、森美術館、金沢21世紀美術館、直島美術館の3館を巡ってスタンプをもらうと特製グッズがもらえるからという、景品ねらいのおばさんみたいな行動故だが、それはさておき、森美術館の現在。六本木ヒルズの52階、展望台にも行けるかゆい?商法で展覧会も1500円と高額だ。どうもMUSEUMは現代美術、CENTERはそれ以外という棲み分けみたいでそれを知らずに間違ってチケットを買ってしまった愚か者。
森美術館で開催していたのは「ネイチャー・センス展」。吉岡徳仁、篠田太郎、栗林隆のインスタレーションである。若手とは言い難いが、デザインなどでそれぞれの地歩を築いてきた3人が取り組んだ「自然を知覚する潜在的な力(ネイチャー・センス)」とは。吉岡は真綿の舞う雪景色さながらのかなり大規模な設え。篠田太郎の天井から水滴が落ちる水面は無限の想像力をかき立てる仕掛け。地中の動物からのぞき見た地上の風景は意外に小さき世界と実体験を提供するのは栗林隆の作品。どれもが奇抜ででも納得させられ、どこか笑いを包含する身近さ。
国立新美術館では二つの企画展を見たが、「マン・レイ」展は大阪にも巡回するようなのでまたの機会にして、現在の印象派人気の一端を司る「オルセー美術館展2010 ポスト印象派」展である。ポスト印象派というからには印象派そのものが措定されていなければならない。印象派というと1876年以降、ルノワール、モネ、ピサロなどを指し、ポスト印象派はセザンヌ、ルドン、そしてスーラなどを指すらしい。それはそうだが、印象派というと「ありたがっている」印象派好きの日本人にポスト印象派とは分かりにくい分類ではないか。たしかにセザンヌは印象派を超えて、新しい表現を模索し、その試みはキュビズム、フォービズムに発展し、ポスト印象派に擬せられるスーラは当然点描主義を完成させた本人であり、ポストに分類され展示されていたバイヤールなどはナビ派という「矮小化」されたものとなっている。
ポスト印象派という以前に、点描主義、ナビ派、キュビズム、フォービズムそしてシュルリアズムと印象派以降の傾向を分類したことが無駄になったかにも思える今回の「ポスト印象派展」。ポストと括ればそれはそうであるが、印象派以降美術はすべて「ポスト」であるのだから、ポストとはあまりにも乱暴ではないか。
たしかによい作品は来ている。しかし、美術史を鑑みるとき、すべからく「ポスト」であることをあえて、「ポスト」と名付けずに、いろいろな象徴指向を名付けたのはなかったか。そして、「ポスト」と括らないことによって、自分はどの指向が好きか、興味がわくかをときほどくことによって「ポスト」以前の本家印象派に視線が向かうのではなかったか。
「ポスト印象派」と括られることによって、あらためて印象派の業績に興味が沸くとともに、「ポスト」と擬せられたセザンヌ、バイヤール、ルドン、ピカソなどなどの試み、挑戦が再確認できる展示ではある。あまりも多い観覧者のために本展示を詳しく見たわけではない上の感想ではあるが、ルソーの「戦争」など見逃せない作品ももちろん来ていた。
(ルソー「戦争」)
森美術館で開催していたのは「ネイチャー・センス展」。吉岡徳仁、篠田太郎、栗林隆のインスタレーションである。若手とは言い難いが、デザインなどでそれぞれの地歩を築いてきた3人が取り組んだ「自然を知覚する潜在的な力(ネイチャー・センス)」とは。吉岡は真綿の舞う雪景色さながらのかなり大規模な設え。篠田太郎の天井から水滴が落ちる水面は無限の想像力をかき立てる仕掛け。地中の動物からのぞき見た地上の風景は意外に小さき世界と実体験を提供するのは栗林隆の作品。どれもが奇抜ででも納得させられ、どこか笑いを包含する身近さ。
国立新美術館では二つの企画展を見たが、「マン・レイ」展は大阪にも巡回するようなのでまたの機会にして、現在の印象派人気の一端を司る「オルセー美術館展2010 ポスト印象派」展である。ポスト印象派というからには印象派そのものが措定されていなければならない。印象派というと1876年以降、ルノワール、モネ、ピサロなどを指し、ポスト印象派はセザンヌ、ルドン、そしてスーラなどを指すらしい。それはそうだが、印象派というと「ありたがっている」印象派好きの日本人にポスト印象派とは分かりにくい分類ではないか。たしかにセザンヌは印象派を超えて、新しい表現を模索し、その試みはキュビズム、フォービズムに発展し、ポスト印象派に擬せられるスーラは当然点描主義を完成させた本人であり、ポストに分類され展示されていたバイヤールなどはナビ派という「矮小化」されたものとなっている。
ポスト印象派という以前に、点描主義、ナビ派、キュビズム、フォービズムそしてシュルリアズムと印象派以降の傾向を分類したことが無駄になったかにも思える今回の「ポスト印象派展」。ポストと括ればそれはそうであるが、印象派以降美術はすべて「ポスト」であるのだから、ポストとはあまりにも乱暴ではないか。
たしかによい作品は来ている。しかし、美術史を鑑みるとき、すべからく「ポスト」であることをあえて、「ポスト」と名付けずに、いろいろな象徴指向を名付けたのはなかったか。そして、「ポスト」と括らないことによって、自分はどの指向が好きか、興味がわくかをときほどくことによって「ポスト」以前の本家印象派に視線が向かうのではなかったか。
「ポスト印象派」と括られることによって、あらためて印象派の業績に興味が沸くとともに、「ポスト」と擬せられたセザンヌ、バイヤール、ルドン、ピカソなどなどの試み、挑戦が再確認できる展示ではある。あまりも多い観覧者のために本展示を詳しく見たわけではない上の感想ではあるが、ルソーの「戦争」など見逃せない作品ももちろん来ていた。
(ルソー「戦争」)