長らくこの欄に封切作品のブログを書き連ねてきたが、今回は珍しくDVDの感想である。とはいっても作品は67年に制作され、日本で公開されたのは翌68年のケン・ローチ監督デビュー作「夜空に星のあるように」である。ケン・ローチ作品はここで幾度も紹介したが、最近は一定希望が持てるようなエンディングや(エリックを探して http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/e6f23751172d39a22639c2cc573e6967)、下層階級を描きながらもどこか突き放したような作品(ルート・アイリッシュ http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/1f0140ba615c669521c109ba5714d9d)が散見された。ローチのまなざしの原点ともいえる、労働者・階級の日常を描いた作品(「リフ・ラフ」「レイニング・ストーンズ」そして「マイ・ネーム・イズ・ジョー」など)から遠ざかったかのように見える最近の作品に比して、また、原点を思い起こさせたのが「夜空に星があるように」である。
18歳で妊娠したジョイの夫トムは泥棒。捕まり刑務所に収監されている間、トムの泥棒仲間のデイヴと親密になる。デイヴはトムとの子どもジョニーにもとてもやさしい。しかし、デイヴも逮捕され、母子家庭をきりもりすることになったジョイは、デイヴに「愛してる。」と手紙を書きつつも、様々な男と付き合い、ときに高価な援助を受ける。
面会に来たジョイがきれいななりをしていることに不安をつのらせるデイヴはジョイを疑い、刑期を終え、出所したトムはジョイに暴力を振るい、ジョニーの父親面をする。束の間の幸せを奪われたジョイは。
今後、どのような災厄が待っているのか、知らずに歩き回るジョニーを映しだし、突然フィルムは終わる。ケン・ローチらしいアンチ・エンディングである。ジョニーに必ず災厄がふりかかるような書き方をしたが、ジョイがトムから離れられなければ、ジョイがトムと別れられても、安定した男性関係(そこにはもちろん男が泥棒ではなく正業に就いていることも含まれる)持つことができなければ、ジョニーにとってよい養育環境が保障されるとは思えないからだ。それは一つジョイのせいだけではないだろう。それはトムをはじめとする男性側の意識や態度、社会の母子家庭への支援など一筋縄ではいかない、けれど解決すべき大きな問題が横たわっている。
ジョイがジョニーを連れて訪れた叔母も、無理な化粧をして金を巻き上がられそうな男を物色に行くシーンがある。この叔母も安定した生活ではなさそうであるし、ジョイ自身が正業に就いた両親のもとで愛情深く育てられたのではないことを予想させるシーンである。
愛情の深さは、その示し方や方向性がふさわしくなければ、必ずしも育てられる側の愛情が豊かになるとは限らないが、愛情を与えられたことがなかったり、近親者の愛情がきわめて歪な形で現れた時、その子もまた他者に愛情を持つことができなかったり、自尊感情がきわめて低くなったりすることは社会的に明らかになっている。
以前のブログで(子ども視線に気づくべき大人の目線 ダルデンヌ兄弟「少年と自転車」http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/c62ab5134d589ae92497c457c9f96483)「We」誌の児童相談所職員の連載を紹介したが、同誌178号(2012/6/7)では、性虐待が連鎖し、それら被害者である子どもが加害者になったり、将来が見通せない絶望が紹介されている(これもフェミックスのHP参照。http://www.femix.co.jp/)。
68年の本作発表から一貫して底辺の労働者階級の現実を描き続けたケン・ローチは、いずれも解決策や希望を語らずにフィルムを閉じてきた。しかし「夜空に星のあるように」一片の輝きも一筋の光もない社会ではだめなのだ、現実を見据えてささえる社会を築こうとローチのコミュニズム、あるいは、コミュニタリズム精神が出ているように思える。
知らないことは知ろうとしなければいつまでも知らないですむ。もうすぐ80歳になろうかというローチの原点作品、そうそれが「夜空に星のあるように」なのである。
18歳で妊娠したジョイの夫トムは泥棒。捕まり刑務所に収監されている間、トムの泥棒仲間のデイヴと親密になる。デイヴはトムとの子どもジョニーにもとてもやさしい。しかし、デイヴも逮捕され、母子家庭をきりもりすることになったジョイは、デイヴに「愛してる。」と手紙を書きつつも、様々な男と付き合い、ときに高価な援助を受ける。
面会に来たジョイがきれいななりをしていることに不安をつのらせるデイヴはジョイを疑い、刑期を終え、出所したトムはジョイに暴力を振るい、ジョニーの父親面をする。束の間の幸せを奪われたジョイは。
今後、どのような災厄が待っているのか、知らずに歩き回るジョニーを映しだし、突然フィルムは終わる。ケン・ローチらしいアンチ・エンディングである。ジョニーに必ず災厄がふりかかるような書き方をしたが、ジョイがトムから離れられなければ、ジョイがトムと別れられても、安定した男性関係(そこにはもちろん男が泥棒ではなく正業に就いていることも含まれる)持つことができなければ、ジョニーにとってよい養育環境が保障されるとは思えないからだ。それは一つジョイのせいだけではないだろう。それはトムをはじめとする男性側の意識や態度、社会の母子家庭への支援など一筋縄ではいかない、けれど解決すべき大きな問題が横たわっている。
ジョイがジョニーを連れて訪れた叔母も、無理な化粧をして金を巻き上がられそうな男を物色に行くシーンがある。この叔母も安定した生活ではなさそうであるし、ジョイ自身が正業に就いた両親のもとで愛情深く育てられたのではないことを予想させるシーンである。
愛情の深さは、その示し方や方向性がふさわしくなければ、必ずしも育てられる側の愛情が豊かになるとは限らないが、愛情を与えられたことがなかったり、近親者の愛情がきわめて歪な形で現れた時、その子もまた他者に愛情を持つことができなかったり、自尊感情がきわめて低くなったりすることは社会的に明らかになっている。
以前のブログで(子ども視線に気づくべき大人の目線 ダルデンヌ兄弟「少年と自転車」http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/c62ab5134d589ae92497c457c9f96483)「We」誌の児童相談所職員の連載を紹介したが、同誌178号(2012/6/7)では、性虐待が連鎖し、それら被害者である子どもが加害者になったり、将来が見通せない絶望が紹介されている(これもフェミックスのHP参照。http://www.femix.co.jp/)。
68年の本作発表から一貫して底辺の労働者階級の現実を描き続けたケン・ローチは、いずれも解決策や希望を語らずにフィルムを閉じてきた。しかし「夜空に星のあるように」一片の輝きも一筋の光もない社会ではだめなのだ、現実を見据えてささえる社会を築こうとローチのコミュニズム、あるいは、コミュニタリズム精神が出ているように思える。
知らないことは知ろうとしなければいつまでも知らないですむ。もうすぐ80歳になろうかというローチの原点作品、そうそれが「夜空に星のあるように」なのである。