あざみ野市で開催されたWeフォーラム(Weの会・フェミックス主催)に参加するため東京に行ったのでいくつか美術展も回ってきた。
国立西洋美術館に新館ができたのは知っていたが、なかなか訪れる機会がなかった。一応西洋美術を擁する日本最大の美術館なので、ル・コルビュジェ作とはいえ本館だけでは淋しい規模であったから、日の目を見なかった収蔵品が展示されるのは喜ばしいことだ。もちろんヨーロッパの名だたる美術館が、中世(以前)のキリスト教美術から押さえているのに比べると「西洋」を語るには貧相なのはいたしかたない。けれど、おもに印象派以降の近代美術に特化して、日本人の印象派好きになるよう多大な貢献をしてきた功績?は評価されてしかるべきだと思う。
本館で開催されていたのは、印象派ではなく「ミケランジェロ展 天才の軌跡」。イタリアルネサンス3巨匠のうち彫刻と絵画の両面で名をなし、システィーナ礼拝堂の天井画をはじめ、日本人にもなじみ深い作品も多い。ただ、ダ・ヴィンチの作品が海外へも持ってこられるのに対し(「モナ・リザ」も西洋美術館に来たことがある)、ミケランジェロの作品が海外にでることは難しい。ミケランジェロがなぜ天才であるのか。それは、「神のごとき」観察眼と技で天井画を完成させ(教皇から依頼された礼拝堂天井画と壁画(最後の審判)を依頼されたときミケランジェロは30歳、制作に40年の歳月を費やした)、その地位を揺るぎなきものにしただけではない。ルネサンス絵画で飛躍的に技術が向上した遠近法を大胆に取り入れ、タブーであった裸体を多用、肉体を究極まで追求した技巧の技はピエタやダヴィデで十分に証明されている。しかし、教皇に依頼され、慣れない天井画に挑んだ巨匠。神は細部に宿るとの言はミケランジェロより大分後の時代だが、ミケランジェロの仕事の粋はまさに細部に宿った。天井画は、見上げることが前提で、また物語も壁に飾る絵画より一覧性に秀でていなければならない。それを成し遂げたのが神の手所以。
ダ・ヴィンチはもちろんのこと、バロックの巨匠レンブラント、19世紀ではゴヤ、印象派のドガ、20世紀のピカソ、モディリアーニなど素描展をいくつか見たことがあるが、いずれも感嘆の技量であった。そしてミケランジェロ、本展はその素描もいくつか展示されているが、妥協を許さない完成作たるシスティーナの天井画と壁画がそれら驚嘆の素描の集大成であることがよく分かる。「神のごとき」ミケランジェロなのである。
同じく西洋美術館で今回もっとも惹かれた展示が「ル・コルビュジエと20世紀美術」展。この西洋美術館を設計したコルビュジエは、建築以前というか、並行して絵画、彫刻、版画、タピスリーな多岐にわたって作品を遺していた。その全容に迫るとの意気込みで本当に多くの作品群。建築でキュビズム的構成を現出させたコルビュジエが、20世紀の構成主義、キュビズムに惹かれたのはよく分かる。その作品群はフェルナン・レジェの影響が大きく、その色彩、フォルムともレジェ本体よりレジェらしい。
19世紀末印象主義からフォービズム、キュビズムへとより抽象主義に変化したのは理由がある。勝手な解釈だけれども印象主義以前、キリスト教を中心とした画題に縛られていた美術界は、印象主義に出会うことによって、宗教や神話を取り上げないで絵画が成り立つということを知った。そして、再び宗教や神話を描かない証として、画家は物語がなくても見る眼そのものによって物語がつくられる、あるいは物語自体を必要としない絵画に出会ったのだ。
コルビュジエの絵は建築に行かなければ、ピカソやレジェなどキュビズムの極致を達成したかもしれない。それくらい、後の建築作品の萌芽が、コルビュジエの絵画に読みとれるのである。しかし、コルビュジエはそれで終わらなかった。そう、キュビズムの非人間性を3次元では親人間性に還元して見せたのだ。その代表作があのロンシャン礼拝堂であると筆者は思っている。いや、そう思ってみれば、レジェなど2次元の世界もかなり親人間的であるではないか。コルビュジエの世界はまだまだ広がっていく。
(ル・コルビュジエ「円卓の前の女性と蹄鉄」)
国立西洋美術館に新館ができたのは知っていたが、なかなか訪れる機会がなかった。一応西洋美術を擁する日本最大の美術館なので、ル・コルビュジェ作とはいえ本館だけでは淋しい規模であったから、日の目を見なかった収蔵品が展示されるのは喜ばしいことだ。もちろんヨーロッパの名だたる美術館が、中世(以前)のキリスト教美術から押さえているのに比べると「西洋」を語るには貧相なのはいたしかたない。けれど、おもに印象派以降の近代美術に特化して、日本人の印象派好きになるよう多大な貢献をしてきた功績?は評価されてしかるべきだと思う。
本館で開催されていたのは、印象派ではなく「ミケランジェロ展 天才の軌跡」。イタリアルネサンス3巨匠のうち彫刻と絵画の両面で名をなし、システィーナ礼拝堂の天井画をはじめ、日本人にもなじみ深い作品も多い。ただ、ダ・ヴィンチの作品が海外へも持ってこられるのに対し(「モナ・リザ」も西洋美術館に来たことがある)、ミケランジェロの作品が海外にでることは難しい。ミケランジェロがなぜ天才であるのか。それは、「神のごとき」観察眼と技で天井画を完成させ(教皇から依頼された礼拝堂天井画と壁画(最後の審判)を依頼されたときミケランジェロは30歳、制作に40年の歳月を費やした)、その地位を揺るぎなきものにしただけではない。ルネサンス絵画で飛躍的に技術が向上した遠近法を大胆に取り入れ、タブーであった裸体を多用、肉体を究極まで追求した技巧の技はピエタやダヴィデで十分に証明されている。しかし、教皇に依頼され、慣れない天井画に挑んだ巨匠。神は細部に宿るとの言はミケランジェロより大分後の時代だが、ミケランジェロの仕事の粋はまさに細部に宿った。天井画は、見上げることが前提で、また物語も壁に飾る絵画より一覧性に秀でていなければならない。それを成し遂げたのが神の手所以。
ダ・ヴィンチはもちろんのこと、バロックの巨匠レンブラント、19世紀ではゴヤ、印象派のドガ、20世紀のピカソ、モディリアーニなど素描展をいくつか見たことがあるが、いずれも感嘆の技量であった。そしてミケランジェロ、本展はその素描もいくつか展示されているが、妥協を許さない完成作たるシスティーナの天井画と壁画がそれら驚嘆の素描の集大成であることがよく分かる。「神のごとき」ミケランジェロなのである。
同じく西洋美術館で今回もっとも惹かれた展示が「ル・コルビュジエと20世紀美術」展。この西洋美術館を設計したコルビュジエは、建築以前というか、並行して絵画、彫刻、版画、タピスリーな多岐にわたって作品を遺していた。その全容に迫るとの意気込みで本当に多くの作品群。建築でキュビズム的構成を現出させたコルビュジエが、20世紀の構成主義、キュビズムに惹かれたのはよく分かる。その作品群はフェルナン・レジェの影響が大きく、その色彩、フォルムともレジェ本体よりレジェらしい。
19世紀末印象主義からフォービズム、キュビズムへとより抽象主義に変化したのは理由がある。勝手な解釈だけれども印象主義以前、キリスト教を中心とした画題に縛られていた美術界は、印象主義に出会うことによって、宗教や神話を取り上げないで絵画が成り立つということを知った。そして、再び宗教や神話を描かない証として、画家は物語がなくても見る眼そのものによって物語がつくられる、あるいは物語自体を必要としない絵画に出会ったのだ。
コルビュジエの絵は建築に行かなければ、ピカソやレジェなどキュビズムの極致を達成したかもしれない。それくらい、後の建築作品の萌芽が、コルビュジエの絵画に読みとれるのである。しかし、コルビュジエはそれで終わらなかった。そう、キュビズムの非人間性を3次元では親人間性に還元して見せたのだ。その代表作があのロンシャン礼拝堂であると筆者は思っている。いや、そう思ってみれば、レジェなど2次元の世界もかなり親人間的であるではないか。コルビュジエの世界はまだまだ広がっていく。
(ル・コルビュジエ「円卓の前の女性と蹄鉄」)