kenroのミニコミ

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その妖しさの虜になる快感   クラーナハ展

2017-03-01 | 美術

2017年は、ロシア革命100年であるが、もっと遡ればルターの宗教改革から500年である。だから去年東京は国立西洋美術館からはじまり、現在大阪の国立国際美術館で開催されているクラーナハ展は、ルターと近しかった故の開催でもある。

しかし、クラーナハはルターと敵対していたいわばカトリック側の注文にも応えており、一筋縄ではいかない。クラーナハは1505年ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明候の宮廷画家となり以来3代、50年近く選帝侯に仕えている。ルターの宗教改革派を弾圧する側に身を置いていたのだ。しかし、そのような「保守派」の世界に身を置き、絵画の世界ではさまざまな革新を追求したところがすごい。その革新の成功が、クラーナハの描く裸体画である。

クラーナハが裸体画を描き出したのは、宗教改革後の1520年頃以降とされるが、クラーナハが実際裸体を描き始めたのはそれより以前らしい。そもそも、クラーナハは自己の工房を大々的に発展させ、同じモチーフの画を次々に生み出す、今でいう大量生産の手法を編み出した。現代の大量生産とはだいぶ違うであろうが、絵画印刷のなかった時代、同じ画を次々に生み出すやり方は画期的であった。そしてクラーナハは早描きの名人でもあった。

妖しい裸体と微笑みとも無表情ともとれる表情。登場する裸体は、もちろん現実のものではないが、裸体画の発展が、宗教や神話にかこつけて鑑賞する者が見たいものを制作した経緯に照らせば、クラーナハの仕事はその要請に十分に応えたものといえる。その視線は常に猥雑でありながら、クラーナハの手にかかるとビーナスも、イブも、ユーディットも蠱惑的でありながら、どこかセクシャリティに欠けるのはなぜか。それは現実にはあり得ないヌードなどであるからである。例えば何度も描かれたイブを見ると、あれほど細く引き伸ばされた体躯はない。体つきは華奢で子どもっぽいのに表情は妖艶。そしておよそ隠しているとは思われない極薄のベール。16世紀の技術であのようなベールはなかったことはもちろんのこと、あれは隠すためのベールではなく、見せるため、視線を集中させるためのベールなのである。と、同時に視線の先にある、見たいもの(もちろん男性の視線だけであるが)は実はそれほど鮮明には描かれておらず、観者の想像、いや妄想に委ねている。これこそがクラーナハのうまいところで、それまでの宗教画・神話画に見られた実際にはない姿から、あるがままを写実的に描こうとするルネサンス以降の肖像画の系譜の中間に位置する、発展段階ともとらえることができる。もっとも、肖像画のすぐれた技量は、イタリアでのそれより、クラーナハの属する北方で15世紀半ばにはヤン・ファン・エイクによってすでに確立されていた。そういう意味では、宗教画・神話画から離れ、いち早く実際の肖像画が発展したのが、宗教改革を生み出した北方であり、宗教画・神話画のままさらに発展したのが、ローマ教皇の勢力下であるイタリアは16世紀半ばにティツィアーノのすぐれた画業に集約されるのも理解できるのである。

ところで、クラーナハの双璧と言えばデューラーである。デューラーの絵や版画が、ことのほか繊細、職人技でどこか近寄りがたい雰囲気まで感じさせるのに対し、クラーナハのそれは先の蠱惑的なヌードをはじめ多くは親しみやすい、というかどこか惹きつけられてしまう。しかし、その中に人間の愚かさや傲慢さへの戒めなど、聖書やキリスト教的倫理観が垣間見える。

あの妖しさに自ら虜になる快感。クラーナハの魅力は尽きることがない。

 

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