冤罪と一語で言ってしまいがちであるが、その経験はそれぞれである。当たり前のことだが、無罪を勝ち取った人、出獄したがそうではない人、死刑囚であるのに再審開始決定が出たから出獄した人とその思いと経験は大きく違う。しかし、彼らには共通項がある。冤罪であるということ。
「獄友」は、2010年、狭山事件の石川一雄さんを撮るときからずっと、冤罪の人たちにカメラを向けている足かけ7年の大作である。大作と呼んだが、冤罪被害者5人とその家族などを追うドキュメンタリーで、豪華でもすごい展開があるわけでもない。布川事件の杉山卓男さんは2015年病のために亡くなっている。同じ布川事件の桜井昌司さんは明るく、芸達者、話も面白い。その桜井さんが半ば他の人たちを巻き込んで「獄友」グループを結成しているようにも見える。しかし、他の人たちも個性豊かだ。石川さんは、恬淡とした趣で本当に紳士である。足利事件の菅家利和さんは愛嬌のあるおじさんだ。しかし、ただ一人死刑囚の袴田巖さんは49年の獄中生活、死刑の執行におびえる毎日で精神疾患に。しかし『世界』に青柳雄介さんの連載「神を捨て、神になった男 確定死刑囚・袴田巖」を読むと、袴田さんは決して正気を失ってしまったわけではないことが分かる。警察も検察も裁判所も袴田さんの無実を見つけられなかった(警察・検察はむしろでっち上げた方がだが)から、袴田さんが3者や当時のメディアを裁いているのだ。このブログを書いている週にも袴田さんの再審開始の可否が出そうだ。よもや開始しないなどとはあり得ないが、名張毒ぶどう酒事件や恵庭OL殺人事件など再審の門さえ開かない事件は多い。その象徴的な事件の一つが狭山事件であろう。石川さんは再審請求をずっと続けているが、いまだに開かれていない。もう石川さんが出獄して14年になるというのにである。裁判所は再審請求者が死ぬのを待っているとしか思えない。飯塚事件では死刑確定からわずか2年で執行されており、遺族の再審請求も蹴られている。
「疑わしきは被告人の利益に」とか「99%疑わしくても100%でなければ無罪」といった言い回しがむなしく聞こえる。反対に、現在進行形のモリカケでは、登場人物が十分怪しいのに早い段階で「シロ」と決めつけ、収束させようとしている。「獄友」は、冤罪以外者の単に重いフィルムではない。なぜそれが生み出され、未だに再生産されているのかを考えるためのヒントであるのだ。それは、実際の監獄でなくても、社会全体が監獄と化す方向に見える現在の政治や社会に生きる者にきびしく問われている。桜井さんの明るさがその問いを共有しようと誘っているように見えてしまうのだ。