惑星探査機はやぶさ2が小惑星リュウグウの地表小片を取得したとかのニュースにはさっぱりその意義も分からないし、その過程も知らなかった。ましてやインドがアメリカやロシアなど宇宙開発先進国に先駆けて火星に到達していたことなど。
国策映画である。描かれるのは低予算で重要視されていなかった宇宙開発部門の技術者らの意気込みと工夫、チームワークで火星到達に成功する物語。インド映画といえばマサラムービーであるが、文脈のよく分からないダンスのシーンもあるけれどそうではない。もちろん技術者らの家族関係における葛藤や技術者同士のラブもあるがほんの付け足し。要諦は後発国インドで成し得た成功物語である。BRICsの一員として「次の」先進国として名をあげたインドは宇宙開発にも力を入れた。有名な数学教育のレベルの高いことはもちろん、知識層は普通に英語を話す。作品中も多分基本はヒンディー語なのだろうが、ときおり英語が混じり、ちゃんぽん語も聞こえる。
主人公の技術者らは貧困層が人口の80%以上を占めると言われるインドにおいてエリート、中間層より上であるのは明らかだ。開発を引っ張った女性の家は広く、子どもらも高等教育の生徒に見えるし、彼女自身車で通勤する。インドの通勤、交通機関の定番リキシャではない。チームの一員はいろいろ変わる彼との逢瀬を瀟洒なマンションで。他のメンバーの一人は夫が軍人で大怪我をしたので病院に駆けつけるが、夫は「看護師としてではなく君のしたい仕事をしてほしい」。出来過ぎ、女性の地位向上、民主主義を見せつけたいモディ政権の思惑があざとい。なにせ、映画のラストクレジットでモディの偉業とも紹介されるのであるから。映画ではチームの主要メンバーが女性で占められているが、実際、開発セクションは映画で描かれたような少人数ではなく大所帯で、女性比率が低くはなかったが、映画ほど高かったほどでもない。全てが実話をもとに膨らませたと言える。
とここまで本作の悪口ばかり書いたが、インド映画にヨーロッパ映画のような国家からの独立性や個人的合理主義を求めても野暮というものだろう。しかし、野暮であっても個人は大事にされなければならないし、科学者の独立性は担保されなければならないだろう。同時にインドが国家政策として自国の宇宙開発を映画で宣伝されることをおおいに利用して、その組織の独立性、情報開示性を示していることも伺えるし、映画側はそれを利用した。そういうメガネを通して見ると本作はまた違った様相を見せ、魅力も感じられる。モディ政権の大インド主義下でも描ける、制作できる映画はある。結果的にはインドの成功を喧伝するように見えても、そこにほのかに見える科学者、技術者の気概はある。そしてその気概は時の政治権力に利用されていていることを自覚していることを描くこともまた気概の一部になり得る。
反政府主義活動家として国内での著作発表が不自由とも伝えられるアルンダティ・ロイは、開発独裁、グローバリズム企業の横暴を鋭く告発してきた。宇宙開発という地上の戦争危機とはすぐには無縁と見える科学オタクの成功譚は、トランプの宇宙軍を引き合いに出すまでもなく、宇宙が覇権の現実的争訟の場であることを覆い隠すという希望の物語で終わってはならない。