近頃よく聞く言葉「レジリエンス」を描く作品である。しかし、もともと物理学の弾力性、復元性をさすこの語は、ホロコーストを生き延びた孤児の内面を追跡調査する過程で使用されたそうであるから、先祖返りしたと言えなくもない。その調査では孤児の中には、過去のトラウマから抜け出せない人と、トラウマを克服し、充実した生活を送っている人との双方が存在するとした。だからレジリエンスは復元力とともに、適応力、復活力と今日では訳されているのである。
ハンガリーが舞台とは珍しい。そして、ホロコーストではハンガリーのユダヤ人も56万人がナチス・ドイツの犠牲になったと言う。家族を奪われ自分一人だけが残されたクララも、クララが自分と同じ孤絶感を感じ、懐いていくアルドもそうであった。16歳のクララは両親と妹を喪っていたが、生きていると信じたい両親宛に手紙を書いている。一方、42歳のアルドは幸せだった時の家族写真を見ることができない。アルドが写真を見ることができない理由を知ったクララは、ますますアルドと過ごす時間を欲する。しかし、ソ連の支配下となりスターリニズムがひしひしと国をおおう時代の中、収容所帰りのアルドは監視され、クララとの関係も邪推される。再び強権政治の下、息苦しい時代が再来するのだった。
頭の回転が早く、饒舌なクララと静かで寡黙なアルド。対照的に見える二人がお互いに求めるものはもちろん異性間の性愛ではない。父を喪くしたクララと、娘二入を喪ったアルド。お互いにあったはずの穴を埋めるかのように、時間の共有を大事にする。家族を喪った理由に、自分を責めるサバイバーズギルトが伺える。しかし家族の命を奪ったのはナチス・ドイツで、その理由はユダヤ人であったからだけだ。理屈では分かっていても、自分を責めてしまい、その思いから逃れられない。クララもアルドもずっと喪失を生きるのだろうか。二人の内面を丁寧に描くことで、平々凡々に生きる現代の私たちに(戦時)トラウマへの想像力を喚起する。逝かされてしまった家族に対し「残された」人たち。「残される」とは生き残ったことであるのに、なぜか喜べず、今や社会主義へと国家が変転する中でも再び時代から「残される」。時代が、国家が、小さな個々人を翻弄する物語と言ってしまえば簡単だが、一人ひとりの物語こそ歴史を作ってきた。クララやアルドのトラウマに気づかず、見捨てる世界は、また同じ過ちを繰り返すだろう。
数年後スターリンの死を伝えるラジオ放送にクララの婚約者は歓喜する。これで自由が来ると。そこにはアルドの再婚相手もいる。二人ともレジリエンスに成功したのだろうか。しかし、その数年後ハンガリーの民衆は自由を求めて蜂起したが、瞬く間にソ連の戦車に踏み潰された(「ハンガリー動乱」、1956年)。ソ連崩壊によって民主化したはずのハンガリーでは、現在、オルバーン・ヴィクトルの強権政治にさらされている。オルバーンは反移民を唱え、独裁者のプーチンに接近し、国際協調主義のEU批判を繰り返す。21世紀のクララやアルドが生まれないために、そして、現在も何らかのトラウマを抱える人たちと伴走する社会でありたいと考えさせられる作品だ。