実はちょっと恥ずかしいが、映画を観終わったあとで、思い出した時に結構号泣涙してしまった作品がいくつかある。「非情城市」と「エレニの旅」。前者はいうまでもなく台湾が誇る候孝賢(ホウ・シャオシエン)の最高(と筆者が思う)傑作、後者はギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロスの抒情詩の名作である。「アマンダと僕」が3作目になってしまった。
シングルマザーである姉のサンドリーヌ、その子アマンダ7歳と平穏に付きっているダヴィッドは24歳。アパート管理の仕事で知り合った新しい入居者、地方出身のレナともいい感じだ。しかしレナを含め、友人らとピクニックに出かけたサンドリーヌは突然の凶弾に命を奪われる。レナもピアノ講師として大きなハンディを背負う怪我を負う。
残されたアマンダとダヴィッド。悲しむ暇もなく、アマンダの送り迎え、夜は家を空けられない生活に投げ込まれるダヴィッド。傷ついたレナは故郷に帰ってしまう。アマンダを養っていく後見人になるか、児童養護施設に入れるのか、重い選択を迫られるダヴィッド。サンドリーヌと自分が幼い頃に捨てた母親アリソンの住むロンドンに会いに行くダヴィッドとアマンダ。彼らのこの先は。本作の魅力はサンドリーヌを突然死なしめたテロリズムや、その加害者に対する怒りや怨嗟を一切描いていないところだ。パリ同時多発テロを経験した彼の地ではテロは恐ろしいほど身近なのかも知れない。しかし、近しい人を失った悲しみはテロリズムへの怒り、憎しみを超えるのだろう。
淡々とすすむアマンダとの日々。亡き父の妹モードの家に預けたりするが、フランスでは小学生は必ず送り迎えが必要で、ダヴィッドは遅れがちだ。でもアマンダも健気にしっかりとしている。ダヴィッドがサンドリーヌの歯ブラシを捨てると「なぜないの?元に戻しておいて!」と毅然と言い放つ。喪失感は簡単には消えないが、それを無理やり消そうとすると新たなスティグマが発生する。アマンダの指摘はそういった大人の合理性、せっかちな部分を指弾するもので、癒しは時間とともにあるとの紛うことなき真実を言いあてている。精神的なダメージを恢復させる癒しとは本来説明のできない回路を辿るものだろう。本作はダヴィッドの視線に立ちながら、アマンダを中心に、周囲の人の何気無い日常を丁寧に掬い取り、寄り添うかのような描き方が秀逸だ。それもこれも監督がたまたま見つけたというアマンダ役の映画初出演のイゾール・ミュルトリエが素晴らしいからだ。幼さと気丈さと成長する機微を丹念に演じているが、演じているとは思えない。
日本でも阪神大震災以降、度重なる地震、台風といった自然災害、人間の科学信仰、無謬信仰の象徴である福島第1原発事故、そして犯罪事件。しかし近しい人、親しい人を突然奪われる厄災の最たるものといえば戦争であろう。そして戦時体制下に反戦を理由に弾圧され権力に命を奪われた人たち。そういった戦争で奪われた命への補償や謝罪は時として無理やり忘れ去られ、無視され、時にそういった姿勢が強固な反発に遭う。反対に、犯罪被害者遺族は、周囲やマスメディアの要請により本人が感じている以上の許さない感情を求められる。これは逆説的だ。国家がなす大きな暴力には口封じられ、より小さな個人の暴力には復讐心を煽られる。しかし、残された者に何らかの癒しが必要なことは違わないだろう。
折しも京都アニメーションの放火事件で多くの命が奪われた。京アニによって、救われたという若い人が映し出されているが、遺族や彼ら彼女らとって、悲しみや痛みが犯人への憎悪より先に生まれる感情ではないだろうか。だから遺族や献花に訪れた人に犯人(とまだ刑事裁判的には確定したわけではない)への気持ちを聞いたり、亡くなった人がどれほど愛される仕事をしてきたかを過剰に喧伝することに違和感を感じてしまうのだ。
それほど知っている訳ではないが、日常のパリ風景もなんか懐かしい。日常を大切に生きる、それには色々な回路が必要だ。それが癒しというものかなと感じる作品だ。