kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

奈良「猿沢池と興福寺の五重塔」

2016年07月18日 | 大阪・滋賀・奈良 他
元興寺から美術研究会のバスに戻ると少し時間があったので
元興寺の北にある、懐かしい猿沢池と興福寺に向かいました。


五重塔が見えてきました。


左(北東から西南方向)に見える池が猿沢池です。

以前(小学校の遠足)に来たときは反対の方から水面に映る五重塔を見た思い出があります。その後にも一度来たことがありますが・・・(懐)


「猿沢池のこんなお話」が・・・あったのでね。
猿沢池の釆女と龍神伝説は、こちら でご覧ください。


五重塔まで行きたくて階段を上がって、振り返って見た「猿沢池です」。


興福寺の五重塔

天平2年(730)興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立。その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426)頃再建された日本で2番目に高い塔です。

********************************

僅かな時間でしたが猿沢池まで歩いたのには、もう一つの理由が・・・
現在の元興寺は、「奈良町」の一角に存在しておりますが天平時代
奈良町は元興寺の境内という広大な寺域を持つ大寺院でした。

敷地面積は約九萬六千八百平方メートル(約29333坪)という巨大寺院で
猿沢池の南側近くまであったそうです。世界遺産の元興寺ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界遺産・古都奈良の「元興寺(がんごうじ)」

2016年07月17日 | 大阪・滋賀・奈良 他
国立西洋美術館本館(東京都)「ル・コルビュジエの建築作品」の
世界文化遺産登録が決まりました。その記事はこちらでご覧ください。


世界遺産「元興寺」の東門(重要文化財)

「元興寺」は、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が
新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。


国宝「極楽堂」


法輪館

元興寺の収蔵庫で、国宝「五重小塔(奈良時代)や
重要文化財などが収蔵されています。
 

写真右:国宝「禅室」と、写真左:浮図田






北側から見た、国宝「極楽堂」

元興寺のホームページは、こちら でご覧ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県・日本最古の尼寺「旧斑鳩御所  中宮寺」

2016年07月10日 | 大阪・滋賀・奈良 他
法隆寺の東院鐘楼を東に曲がると中宮寺の門が見えました。


日本最古の尼寺・中宮寺は、聖徳太子が生母・穴穂部間人皇后
(あなほべはしひと こうごう)のために創建したといわれています。


天平時代の文書に「聖徳太子創建七ヶ寺」のひとつとの記載が残る太子ゆかりの中宮寺は、平安、鎌倉、室町の時代の流れのなかで幾度かの荒廃と再興を経験し、1602(慶長7)年、慈覚院宮を初代門跡に迎えました。以来、門跡尼寺として今日に至っています。(門跡とは、皇族や貴族が住職に就いた場合の呼称で格式の高い特定のお寺を門跡寺院と言います。)


中に入ると南側に入る門があります。(写真右横が東院伽藍です。)


現在の中宮寺は、法隆寺東院伽藍の隣にありますが、創建当時は現在地より500メートルほど東に位置し、金堂、塔を持つ立派な伽藍だったそうです。


本堂(昭和43年5月落慶。)

高松宮妃殿下の御発案で吉田五十八先生が設計されました。


本堂は池の上に建っています。


池といっても、水はありませんでしたが・・・

=======================================================

国宝「本尊菩薩 半思惟像(飛鳥時代・7世紀)」
半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な「国宝の半思惟像(はんかしゆいぞう)」は、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれています。

国宝「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」
日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」は、推古天皇三十年(622)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子薨去ののち、図像をつくって太子往生の姿をお偲びしたいと、宮中の采女に命じて、太子が往生なされている天寿国を刺繍したものです。
(本堂に安置されているものはレプリカで、実物は奈良国立博物館に寄託 。)

写真は駄目なので ホームページ でご覧ください。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県・法隆寺「東院伽藍 八角円堂の夢殿」

2016年07月08日 | 大阪・滋賀・奈良 他

東大門から東に向かうと、東院伽藍の八角堂の屋根が見えてきました。


東院伽藍の四脚門


四脚門(国重文・鎌倉時代)を入ると直ぐに廻廊があり


回廊(国重文・鎌倉時代)を入ると正面に「夢殿」があります。


「夢殿(ゆめどの)」国宝

聖徳太子一族の住居「斑鳩宮」の跡に、739年(天平11年)高僧の行信(ぎょうしん)僧都が聖徳太子の遺徳を偲んで斑鳩宮跡に飛鳥時代の形式で建立されました。

八角の殿堂として我が国最古の建物で、元は「仏殿」と呼ばれていましたが、平安時代頃から「夢殿」と呼ばれるようになり、秘仏の国宝「救世観音像」は八角円堂の中央の厨子に安置されています。


舎利殿(国重文・鎌倉時代)

舎利殿は、聖徳太子が2才の春に合掌された掌中から出現したという
舎利を安置する建物です。


東院鐘楼(国宝・鎌倉時代)

舎利殿の西にある門(鐘楼の左奥)から、中宮寺へと向かう道に位置するこの鐘楼は袴腰と呼ばれる形式の建物で、内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されており、中宮寺から移されたものといわれています。

この鐘は、古くから舎利殿の舎利を奉出するときや、東院伽藍で法要が営まれる時の合図として撞かれています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県・法隆寺「国宝 三棟造りの東大門」

2016年07月05日 | 大阪・滋賀・奈良 他

大宝蔵院から東大門に向かっています。


「東大門」国宝

西院と東院の間に位置し「中ノ門」とも呼ばれているそうです。


平安時代ごろに現在の場所に移されたといわれているこの門は
「三棟造り(みつむねづくり)」で、奈良時代を代表する建物の一つです。


「三棟造り」とは、門の前後に屋根があってその上に
大屋根を被せる形の建築構造が組まれたものです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良・法隆寺「綱封蔵→食堂→細殿→大宝蔵院」

2016年07月03日 | 大阪・滋賀・奈良 他
西院伽藍(東側の回廊)から、東にある大宝蔵院に向かいます。


ここが、大宝蔵院への入口です。


綱封蔵(こうふうぞう)国宝

聖霊院の東に建つ寺宝を保管する蔵(入口の右)で、平安時代初期に造られた、床が髙く北と南に分けた二倉で構成され中央部が空所になっています。法隆寺には、このような倉が三十三棟も建ち並んでいたといわれています。


国宝「食堂」奈良時代と、重要文化財「細殿」鎌倉時代


写真左
もとは政所という法隆寺の寺務所だったが、平安時代に入ってから僧が食事をする食堂(じきどう)として使われるようになりました。

写真右
食堂の南側にある細殿(ほそどの)
(軒を接して建っていることから「双堂」とよばれる奈良時代の建築様式。)


大宝蔵院

百済観音堂、東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)完成。


大宝蔵院の入口(ここからは撮影禁止です。)

●観音菩薩立像(百済観音)(国宝)
飛鳥時代、木造で細身で九頭身。「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期まで寺内では「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。

●観音菩薩立像(九面観音)(国宝)
唐から将来の像。香木を用い彩色を施さず白木で仕上げた檀像と呼ばれる像。

●観音菩薩立像(夢違観音)(国宝)
飛鳥時代後期(白鳳期)、銅造。もと東院絵殿の本尊。悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。

●玉虫厨子(国宝)
飛鳥時代。仏堂形の厨子である。建築様式的には法隆寺の西院伽藍よりやや古い時代を示し、飛鳥時代の建築で透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾したことからこの名がある。現在、玉虫の羽は一部に残るのみで、当初の華麗さを想像するのはむずかしい。厨子の扉や壁面の装飾画も著名で、釈迦の前世物語である「捨身飼虎図」(しゃしんしこず)や「施身聞偈図」(せしんもんげず)はよく知られています。

●阿弥陀三尊像及び厨子(橘夫人厨子)(国宝)
飛鳥時代後期(白鳳期)厨子内の阿弥陀三尊像は飛鳥時代後期(白鳳期)の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が表されています。

金堂に安置されていたものなどが、たくさんありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県・法隆寺の七不思議の一つ「3つの伏蔵(ふくぞう)」

2016年07月01日 | 大阪・滋賀・奈良 他
中門の左手に用意されている「西院伽藍」の入口に向かっていると
大湯屋の表門前(西大門の方向)に、しめ縄で囲まれた場所が見えました。


驚くことに、そこは法隆寺の七不思議の一つと言われるところでした!

法隆寺には、伏蔵(ふくぞう)という地下蔵が境内に3ヶ所あります。
聖徳太子の遺言で「建物の破損など大事の時以外は開けてはいけない」と
いう教えがあって、今まで誰も開けたことがないそうです。

でも「法隆寺の一大事!という時になったら開けても良い。」とも言われて
いるそうなので、石の蓋で覆われている場所にお宝が眠っているのかも・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県・日本最初の世界文化遺産「法隆寺・南大門→中門→五重塔→金堂→大講堂」

2016年06月30日 | 大阪・滋賀・奈良 他
日本最初の世界文化遺産「法隆寺(ほうりゅうじ)に行ってきました。奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院で、別名は斑鳩寺(いかるがでら)と呼ばれ、世界最古の木造建築物が残る聖徳太子建立のお寺で、日本最初の世界文化遺産です。(6月26日 )


法隆寺門前の松並木


「南大門(なんだいもん)」国宝

法隆寺の玄関にあたるこの門は、永享10年(1438)に再建されたもので、南大門の階段の下に魚の形をした石が地面に埋め込まれた「鯛石」があり、この鯛石から先のお寺の境内は地面が高くなっていて、大雨が降ってもこの石よりも境内には水が入らないように守っている石とも言われています。


「中門」国宝

中門は正面に見える筈なのですが、シートが被され修理中でした。日本最古(法隆寺創建当初のものではない)だと言われる金剛力士像や、白鳳建築の代表作とされる中央に壁を感じさせる珍しい柱も、残念ながら見ることはできませんでした。

西院伽藍へは左手から入るように用意されているので、中門は工事中に関わらず参拝客には開放されていないそうです。


「回廊」国宝

中門の左右から五重塔と金堂を囲むような回廊があり
ここは、中門の左から入った西側の回廊です。


国宝の「金堂」と「五重塔」

五重塔 国宝
木造塔として世界最古のもので、高く見せるように初重から上にいくほど屋根が小さくなっている、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分しかないそうです。

初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに、塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像が安置されています。この塑像に使用された粘土は近くの土で作られたといわれています。

面は「維摩経」(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨を分配)の場面、面は弥勒の浄土を表す。(北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像)


堂内は中の間、東の間、西の間に分かれていて
それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置されています。


二階の卍くずしの高欄(手すり)と、それを支える「人」字形の束(つか)。


「経蔵」 国宝
奈良時代の楼造(二階建)建築。*未公開


「大講堂」(平安時代の移築) 国宝
薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)が安置されています。


東側の回廊から見た、金堂と五重塔です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀県・三献の茶 「千成瓢箪デザインのマンホール蓋」

2016年03月01日 | 大阪・滋賀・奈良 他

JR長浜駅

長浜では、鯖街道を食べて盆梅展・黒壁ガラス館・まち歩き・大通寺・・・
そして琵琶湖湖畔を歩いてきて、桜の名所だと知りました。


豊臣秀吉と石田三成の出会いの像 (JR長浜駅前)

三成の心配りに感心した秀吉が、三成を召抱えることになった有名な「三献の茶」の二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたものです。

「三献の茶」とは、長浜市石田町生まれの三成が観音寺で修行をしていたときに、当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだした逸話です。


豊臣秀吉の馬印(千成瓢箪)がデザインされた角型マンホール蓋
他にも、丸形の千成瓢箪デザインのマンホール蓋がありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滋賀県・湖岸の歴史あるお城跡

2016年02月29日 | 大阪・滋賀・奈良 他


豊公園(ほうこうえん)は、江戸時代前期に廃城となった長浜城跡に
明治42年作られ、長浜城主だった豊臣秀吉にちなんで名付けられました。


戦国時代末期に豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は
江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されました。


真昼の月がきれいです。

その跡には僅かな石垣と井戸だけが残されていましたが
昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して復元され
いま内部は歴史博物館として公開されています。

私が行ったときは、リニューアル工事のため閉館されてましたが
「日本さくら名所100選」のお花見を前にして27日にオープンしています。


特にストレスは無かったけど、琵琶湖のこの景色を見て・・・
スカッとした気分になったのは何故でしょうね。?


犬を2匹連れてお散歩されている姿があります。
ここがお散歩道だなんて・・・毎日お散歩したくなりますね。


湖岸に「太閤井戸」の石碑があります。
この井戸は、昭和4年(1929年)に琵琶湖の渇水で発見されたそうです。


遠くから見ていて、あの黒いのは何・・・と思ってましたが
カモだったのですね、それもこんなに沢山のカモがいたのです。


太閤さんも、こんな素晴らしい景色を見てたのかな・・・。

==================== 湖 岸 の お 城 跡 ====================


「膳所城跡公園 ( ぜぜじょうあとこうえん)」
2008年12月


慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に勝ち天下の実権を握った徳川家康は
慶長6年(1601年)大津城を廃して瀬田の唐橋に近い膳所に城を築かせました。

築城に当たったのは城作りの名手とも言われた藤堂高虎で
家康の命で諸大名が作業に当たる天下普請で完成しました。

湖水に突き出す半島状の地形を利用して本丸と二の丸が置かれていました
大津城をこの地に移して築いた本丸は、琵琶湖に突き出た水城の構造でした。
ここも私の忘れられない、歴史に残る美しい湖岸のお城跡です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする