私のブログ(2019年06月17日)に投稿した記事があります。
それは「ピュリツァー賞」の報道写真で衝撃を受けた写真です。
●焼き場に立つ少年
(直立不動の姿勢で、おんぶした弟の火葬の順番を待つ。)
●ハゲワシと少女
(重篤な栄養失調の少女は少年で、救護により回復する。)
●ナパーム弾の少女
(やけどの少女と、救った元記者と38年ぶり再会する。)
●安全への逃避
(2人の母親と子供たちが、水のなかを歩いて逃げている姿。)
●世界貿易センターへのテロ攻撃・・・落ちてゆく男 などがあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ナパーム弾の少女の名前は「キムフック」さん
キムフックはこの空襲で重度の火傷を負い、一命は取りとめたものの、この後17回にも及ぶ手術を受けました。彼女を救った当時イギリス・ITNテレビ記者のクリストファー・ウェイン氏が南ベトナム政府の高官に直談判して、キムフックさんを設備の整っていない病院から、当時の旧サイゴン市内のバスキー病院に転院させることに尽力した。ウェインとキムフックは38年後の2010年に、イギリスで再会を果たしました。
1992年にキムフックさんは結婚して2児の母となり、ベトナム人の夫とともにカナダ国籍を取得。1997年11月10日、ユネスコ親善大使に任じられました。2004年10月22日には、世界各地の戦争・紛争に遭遇している子供たちを救済する活動が認められ、カナダ・トロントのヨーク大学から名誉法学博士号を授与されたそうです。
※ウィキペディアより抜粋させて頂きました。
幸せになっていたキムフックさんを知り良かった!と思いましたが
「焼き場に立つ少年」の写真を撮ったジョー・オダネル氏が
何度か日本に来て探したそうですが、分からなかったそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
でも、2022年7月10日(日) の記事に・・・!
原爆投下から2か月後に撮影された「焼き場に立つ少年」から
「あれは77年前のわたし」と、初めて男性が証言!
「おんぶされていた子ども、わたし生きとりました。」と
被爆当時、竹本さんは3歳。フィルムに写っている男の子が自分である。自分を背負っていたのは当時11歳だった竹本さんの兄の定男さんでした。
写真を撮ったジョー・オダネル氏が、何度か日本に来て探して分からなかったのですが、少年がお元気だったことが分かり良かったです!
その記事はこちらでご覧ください。 写真はお借りしました。
それは「ピュリツァー賞」の報道写真で衝撃を受けた写真です。
●焼き場に立つ少年
(直立不動の姿勢で、おんぶした弟の火葬の順番を待つ。)
●ハゲワシと少女
(重篤な栄養失調の少女は少年で、救護により回復する。)
●ナパーム弾の少女
(やけどの少女と、救った元記者と38年ぶり再会する。)
●安全への逃避
(2人の母親と子供たちが、水のなかを歩いて逃げている姿。)
●世界貿易センターへのテロ攻撃・・・落ちてゆく男 などがあります。
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ナパーム弾の少女の名前は「キムフック」さん
キムフックはこの空襲で重度の火傷を負い、一命は取りとめたものの、この後17回にも及ぶ手術を受けました。彼女を救った当時イギリス・ITNテレビ記者のクリストファー・ウェイン氏が南ベトナム政府の高官に直談判して、キムフックさんを設備の整っていない病院から、当時の旧サイゴン市内のバスキー病院に転院させることに尽力した。ウェインとキムフックは38年後の2010年に、イギリスで再会を果たしました。
1992年にキムフックさんは結婚して2児の母となり、ベトナム人の夫とともにカナダ国籍を取得。1997年11月10日、ユネスコ親善大使に任じられました。2004年10月22日には、世界各地の戦争・紛争に遭遇している子供たちを救済する活動が認められ、カナダ・トロントのヨーク大学から名誉法学博士号を授与されたそうです。
※ウィキペディアより抜粋させて頂きました。
幸せになっていたキムフックさんを知り良かった!と思いましたが
「焼き場に立つ少年」の写真を撮ったジョー・オダネル氏が
何度か日本に来て探したそうですが、分からなかったそうです。
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でも、2022年7月10日(日) の記事に・・・!
原爆投下から2か月後に撮影された「焼き場に立つ少年」から
「あれは77年前のわたし」と、初めて男性が証言!
「おんぶされていた子ども、わたし生きとりました。」と
被爆当時、竹本さんは3歳。フィルムに写っている男の子が自分である。自分を背負っていたのは当時11歳だった竹本さんの兄の定男さんでした。
写真を撮ったジョー・オダネル氏が、何度か日本に来て探して分からなかったのですが、少年がお元気だったことが分かり良かったです!
その記事はこちらでご覧ください。 写真はお借りしました。
当時3歳ということは広島の惨状の記憶はないでしょうが、
幸いにも生存できたとしても放射能のせいで差別があったのですね。
長崎のあの唇を噛みしめて弟を背負った少年、
想像するに両親が焼かれるのを見ているのではないでしょうか。
背中の弟も分かりませんよね。
もうすぐ長崎も原爆記念日を迎えます。
戦争で泣く目に遭うのは一般市民だということを肝に銘じておかないといけません。
「ピュリツァー賞」を見た時から
この人たちは、この後どうなったのか気になっていました。
そして、あの時のおんぶされていた子供が
お元気だったと知ってホッとしましたが
写真が自分だと分かっていても・・・
言えない差別があったのですね。
絶対に戦争を繰り返してはいけないです!
コメントありがとうございます。