金戒光明寺から真如堂へ向かう時に
伊勢寺で見た事がある石碑を見ました。
金戎光明寺の「亀趺(キフ)」 2020年11月18日
大きな亀の上に石碑が乗っています。
この大亀の台石が「亀趺」と呼ばれていることは
高槻市・伊勢寺で見た時に知りました。
亀が石碑を支えているのは・・・と思い調べると
これは亀ではありませんでした。
この亀のようなのは
中国の伝説上の生物「龍生九子(りゅうせいきゅうし)」の1頭「贔屓(贔屓)」でした。
龍には9頭の子供がおり、「贔屓」は龍のように頭に角があり背に甲羅を持ち、容姿が亀に似ていました。
贔屓は出来の悪い子で龍になれなかったが、重いものを支えることを好む特技があり、石碑の土台には最適だったことから「贔屓趺」が生まれたそうです。
高槻市・伊勢寺の「亀趺」 2010年12月より
高槻城主永井直清が厚く信仰して、慶安4(1651)年に「伊勢廟堂」 の右側に高さ2mの石碑に、林羅山の撰文595文字が刻まれた廟碑を亀の甲羅の上に建てて顕彰しました。
(石碑の表面は風化をうけ、殆ど判読出来ない状態になっていました。)
伊勢寺の名前は、伊勢姫の晩年の旧居であることに由来し
境内には、永禄年間 (1558~) に芥川と高槻の両城を兼領した戦国時代の武将 和田惟政のお墓もあります。(織田信長に重用され、摂津国高槻城主になる。)
追記 12月27日(日)
伊勢姫は、生涯独身で不犯だった勇将「上杉謙信(女性の仮説もあり)」が心底惚れた一人だけの女性です。
茨木市「総持寺の亀趺」
「山陰流庖丁式 五刀の鯉」と、節分会「火渡り神事」が
行われる「総持寺」にもありました。
※ 亀趺は中国の貴族階級の風習で、日本に入ってきたのは江戸時代です。
贔屓は、初め一所懸命努力して力を出す様子の事を指していたのですが
現在では「便宜を図る」という意味で使われるようになったそうです。
伊勢寺で見た事がある石碑を見ました。
金戎光明寺の「亀趺(キフ)」 2020年11月18日
大きな亀の上に石碑が乗っています。
この大亀の台石が「亀趺」と呼ばれていることは
高槻市・伊勢寺で見た時に知りました。
亀が石碑を支えているのは・・・と思い調べると
これは亀ではありませんでした。
この亀のようなのは
中国の伝説上の生物「龍生九子(りゅうせいきゅうし)」の1頭「贔屓(贔屓)」でした。
龍には9頭の子供がおり、「贔屓」は龍のように頭に角があり背に甲羅を持ち、容姿が亀に似ていました。
贔屓は出来の悪い子で龍になれなかったが、重いものを支えることを好む特技があり、石碑の土台には最適だったことから「贔屓趺」が生まれたそうです。
高槻市・伊勢寺の「亀趺」 2010年12月より
高槻城主永井直清が厚く信仰して、慶安4(1651)年に「伊勢廟堂」 の右側に高さ2mの石碑に、林羅山の撰文595文字が刻まれた廟碑を亀の甲羅の上に建てて顕彰しました。
(石碑の表面は風化をうけ、殆ど判読出来ない状態になっていました。)
伊勢寺の名前は、伊勢姫の晩年の旧居であることに由来し
境内には、永禄年間 (1558~) に芥川と高槻の両城を兼領した戦国時代の武将 和田惟政のお墓もあります。(織田信長に重用され、摂津国高槻城主になる。)
追記 12月27日(日)
伊勢姫は、生涯独身で不犯だった勇将「上杉謙信(女性の仮説もあり)」が心底惚れた一人だけの女性です。
茨木市「総持寺の亀趺」
「山陰流庖丁式 五刀の鯉」と、節分会「火渡り神事」が
行われる「総持寺」にもありました。
※ 亀趺は中国の貴族階級の風習で、日本に入ってきたのは江戸時代です。
贔屓は、初め一所懸命努力して力を出す様子の事を指していたのですが
現在では「便宜を図る」という意味で使われるようになったそうです。
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