旧奈良監獄を見学したあと、近鉄奈良駅で解散なのですが
帰るのには時間が早いこともあり
奈良まで来て、このまま帰るのは勿体ないので(^^ゞ
猿沢池を通って
以前から気になっていた「史跡 頭塔」に行ってきました。
特別公開期間中はガイドさんがおられるのですが
今日は、特別公開期間ではないので一人です。
「史跡 頭塔」は、土壇からなる非常に珍しい奈良時代の塔で
大正11年(1922年)3月8日付けで国の史跡に指定されています。
石仏22基が「頭塔石仏」の名称で、重要文化財に指定されています。
基壇は一辺32m、高さ1.2m。
上壇になるにしたがって3mずつ縮小しています。
最上壇は一辺6.2mで、高さは奇数壇で1.1mです。
偶数壇で0.6m、基壇裾から最上壇までは約10mの高さです。
見学小広場では、特別公開期間限定で
ガイドさんが「頭塔」の前で説明があるそうです。
「頭塔」の由来は
奈良時代、藤原広嗣のたたりで死んだ僧玄昉の頭を埋めた墓との
伝承があったためと言われてきましたが
正しくは、東大寺の僧実忠が国家安泰を祈って築いた土塔の跡だといわれ、土塔(どとう)がなまって(ずとう)とよばれるようになったと思われています。
頭塔の造営については
神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で二月堂修二会行法(お水取り)を創始した実忠が、東大寺別当の良弁の命により造った塔であるとされています。
奈良文化財研究所による1986年(昭和61年)からの発掘調査終了後
北半部は復元保存、南半部は発掘前の現状保存の形で残されています。
築造時の石仏「浮彫如来及両脇侍二侍者像」
方形の封土を3段に築き、その4面に石仏を配列したもので
現在浮き彫りの石仏が13個あり、奈良時代の数少ない石仏群でした。
「奈良 頭塔」のホームページとパンフレットを参考にしました。
※この頭塔に類似するのは、行基が関与した堺市の土塔があります。
帰るのには時間が早いこともあり
奈良まで来て、このまま帰るのは勿体ないので(^^ゞ
猿沢池を通って
以前から気になっていた「史跡 頭塔」に行ってきました。
特別公開期間中はガイドさんがおられるのですが
今日は、特別公開期間ではないので一人です。
「史跡 頭塔」は、土壇からなる非常に珍しい奈良時代の塔で
大正11年(1922年)3月8日付けで国の史跡に指定されています。
石仏22基が「頭塔石仏」の名称で、重要文化財に指定されています。
基壇は一辺32m、高さ1.2m。
上壇になるにしたがって3mずつ縮小しています。
最上壇は一辺6.2mで、高さは奇数壇で1.1mです。
偶数壇で0.6m、基壇裾から最上壇までは約10mの高さです。
見学小広場では、特別公開期間限定で
ガイドさんが「頭塔」の前で説明があるそうです。
「頭塔」の由来は
奈良時代、藤原広嗣のたたりで死んだ僧玄昉の頭を埋めた墓との
伝承があったためと言われてきましたが
正しくは、東大寺の僧実忠が国家安泰を祈って築いた土塔の跡だといわれ、土塔(どとう)がなまって(ずとう)とよばれるようになったと思われています。
頭塔の造営については
神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で二月堂修二会行法(お水取り)を創始した実忠が、東大寺別当の良弁の命により造った塔であるとされています。
奈良文化財研究所による1986年(昭和61年)からの発掘調査終了後
北半部は復元保存、南半部は発掘前の現状保存の形で残されています。
築造時の石仏「浮彫如来及両脇侍二侍者像」
方形の封土を3段に築き、その4面に石仏を配列したもので
現在浮き彫りの石仏が13個あり、奈良時代の数少ない石仏群でした。
「奈良 頭塔」のホームページとパンフレットを参考にしました。
※この頭塔に類似するのは、行基が関与した堺市の土塔があります。
計算機もないのに驚くほど正確に精密に造られて
いる物が多くて 本当にびっくりします。
kikoさんも 沢山写真を撮っていますね(笑)
つくづく「デジカメ、スマホが出来て良かった」と
思います。昔はフィルムでしたもんね(笑)
今は「後で消すのは簡単だから」と もう
遠慮なく撮れるのが 嬉しいです。
昔の人達は何もない時代に
どうして作られたのかと思いますね。
頭塔は、初め僧玄昉の頭を埋めたお墓だと思っていたので
ガイドさんが居られる、特別公開中でもなかったので
行くのを躊躇っていたのですが、一人で行ってきました。
私は文章力が無いので写真に助けられています。
行った所などのブログを見返した時に写真があると
その時のことを思いだすことが多いので・・・
後で見た時に分かるようにと思っています。
最近、カメラの調子が悪いので
買い替え時かと心配しています。(^^ゞ
コメントありがとうございます。