みんな大変や。
鬱病になった友達、会社を辞めた友達、会社が潰れてしまった友達、山のような重荷をかかえた友達、何年も単身赴任してる友達、離婚した友達、奥さんや両親を亡くした後輩、幼い子供さんを亡くした先輩・・・
きっと皆一度は、何もかも投げ出したいと思ったに違いない。でも皆必死で生きてる。各々が持てる荷物の重さはそれぞれ違う。だから、一概に誰かの状況は楽で、誰かの状況はしんどい、なんて話はそもそもおかしいのに、そこでちょっと休憩した人を「弱虫」と呼ぶ人がいる。まるで人生の敗北者のように。
必死で頑張って生きている人に敗北者なんておらんのに。そんなことを言う人はそれこそどうにかしてるのに。敗北者として弱虫と呼んだら、それは絶対に間違ってる。と、これは、「呼ぶほう」の人に対して言いたい。
一方、弱虫と呼ばれるほうの人に対して。
「弱虫そのもの」は誰の心にも必ず住んでるものやし、それは決して悪玉やない。弱虫が悪者になってしまうのは、ちょっと間違って、その弱虫が住んでいること自体が自分の弱さで、「負け」だと思ってしまった時。そうなると、それを追い出そうと、できるはずもない無理をしてしまうから、それに疲れて倒れてしまう。ものすごく頑張ったのに結局どうにかなってしまう人はこのタイプやと思う。
そしたら、弱虫が善玉になる時って?って話やけど、人の苦しみや悲しみをよく分かるように教えてくれる。たまに情けないこともしよるけど、そんな時は、勇気とは何かと教えてくれる。何より、「あんたは弱虫なんかやないよ」と言ってくれる。
つまり、弱虫は可愛がって上手に育ててやれば、一番大切な友達になってくれる時がくる。もし、人に弱虫と言われたら、逆に「うらやましいやろ」といってやれるくらい大事な存在になり得るのよ。
ある友達が言った。皆ほんとにどうにかなる寸前、紙一重の所で頑張ってる、と。どうにかなるか、留まれるか。その一重の差はこの傷つきやすい、小さな虫の育て方にかかってる。
そう考えると、自分の弱虫に名前でもつけたい気分になってくるな。せめて強そうな名前を、と考えてしまうのも、弱虫の粋なはからいなんかも知れんね。
鬱病になった友達、会社を辞めた友達、会社が潰れてしまった友達、山のような重荷をかかえた友達、何年も単身赴任してる友達、離婚した友達、奥さんや両親を亡くした後輩、幼い子供さんを亡くした先輩・・・
きっと皆一度は、何もかも投げ出したいと思ったに違いない。でも皆必死で生きてる。各々が持てる荷物の重さはそれぞれ違う。だから、一概に誰かの状況は楽で、誰かの状況はしんどい、なんて話はそもそもおかしいのに、そこでちょっと休憩した人を「弱虫」と呼ぶ人がいる。まるで人生の敗北者のように。
必死で頑張って生きている人に敗北者なんておらんのに。そんなことを言う人はそれこそどうにかしてるのに。敗北者として弱虫と呼んだら、それは絶対に間違ってる。と、これは、「呼ぶほう」の人に対して言いたい。
一方、弱虫と呼ばれるほうの人に対して。
「弱虫そのもの」は誰の心にも必ず住んでるものやし、それは決して悪玉やない。弱虫が悪者になってしまうのは、ちょっと間違って、その弱虫が住んでいること自体が自分の弱さで、「負け」だと思ってしまった時。そうなると、それを追い出そうと、できるはずもない無理をしてしまうから、それに疲れて倒れてしまう。ものすごく頑張ったのに結局どうにかなってしまう人はこのタイプやと思う。
そしたら、弱虫が善玉になる時って?って話やけど、人の苦しみや悲しみをよく分かるように教えてくれる。たまに情けないこともしよるけど、そんな時は、勇気とは何かと教えてくれる。何より、「あんたは弱虫なんかやないよ」と言ってくれる。
つまり、弱虫は可愛がって上手に育ててやれば、一番大切な友達になってくれる時がくる。もし、人に弱虫と言われたら、逆に「うらやましいやろ」といってやれるくらい大事な存在になり得るのよ。
ある友達が言った。皆ほんとにどうにかなる寸前、紙一重の所で頑張ってる、と。どうにかなるか、留まれるか。その一重の差はこの傷つきやすい、小さな虫の育て方にかかってる。
そう考えると、自分の弱虫に名前でもつけたい気分になってくるな。せめて強そうな名前を、と考えてしまうのも、弱虫の粋なはからいなんかも知れんね。