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コジキジゲン

キュウリ三本

2013-07-26 20:12:06 | 古事記字源
 今日の収穫はキュウリが三本・・・スゴイ、ッ、成長力・・・雨がショボショボ・・・「社会民主党」の組織がガタガタになったのは、かって、「自民党」と臆面も無く、その「信条」を曲げて「土井」と「村山」が「結託」した問題だろう・・・その後の「神戸地震」、5000人の犠牲者・・・アレが彼らの「行政力」だった・・・今回の、地震、津波、「原発事故」での「民主党政権下」での「行政指導力・外交指導力」の貧弱、貧困・・・汚染地域への現地住民の誘導、「村山・土井」以下・・・「民主党政権」との「連立」をキッパリと拒否し、その尻拭いをしてきた「瑞穂」のせいではないだろう。
 だが「信念・思想」をカタッても、現実的な「人間関係(義理と人情・脅しと懐柔)」が薄い「人間」が「他人」を動かせるか、ドウかは別問題である・・・そもそも「一般労働者」が「労働組合員」から「組合職」、そして会社側から引き抜かれて「管理職」になった途端に「プチブル根性丸出し」にして、その「職務」に励むようになる・・・「大陸中国の指導部には賄賂、収賄、特権」、「亜米利加合衆国の指導者には献金、見返り、ドリ-ム」、「自民党に利権配分と水戸黄門」・・・何時の時代でも、「給料の多寡」と「身分保障維持と昇進」に励むのが現実だ・・・「生活の安堵」は自分自身の「権利の枠外」から「与えられるモノ」であったし、「奪われるモノ」であった。今現在も「意識」は同じであろう・・・そして、職種は問わず、職種に「貴賤は無い」である。「自由選択」だからね・・・洗濯するにも着替えが無い、洗濯機が無い・・・それ以前に水が無い、電気が無い・・・ネコのエサが無い、食い物が無いって・・・ワケではないから、今現在のボクは・・・

 「労働」は「美徳」って、ダレのタメの「美徳」だったのか・・・昨夜の「クローズアップ現代」は「共感」、アンタの気持ちは「ヨォ~クわかる」、ってか・・・ワカッテも「立場」を忘れるなョなッ・・・他人に「ヨイしょ」されれば何時でもガンバル人々・・・いつの間にやら「労働者」の概念が「サラリーマン」に呑み込まれていった時代、名目の店長、次長、主任、係長、係長代理がワンサカ・・・「帝国日本軍隊組織」では「一兵卒」が「伍長」、「軍曹」になった時の「心情」である・・・「戦争」がなけれ「二等兵」でも喰いっぱグレはない。ボクの既に亡くなった伯父さんは北海道開拓入植者、貧農の次男、「軍隊生活が一番よかった」って云っていた。ビルマ戦線で終戦を迎えた最高階級は「軍曹」・・・

 一般労働者がガンバル時、「労働組合幹部」に引き抜かれたり、「会社管理職」になった時である・・・その「裏切り」の見返りは「一般労働者」への「懐柔工作員」、「オレもソウだった」・・・「アンタの気持ちはヨォ~クわかる」・・・

 今現在、それ以前に「働く場所が無い」・・・あっても、殆んどがテイのいい「ルンペン労働者」である・・・

 交通整理の「JDポリス」には賛成だけれどネッ・・・「職場内」での「理不尽」はどうなんだろう・・・

ーー↓土井

 ・・・以前にも書き込んだけれど参照全文は「ウイッキペデア」から・・・

 土井晩翠

 進学を阻まれたが、のち許されて

 第二高等中学校(東北大学の前身校の一つ)に入学

 吉野作造と交友

 1894年(明治二十七年)

 帝国大学英文科

 「帝国文学」編集、詩を発表

 卒業後、

 1898年(明治三十一年)

 カーライルの

 「英雄論」を翻訳出版

 1899年(明治32年)

 第一詩集

 「天地有情」刊行

 東京音楽学校(東京芸術大学)から

 中学唱歌用の歌詞を委嘱

 「荒城月」作詩

 楽曲に

 滝廉太郎の曲が採用

 1901年(明治三十四年)

 「荒城の月」として発表

ーー↓

 1902年(明治三十五年)八月

 晩翠が欧州遊学

 前年四月にライプツィヒ音楽院に留学した

 滝廉太郎が肺結核で

 帰国するため、

 ベルギーの

 アントワープから日本郵船の客船

 「若狭丸」に乗り

 イギリス・ロンドン郊外の

 ティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、

 晩翠は

 姉崎正治と共に

 滝と最初で最後の対面

 1924年(大正十三年)

 バイロン没後、百周年を期して

 「チャイルド・ハロウドの巡礼」翻訳刊行

 1934年(昭和九年)

 二高を定年退職

 名誉教授

 1941年(昭和十六年)

 戦陣訓の文体作成について

 島崎藤村

 佐藤惣之助とともに参画

 1952年(昭和二十七年)

 急性肺炎で死去

ーー↓ー

 妻子に次々と先立たれたことで

 心霊学に関心

 1946年(昭和二十一年)

 財団法人

 日本

 心霊科学協会設立、顧問

ーー↓

 1903年(明治三十六年)一月~四月

 フランス(フランス第三共和政)の

 ソルボンヌ大学で仏文学研究

 1904年(明治三十七年)十一月

 帰国

 1934年(昭和九年)

 三月

 第二高等学校を定年退官

 九月

 随筆集

 「雨の降る日は天気が悪い」刊行

 同本の序文に

 「つちいの姓をどいと改称する」と記録

 1937(昭和十二年)六月

 第七詩集

 「神風」刊行

 1945年(昭和二十年)七月十日

 仙台空襲で住居と蔵書約三万冊を失う

ーー

 ・・・彼の「ウタ」に煽られた?学生たちは「靖国」に定住した・・・

ーーーーー

 枕草子

 (九〇段)・・・九十段・九拾段・玖足段

         9+0=9=九=玖

         9×0=0=零

 さてその

 左衞門の

 陣に

 いきて後、

 里に

 出でて

 暫し

 あるに、

 「疾く

  參れ」

 など

 仰事の

 はしに、

 「左衞門の

  陣へ

  いきし

  朝

  ぼらけ

  なん、

  常に

  おぼし

  出でらるる。

  いかで

  さ

  つれなく

  うち

  ふりて

  あり

  し

  ならん。

  いみじく

  めでた

  からんと

  こそ

  思ひ

  たり

  しか」

 など

 仰せられたる

 御

 返事に、

 かしこまり

 の

 よし

 申して、

 「私には

  いかでか

  めでたし

  と

  思ひ

  侍ら

  ざらん。

  御前にも、

  さり

  とも、

  中なる

  をとめ

  とは

  おぼし

  めし

  御覽じ

  けん

  と

  なん

  思ひ

  給へし」と

 聞えさせたれば、

 たち

 歸り

 「いみじく

  思ふべ

  かめる

  なり。

  誰が

  おもて

  ぶせ

  なる

  事

  をば、

  いかでか

  啓し

  たる

  ぞ。

  ただ

  今

  宵の

  うちに

  萬の

  事を

  すてて

  參られよ。

  さらず

  ば

  いみじく

  にく

  ませ

  給はん

  と

  なん

  仰事

  ある」と

 あれば、

 よろし

 か

 らん

 にて

 だに

 ゆゆし。

 まして

 いみじく

 と

 ある

 文字には、

 命

 も

 さながら

 捨てて

 なん

 とて

 參り

 にき。

ーーーーー

 ・・・

コメント
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