今日の収穫はキュウリが三本・・・スゴイ、ッ、成長力・・・雨がショボショボ・・・「社会民主党」の組織がガタガタになったのは、かって、「自民党」と臆面も無く、その「信条」を曲げて「土井」と「村山」が「結託」した問題だろう・・・その後の「神戸地震」、5000人の犠牲者・・・アレが彼らの「行政力」だった・・・今回の、地震、津波、「原発事故」での「民主党政権下」での「行政指導力・外交指導力」の貧弱、貧困・・・汚染地域への現地住民の誘導、「村山・土井」以下・・・「民主党政権」との「連立」をキッパリと拒否し、その尻拭いをしてきた「瑞穂」のせいではないだろう。
だが「信念・思想」をカタッても、現実的な「人間関係(義理と人情・脅しと懐柔)」が薄い「人間」が「他人」を動かせるか、ドウかは別問題である・・・そもそも「一般労働者」が「労働組合員」から「組合職」、そして会社側から引き抜かれて「管理職」になった途端に「プチブル根性丸出し」にして、その「職務」に励むようになる・・・「大陸中国の指導部には賄賂、収賄、特権」、「亜米利加合衆国の指導者には献金、見返り、ドリ-ム」、「自民党に利権配分と水戸黄門」・・・何時の時代でも、「給料の多寡」と「身分保障維持と昇進」に励むのが現実だ・・・「生活の安堵」は自分自身の「権利の枠外」から「与えられるモノ」であったし、「奪われるモノ」であった。今現在も「意識」は同じであろう・・・そして、職種は問わず、職種に「貴賤は無い」である。「自由選択」だからね・・・洗濯するにも着替えが無い、洗濯機が無い・・・それ以前に水が無い、電気が無い・・・ネコのエサが無い、食い物が無いって・・・ワケではないから、今現在のボクは・・・
「労働」は「美徳」って、ダレのタメの「美徳」だったのか・・・昨夜の「クローズアップ現代」は「共感」、アンタの気持ちは「ヨォ~クわかる」、ってか・・・ワカッテも「立場」を忘れるなョなッ・・・他人に「ヨイしょ」されれば何時でもガンバル人々・・・いつの間にやら「労働者」の概念が「サラリーマン」に呑み込まれていった時代、名目の店長、次長、主任、係長、係長代理がワンサカ・・・「帝国日本軍隊組織」では「一兵卒」が「伍長」、「軍曹」になった時の「心情」である・・・「戦争」がなけれ「二等兵」でも喰いっぱグレはない。ボクの既に亡くなった伯父さんは北海道開拓入植者、貧農の次男、「軍隊生活が一番よかった」って云っていた。ビルマ戦線で終戦を迎えた最高階級は「軍曹」・・・
一般労働者がガンバル時、「労働組合幹部」に引き抜かれたり、「会社管理職」になった時である・・・その「裏切り」の見返りは「一般労働者」への「懐柔工作員」、「オレもソウだった」・・・「アンタの気持ちはヨォ~クわかる」・・・
今現在、それ以前に「働く場所が無い」・・・あっても、殆んどがテイのいい「ルンペン労働者」である・・・
交通整理の「JDポリス」には賛成だけれどネッ・・・「職場内」での「理不尽」はどうなんだろう・・・
ーー↓土井
・・・以前にも書き込んだけれど参照全文は「ウイッキペデア」から・・・
土井晩翠
進学を阻まれたが、のち許されて
第二高等中学校(東北大学の前身校の一つ)に入学
吉野作造と交友
1894年(明治二十七年)
帝国大学英文科
「帝国文学」編集、詩を発表
卒業後、
1898年(明治三十一年)
カーライルの
「英雄論」を翻訳出版
1899年(明治32年)
第一詩集
「天地有情」刊行
東京音楽学校(東京芸術大学)から
中学唱歌用の歌詞を委嘱
「荒城月」作詩
楽曲に
滝廉太郎の曲が採用
1901年(明治三十四年)
「荒城の月」として発表
ーー↓
1902年(明治三十五年)八月
晩翠が欧州遊学
前年四月にライプツィヒ音楽院に留学した
滝廉太郎が肺結核で
帰国するため、
ベルギーの
アントワープから日本郵船の客船
「若狭丸」に乗り
イギリス・ロンドン郊外の
ティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、
晩翠は
姉崎正治と共に
滝と最初で最後の対面
1924年(大正十三年)
バイロン没後、百周年を期して
「チャイルド・ハロウドの巡礼」翻訳刊行
1934年(昭和九年)
二高を定年退職
名誉教授
1941年(昭和十六年)
戦陣訓の文体作成について
島崎藤村
佐藤惣之助とともに参画
1952年(昭和二十七年)
急性肺炎で死去
ーー↓ー
妻子に次々と先立たれたことで
心霊学に関心
1946年(昭和二十一年)
財団法人
日本
心霊科学協会設立、顧問
ーー↓
1903年(明治三十六年)一月~四月
フランス(フランス第三共和政)の
ソルボンヌ大学で仏文学研究
1904年(明治三十七年)十一月
帰国
1934年(昭和九年)
三月
第二高等学校を定年退官
九月
随筆集
「雨の降る日は天気が悪い」刊行
同本の序文に
「つちいの姓をどいと改称する」と記録
1937(昭和十二年)六月
第七詩集
「神風」刊行
1945年(昭和二十年)七月十日
仙台空襲で住居と蔵書約三万冊を失う
ーー
・・・彼の「ウタ」に煽られた?学生たちは「靖国」に定住した・・・
ーーーーー
枕草子
(九〇段)・・・九十段・九拾段・玖足段
9+0=9=九=玖
9×0=0=零
さてその
左衞門の
陣に
いきて後、
里に
出でて
暫し
あるに、
「疾く
參れ」
など
仰事の
はしに、
「左衞門の
陣へ
いきし
朝
ぼらけ
なん、
常に
おぼし
出でらるる。
いかで
さ
つれなく
うち
ふりて
あり
し
ならん。
いみじく
めでた
からんと
こそ
思ひ
たり
しか」
など
仰せられたる
御
返事に、
かしこまり
の
よし
申して、
「私には
いかでか
めでたし
と
思ひ
侍ら
ざらん。
御前にも、
さり
とも、
中なる
をとめ
とは
おぼし
めし
御覽じ
けん
と
なん
思ひ
給へし」と
聞えさせたれば、
たち
歸り
「いみじく
思ふべ
かめる
なり。
誰が
おもて
ぶせ
なる
事
をば、
いかでか
啓し
たる
ぞ。
ただ
今
宵の
うちに
萬の
事を
すてて
參られよ。
さらず
ば
いみじく
にく
ませ
給はん
と
なん
仰事
ある」と
あれば、
よろし
か
らん
にて
だに
ゆゆし。
まして
いみじく
と
ある
文字には、
命
も
さながら
捨てて
なん
とて
參り
にき。
ーーーーー
・・・
だが「信念・思想」をカタッても、現実的な「人間関係(義理と人情・脅しと懐柔)」が薄い「人間」が「他人」を動かせるか、ドウかは別問題である・・・そもそも「一般労働者」が「労働組合員」から「組合職」、そして会社側から引き抜かれて「管理職」になった途端に「プチブル根性丸出し」にして、その「職務」に励むようになる・・・「大陸中国の指導部には賄賂、収賄、特権」、「亜米利加合衆国の指導者には献金、見返り、ドリ-ム」、「自民党に利権配分と水戸黄門」・・・何時の時代でも、「給料の多寡」と「身分保障維持と昇進」に励むのが現実だ・・・「生活の安堵」は自分自身の「権利の枠外」から「与えられるモノ」であったし、「奪われるモノ」であった。今現在も「意識」は同じであろう・・・そして、職種は問わず、職種に「貴賤は無い」である。「自由選択」だからね・・・洗濯するにも着替えが無い、洗濯機が無い・・・それ以前に水が無い、電気が無い・・・ネコのエサが無い、食い物が無いって・・・ワケではないから、今現在のボクは・・・
「労働」は「美徳」って、ダレのタメの「美徳」だったのか・・・昨夜の「クローズアップ現代」は「共感」、アンタの気持ちは「ヨォ~クわかる」、ってか・・・ワカッテも「立場」を忘れるなョなッ・・・他人に「ヨイしょ」されれば何時でもガンバル人々・・・いつの間にやら「労働者」の概念が「サラリーマン」に呑み込まれていった時代、名目の店長、次長、主任、係長、係長代理がワンサカ・・・「帝国日本軍隊組織」では「一兵卒」が「伍長」、「軍曹」になった時の「心情」である・・・「戦争」がなけれ「二等兵」でも喰いっぱグレはない。ボクの既に亡くなった伯父さんは北海道開拓入植者、貧農の次男、「軍隊生活が一番よかった」って云っていた。ビルマ戦線で終戦を迎えた最高階級は「軍曹」・・・
一般労働者がガンバル時、「労働組合幹部」に引き抜かれたり、「会社管理職」になった時である・・・その「裏切り」の見返りは「一般労働者」への「懐柔工作員」、「オレもソウだった」・・・「アンタの気持ちはヨォ~クわかる」・・・
今現在、それ以前に「働く場所が無い」・・・あっても、殆んどがテイのいい「ルンペン労働者」である・・・
交通整理の「JDポリス」には賛成だけれどネッ・・・「職場内」での「理不尽」はどうなんだろう・・・
ーー↓土井
・・・以前にも書き込んだけれど参照全文は「ウイッキペデア」から・・・
土井晩翠
進学を阻まれたが、のち許されて
第二高等中学校(東北大学の前身校の一つ)に入学
吉野作造と交友
1894年(明治二十七年)
帝国大学英文科
「帝国文学」編集、詩を発表
卒業後、
1898年(明治三十一年)
カーライルの
「英雄論」を翻訳出版
1899年(明治32年)
第一詩集
「天地有情」刊行
東京音楽学校(東京芸術大学)から
中学唱歌用の歌詞を委嘱
「荒城月」作詩
楽曲に
滝廉太郎の曲が採用
1901年(明治三十四年)
「荒城の月」として発表
ーー↓
1902年(明治三十五年)八月
晩翠が欧州遊学
前年四月にライプツィヒ音楽院に留学した
滝廉太郎が肺結核で
帰国するため、
ベルギーの
アントワープから日本郵船の客船
「若狭丸」に乗り
イギリス・ロンドン郊外の
ティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、
晩翠は
姉崎正治と共に
滝と最初で最後の対面
1924年(大正十三年)
バイロン没後、百周年を期して
「チャイルド・ハロウドの巡礼」翻訳刊行
1934年(昭和九年)
二高を定年退職
名誉教授
1941年(昭和十六年)
戦陣訓の文体作成について
島崎藤村
佐藤惣之助とともに参画
1952年(昭和二十七年)
急性肺炎で死去
ーー↓ー
妻子に次々と先立たれたことで
心霊学に関心
1946年(昭和二十一年)
財団法人
日本
心霊科学協会設立、顧問
ーー↓
1903年(明治三十六年)一月~四月
フランス(フランス第三共和政)の
ソルボンヌ大学で仏文学研究
1904年(明治三十七年)十一月
帰国
1934年(昭和九年)
三月
第二高等学校を定年退官
九月
随筆集
「雨の降る日は天気が悪い」刊行
同本の序文に
「つちいの姓をどいと改称する」と記録
1937(昭和十二年)六月
第七詩集
「神風」刊行
1945年(昭和二十年)七月十日
仙台空襲で住居と蔵書約三万冊を失う
ーー
・・・彼の「ウタ」に煽られた?学生たちは「靖国」に定住した・・・
ーーーーー
枕草子
(九〇段)・・・九十段・九拾段・玖足段
9+0=9=九=玖
9×0=0=零
さてその
左衞門の
陣に
いきて後、
里に
出でて
暫し
あるに、
「疾く
參れ」
など
仰事の
はしに、
「左衞門の
陣へ
いきし
朝
ぼらけ
なん、
常に
おぼし
出でらるる。
いかで
さ
つれなく
うち
ふりて
あり
し
ならん。
いみじく
めでた
からんと
こそ
思ひ
たり
しか」
など
仰せられたる
御
返事に、
かしこまり
の
よし
申して、
「私には
いかでか
めでたし
と
思ひ
侍ら
ざらん。
御前にも、
さり
とも、
中なる
をとめ
とは
おぼし
めし
御覽じ
けん
と
なん
思ひ
給へし」と
聞えさせたれば、
たち
歸り
「いみじく
思ふべ
かめる
なり。
誰が
おもて
ぶせ
なる
事
をば、
いかでか
啓し
たる
ぞ。
ただ
今
宵の
うちに
萬の
事を
すてて
參られよ。
さらず
ば
いみじく
にく
ませ
給はん
と
なん
仰事
ある」と
あれば、
よろし
か
らん
にて
だに
ゆゆし。
まして
いみじく
と
ある
文字には、
命
も
さながら
捨てて
なん
とて
參り
にき。
ーーーーー
・・・