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コジキジゲン

伝伝虫蟲無視無私蒸

2013-07-25 23:16:42 | 古事記字源
 「つみ深きヒト(己・私・ム)」と思わぬヒトは、この「現世」で救われるのであろう・・・「つみ深きヒト(己・私・ム)」と思うヒトは、この「現世」で救われないのであろう・・・「でんでんムシムシ、かたつむり」は童謡・・・「かたつむり」に「でんでんむしむし かたつむり おまえのせなかはどこにある つのだせ やりだせ あたまだせ」・・・「伝伝虫虫(無視・無私)蝸牛(過誤)、御前(音全)の施名掛葉、何処爾亜留、通之(通史)拿施、埜(記紀位置拾異知)理拿施、亜(海士音詞)多真(球・多摩・魂・霊)拿施」・・・?・・・1911年( 明治四十四年)に「尋常小学唱歌」上に掲載された日本の童謡・唱歌・・・
ーー↓ー

 陸に住む

 巻貝の一種

 「かたつむり」=「蝸牛(かぎゅう)」

 「でんでんむし」の愛称

 一

 でんでん

 むしむし

 かたつむり

 お前の

 あたまは

 どこにある

 つの出せ

 やり出せ

 あたま出せ

 二

 でんでん

 むしむし

 かたつむり

 お前の

 めだまは

 どこにある

 つの出せ

 やり出せ

 めだま出せ

ー↓?

 でんでんむしむし

 かたつむり

 おまえのせなかは

 どこにある

 つのだせ

 やりだせ

 あたまだせ

ーー↓?

 古くから伝わる・・・?

 「でんでんむしむし、つのだせ、やりだせ~」

 というわらべ唄を下敷きにしたと思われる作品

 1911(明治四十四)年、

 『尋常小学校唱歌(一)』に発表

 作詞は、「早春賦」などを作り、

 後の童謡運動の先駆者の一人として知られる

 吉丸一昌(よしまる・かずまさ)

 尋常小学唱歌編さん委員

 (1873~1916)

 の作品ではないかとの研究が進められている・・・

 吉丸一昌

 よしまる・かずまさ

 「かたつむり」の作詞家?

 大分県出身

 明治六年(1873年)九月十五日生

 大正五年(1916年)三月七日没

 「蛍狩り」、

 「早春賦」、

 「故郷を離るる歌」などの

 作品(作詞)で知られる

 国文学者

 東京帝国大学を卒業ののち、

 明治四十一年に

 東京音楽学校教授

 『尋常小学校唱歌』(全六冊)の

 編纂委員(作詞)

 芳賀矢一(作詞委員長)

 上田万年、

 高野辰之、

 佐佐木信綱らとともに

 日本の唱歌成立に携わった

 中心的人物の一人

 『尋常小学唱歌』に収められた

 「桃太郎」や「池の鯉」

 「かたつむり」も

 吉丸の作品ではないかと言われている・・・

 豊後国

 北海部郡(臼杵市)出身

ーー↓

 一、

  でんでん蟲蟲かたつむり、

  お前のあたまはどこにある。

   角だせ、槍だせ、

   あたま出せ。

 二、

  でんでん蟲蟲かたつむり、

  お前のめだまはどこにある。

   角だせ、槍だせ、

   めだま出せ。

ーー↓

 1940年(明治四十三年)の

 「尋常小学読本唱歌」から

 1944年(昭和十九年)の

 「高等科音楽一」までの教科書に

 掲載された楽曲

 1910年代から

 尋常小学校で教えられた

 1900年代までの

 翻訳唱歌は

 「文部省唱歌」に含まれない

ーー↓

 「尋常小学読本唱歌」

 学年別に振り分けた

 「尋常小学唱歌」に収録された

 唱歌(全120曲)は、

 全て

 日本人による

 新作

 当時、

 文部省は

 作詞者・作曲者に

 高額な報酬を払い、

 名は一切出さず

 また

 作者本人も

 口外しないという

 契約を交わした

ーー↓

 『尋常小学読本唱歌』

 (1910年)

 『尋常小学唱歌(第一学年用~第六学年用)』

 (1911年~1914年)

 『高等小学唱歌』

 (1930年)

 『新訂尋常小学唱歌(第一学年用~第六学年用)』

 (1932年)

 『新訂高等小学唱歌

  (男子用・女子用)

 (第一学年用~第三学年用)』

 (1935年)

 『ウタノホン(うたのほん)上、下』

 (国民学校初等科1、2年生)

 (1941年)

 『初等科音楽(一~四)』

 (国民学校初等科(三~六年生))

 (1942年~1943年まで)

 『高等科音楽一(男子用・女子用)』

 (1944年)

ーー↓

 かたつむり(唱歌)

 作詞作曲不詳、

 「尋常小学唱歌」

 明治四十四年

 (1911年)発表

 昭和七年発行

 『新訂尋常小学唱歌(第一学年用)』

ーー↓

 一

 でんでん虫々 かたつむり

 お前の頭は どこにある

 角だせ槍(やり)だせ 頭だせ

 二

 でんでん虫々 かたつむり

 お前の目玉は どこにある

 角だせ槍だせ 目玉出せ

 ・・・ドコへいってしまったんだろう「背中」・・・

 でんでんむしむし

 かたつむり

 おまえの

 せなかはどこにある

 つのだせ

 やりだせ

 あたまだせ

 ・・・「妹背(いもせ)」・・・「妹背牛(もせうし)」・・・蝦夷(えぞ・カイ)・・・ウシガエル(牛蛙=牛蝦?・赤蛙・大蛙・蝦蟇蛙)は「日本に大正六年・1918年に、東京帝国大学教授、動物学者の渡瀬庄三郎が食用としてアメリカ合衆国(ルイジアナ州ニューオリンズ)から十数匹を導入した」モノらしい・・・蝸牛(カギュウ・ケギュウ)・・・「蝸」は訓読みで「にし・にな」、音読みで「カ・ケ」・・・

ーー↓ー

 「蝸牛」

 かたつむり

 内耳の一部

 カタツムリの

 殻状をした

 聴覚に

 たずさわる器官

 基底膜などによって

 三つに仕切られ、

 人間で

 二回転半ほど巻き、

 中は

 内リンパで

 満たされている

 底部は

 内耳道に面し、

 伝わってきた音を受ける

 神経の終末が分布する

 渦巻き管・蝸牛殻

 ・・・音声、音波をキャッチする器官・・・

ーー↓

 蝸牛(かぎゅう・cochlea)

 蝸牛管は生物では

 「うずまき(渦巻)管(cochlear duct)」と呼ばれる

ーー↓

 白居易

 白楽天

 (772年・大暦七年~846年・会昌六年)

 中唐詩人・字は楽天・号は酔吟先生・香山居士

 弟は「白行簡」・・・曰く、行の間

 蝸牛角上爭何事・・・過誤各条総難字

 石火光中寄此身・・・赤化項中記私心

 隨富隨貧且歓楽・・・隋附隋頻書巻絡

 不開口笑是癡人・・・付会考証是疑訊

  ↓

 蝸牛(かぎゅう)の角の上に

 何事をか争ふ

 石火光中此身を寄す

 ・・・日本には白居易存命中の承和十一年(844年)に、平安時代の留学僧恵萼により六十七巻本の「白氏文集」が伝来・・・

 幸田露伴(別号・蝸牛庵)の忌日

 七月三十日

ーーーーー

 枕草子

 (八九段)・・・八十九段・八拾九段・捌足玖段

         8+9=17=十七=壱拾七=足漆

         8×9=72=七十二=漆足弐(仁)

 物の・・・物体の・対象物の

 あはれ・・亜葉例

 知らせ・・知ったかぶり

 がほ・・・我保

 (が・・・臥

  ほ)・・保

 なる・・・名留

 もの

 鼻・・・・葉名

 たる・・・多留・他留・足

 まも・・・間も・真摸

 なく、・・名句

 かみて・・可見出・加味出・神出・上出

 もの

 いふ・・・委付・畏怖・移付・意附・異附

 聲。・・・音声

      声=こえ・セイ

        士+尸+|(コン・棍棒)

         「|」の書き順↓↑で

          (↓しりぞく・↑すすむ)

      士(十一)の屍を越えて進退する

          巴→ともえの曲がった尻尾

          巳+|←尸+1

几=つくえ・ひじかけ・キ

又=て・みぎうで・ユウ・ウ

耳=みみ・ジ

 まゆ・・・眉・繭・真由

      真喩

      真鍮=黄銅(brass)は、

      「銅(Cu)」と「亜鉛(Zn)」 の

      「合金」

       亜鉛が20%以上のものをいう

       真鍮→真喩・真諭

       横道・混同・阿延→合筋・劫筋

           ↓

          信瑜・賢瑜

      「現存古事記(真福寺本)」

      「信瑜」の

       弟子の

      「賢瑜」による写本

      本居宣長

      全四十四巻の

      註釈書「古事記傳」は

      「賢瑜」の「古事記」を

      下敷きにした研究

 ぬく・・・貫く・抜く

 も。・・・模

ーーーーー

 ・・・「カエルのウタ」・・・「作詞・岡本敏明(おかもと としあき)」、「明治四十年(1907年)三月十九日~ 昭和五十二年(1977年)十月二十一日」、宮崎で生まれる・・・戦前「玉川学園教師」・・・「ドイツ童謡音楽」・・・

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挽歌・蕃茄・胡瓜←究理←窮理

2013-07-24 23:19:58 | 古事記字源
 雑草も毟り取り、水もやった昨日・・・発見出来なかったのに・・・今日は胡瓜が四本、を発見。しかも長さは25センチ前後、太さは6センチ未満・・・は、ある。ミニトマトは赤く色づいていたのが6ヶ・・・キュウリ、ナゼ、昨日は発見出来なかったのだろう・・・急激に生長したとしか思えん・・・兎に角、捥ぎとって、試食してみた。粒粒の棘は無く、皮が張っていて結構かたい・・・ミニトマトも昔、子供のころに食べた味である。皮も張って食感もイイ。早速、お袋の処へ細かく切って持参し、食べてもらった・・・お袋の歯はまだ左の方に上下数本ある・・・モグモグと食べてくれたが、旨いのかドウなのかのコトバの反応はない・・・
 北海道の地名に「苫小牧(とまこまい)」があるが、「きゅうり(胡瓜)」に類似する「音」の地名はない・・・「蕃茄(バンカ)」はどうか?・・・「挽歌(バンカ)」は1955年(昭三十年)六月から翌1956年(昭31年)七月まで北海道釧路で発行の「ガリ版刷りでワラ半紙」を綴じた同人誌「北海文学」に十回にわたり連載された「原田康子(はらだ やすこ・1928年1月12日~2009年10月20日)」の、約800枚の長編小説であった・・・

ーー↓原田康子

 父留五郎、母テツ、四女二男の長女として東京中野に生まれ、二歳の時に北海道釧路市川上町に移住。家は製材所を営んでいた。

ーー↓

 ボクはお袋の本棚にあった彼女の「挽歌」を中学校一、二年生の時に読んだのだが・・・「挽歌、輓歌とは中国で葬送の時、柩(ひつぎ)を挽(ひ)く者が歌った歌、人の死を悼む詩歌、挽詩、哀悼(あいとう)歌である・・・

 ・・・それにしても「おばさん」に失礼だけれども・・・アマリにも都合のイイ「生死没の年月日」ではある?・・・1928年・昭和三年・戊辰年・・・「張作霖爆殺事件」・・・2009年・平成二十一年・己丑年・・・1月20日黒人、バラク・オバマ(Barack Hussein Obama, Jr)、第44代アメリカ合衆国大統領に就任・・・「オバマ(Obama)」、ルオ族の「ドルオ語(Dholuo)」で「Obam」・・・「曲がった」という意味であるらしい・・・「曲=よこしま・ヨコシマ」・・・

 「バラク(Barack)=祝福」

 「フセイン(Hussein)=美」

 「オバマ(Obama)=曲がった」・・・?

ーー↓

 「苫=篷」は、「菅(すげ)」や「茅(かや)」などを粗く編んだ「筵(むしろ・莚・蓆」で、「和船」や「家屋」を覆って「雨露」をしのぐのに用いるモノ・・・であるらしい・・・「寧ろ(むしろ)」は、比較の、「それよりは・・・である」のコトバである・・・アイヌ語の「沼の奥にある川」を意味する「トマコマナイ」( to mak oma nay ) 、「マコマイ」川の旧河道・河口を指し示す「トゥマコマイtu-makomai(元の・マコマイ川の河口、河道)」の由来があるらしい・・・「苫」は「茅(かや)」であった・・・そして「茅(かや)」は「葺(萱・かや)」で、「蚊帳」で「中はム(ヨコシマ)の文の帳(巾+長→キン+長)」で、「金鳥、蚊取り線香」である・・・しかも、「苫」は「艸(サ・廾・++)→丱」+「占(ト+口)」である・・・

ーーー↓

 「天津日高日子番能邇邇藝命」

   ↓

 「天津日高之御子、虛空津日高」

   ↓

 「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」

   ↓

 「若御毛沼命、亦名、豐御毛沼命、亦名、倭伊波禮毘古命」

ーー

 1873年(明治六年)二月

 「苫細」と漢字表記

 それまでは「カタカナ表記」

 東京都八王子市からの移住者が多かった

 1874年(明治七年)八月二十日

 字名を「苫細」から「苫小牧」に改めた

 「枚(まい)」とするところを

 「牧(まき)」にしたのは

 当時の「役人」の「誤記」とあるが・・・?・・・

 「役人」の「意図的なモノ」と思うのがボクです・・・開拓使東京出張所庶務課の「小牧昌業」が自分の名前の「牧(まき)」を「地名の漢字」としたのは「記念」だったのか?・・・それとも「巻・真紀・蒔・薪」の同音漢字を示唆したのか?・・・この「細(こま・糸+田)かな事件」は「明治七年(1874年)八月二十日」である。「牧=牛+攵」を使いたかった、のだ・・・?・・・

ーー↓とまと・・・ブログ記事からの抜粋

 「唐柿(からがき・トウシ)」

        「柿」の類字に

        「杮落(こけら-おとし)」の

        「杮(ハイ・柾=まさ・柾目の欠片)」

 1708年

 「大和本草・貝原益軒」に「唐柿」と記録

 漢字名

 「蕃茄(バンカ)」

  トマトの常食は日本では「明治以降」

 「トマトの語源」

 中米・メキシコに栄えた

 アステカ文明の言葉

 アステカ語の「Zitomato」→ジトマト

 英名は「Tomato」→トマト

 仏名は「Tomate」→トマテ

 独名は「Tomaten」→トマテン

 中国語は「西紅柿」

 和名は「アカナス(赤茄子)」

 トマトの別名、異名は

 バンカ・サンゴジュナス・ツルナスビ・トウガキ

 ギリシャ語

 「lycos(オオカミ)」+「persicon(モモ)」の合成語?

ーー↓胡瓜

 キュウリ(胡瓜、Cucumis sativus L.)

 ウリ科キュウリ属

 つる(蔓)性一年草、その果実

 日本では平安時代から栽培

 胡瓜は、「胡国、胡人の瓜」

 「キュウリ」の呼称

 漢字で「木瓜」、「黄瓜」(きうり)と記録していたことに由来

 ・・・窮理、究理、九里→庫裏、栗、句理、繰り・・・

 「胡瓜遣」

 滑稽本、2冊

 「仮名垣魯文(かながきろぶん)」著

 明治五年(1872年)刊は、

 福沢諭吉著の物理学書、3巻の

 「窮理図解(きゅうりずかい)」

 慶応四年(1868年)刊。

 を「捩(もじ)ったモノ」・・・「文字理→摸地理→摸知理→文字裏」だろう・・・

 ・・・北海道の地名に「茂尻」がある・・・

ーー↓茂尻(もしり・もじり)

 アイヌ語

 「ポン・モシリ(小さな島)」

 空知川の中州のこと

 大正七年

 大倉鉱業によって開鉱

 昭和六年

 茂尻炭鉱として独立

 昭和十年

 95人の犠牲者を出すガス爆発事故発生

 同年、経営の悪化から雄別炭鉱鉄道に買収

 昭和四十三年

 年産50万トン達成

 昭和四十四年四月二日

 ガス爆発事故発生(46名死傷)

 同年五月三十日閉山

 ・・・最近の「大陸中国の炭鉱事故」は、かっての日本の炭鉱産業の「炭鉱事故」と同類である・・・だが死傷者の「数だけ」を見れば「現今の大陸中国炭鉱事故」は膨大な死傷者を出している・・・

 ・・・「松浦武四郎」に聞いてみたい・・・君の意図は「文字裏」だろう・・・

ーーーーー

 枕草子

 (八八段)・・・八十八段・八拾八段・捌足捌

         8+8=16=十六=壱拾六=足陸

         8×8=64=六十四=陸足肆

 里に

 まかで

 たる

 に、

 殿上

 人

 などの

 來るも、

 安からず

 ぞ

 人々

 いひ

 なす

 なる。

 いと

 あまり

 心に

 引き

 いり

 たる

 覺

 はた

 なければ、

 さいはん

 人も

 にく

 からず。

 また

 夜も

 晝も

 くる人

 をば、

 何

 かは

 なし

 なども

 かが

 やき

 かへ

 さん。

 誠に

 睦じく

 など

 あらぬも、

 さこそは

 來めれ。

 あまり

 うる

 さ

 くも

 實に

 あれば、

 この

 たび

 出で

 たる

 所を

 ば、

 いづく

 とも

 なべて

 には

 知らせず。

 經房、

 濟

 政

 の

 君

 など

 ばかり

 ぞ

 知り

 給へ

 る。

 左

 衞

 門

 尉

 則

 光が

 來て、物語などするついでに、昨日も

 宰相

 中

 將

 殿の、

 妹のあり處さりとも知らぬやうあらじと、いみじう問ひ給ひしに、更に知らぬよし申ししに、

 あや

 にく

 に

 強ひ

 たまひし事

 など

 いひて、

 「ある事あらがふは、いと佗しうこそありけれ。ほとほと笑みぬべかりしに、左中將のいとつれなく知らず顏にて居給へりしを、かの君に見だにあはせば笑みぬべかりしに佗びて、

 臺

 盤

 の

 うへに

 怪しき

 和

 布

 の

 ありしを、

 唯

 とりに

 取りて

 食ひ

 まぎらはし

 しかば、

 中間に

 あやしの

 食物やと人も見けんかし。されど、かしこうそれにてなん申さずなりにし。

 笑ひ

 なま

 しかば

 不用ぞかし。まことに知らぬなめりと思したりしも、をかしうこそ」など語れば、「更にな聞え給ひそ」などいとどいひて、日ごろ久しくなりぬ。

 夜いたく更けて、門おどろおどろしく叩けば、

 何の

 かく

 心もと

 なく

 遠からぬ

 程を

 叩く

 らん

 と聞きて、問はすれば、

 瀧口

 なり

 けり。

 左衞門の文とて、文をもてきたり。皆ねたるに、火近く取りよせて見れば、「明日御讀經の結願にて、宰相中將の御物忌に籠り給へるに、妹の在處申せと責めらるるに、すぢなし、更にえ隱し申すまじき。そことや聞かせ奉るべき。

 いかに

 仰に

 隨はん」

 とぞ

 いひたる。返事も書かで、和布を一寸ばかり紙に包みてやりつ。

 さて

 後に

 きて、

 「一夜

  責めて

  問はれて、

  すずろなる

  所に率てありき奉りて、

  まめやかに

  さいなむに、

  いと

  からし。

  さてとかくも御かへりのなくて、そぞろなる和布の端をつつみて取へりしかば、取りたがへたるにや」といふに、怪しの違物や。人のもとにさる物包みて贈る人やはある。いささかも心得ざりけると見るがにくければ、物もいはで、硯のある紙のはしに、

 かづき

 する

 蜑の

 住家は

 そこ

 なりと

 ゆめ

 いふな

 と

 やめを

 くはせ

 けん

 とかきて出したれば、「歌よませ給ひつるか、更に見侍らじ」とてあふぎかへして遁げていぬ。

 かう

 互に

 後見

 かたらひなどする中に、何事ともなくて、少し中あしくなりたるころ、文おこせたり。

 「便

  なき事

  侍る

  とも、

  ちぎり

  聞えし事は

  捨て給はで、

  よそに

  ても

  さぞ

  などは

  見給へ」といひたり。常にいふ事は、

 「おのれを

  おぼさん

  人は、

  歌など

  よみて

  え

  さ

  す

  まじき。

  すべて仇敵となん思ふべき。今はかぎりありて絶えなんと思はん時、さる事はいへ」といひしかば、この返しに、

 くづれ

 よる

 妹脊の

 山の

 なか

 なれば

 さらに

 よし

 野の

 かは

 と

 だに

 見

 じ

 と

 いひ遣りたりしも、

 誠に

 見ずや

 なりけん、

 返事もせず。

 さて

 かうぶり得て

 遠江介

 など

 いひしかば、

 にく

 くして

 こそ

 やみ

 に

 しか。

ーーーーー

 ・・・

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ながい雅楽(うた)→長意→弔慰、ガラク、我楽、瓦落、瓦落苦

2013-07-23 21:45:27 | 古事記字源
 ナガイなぁ~ッ、「八七段」→「捌足漆談」の文・・・「マクラのソウシ」だけれど・・・ボクが「ボクテキ」に「翻訳」するのは・・・「長井雅楽(ながいうた・チョウイガラク)」・・・が「長州藩」に居たけれど・・・不本意に「詰め腹」・・・「世の中の組織の常」だけれど・・・
ーー↓ナガイ

 長井家

 松坂湊町の豪商

 先祖は武士で、

 永正八年(1511)京都船岡山の合戦で討ち死

 後、商人となり、

 大名貸しや

 郷貸し

 木綿を商った

 屋号は「大和屋」

 江戸

 大伝馬町に

 長井惣兵衛店

 松坂御為替組にも加入

 長井家に

 本居宣長の

 次女

 美濃が嫁ぐ

 夫は尚明

 夫婦は

 長井の同族

 大泉家を嗣ぎ、

 後

 同族の

 小津家に移る

ーー↓

 来迎寺に

 「長井家先祖暦(歴)代聖霊」碑

 「草のはら

  思ひこがれて 

  たづぬれば 

  跡はきえせぬ 

  船岡の露

  宣長」

 定規居士

 永正八年

 船岡山の戦に

 討死せられし事など

 曾祖父翁

 此歌の詞書に

 委しく物し置れたれど

 事

 長ければ

 ここに

 はぶきつ、

 万延元年八月、

 長井道孝

 主の求によりて、

 本居信郷書」

 万延元年=西暦1860年

 本居信郷は

 本居宣長から

 四代目・・・?・・・

ーー↓ナガイ

 出羽

 長井氏

 鎌倉幕府

 別当

 大江広元の

 次男

 時広を祖に持つ

 長井氏(永井氏)

 承久三年(1221年)

 「承久の乱」の際に

 時広の兄の

 親広(寒河江氏の祖)が

 後鳥羽上皇方に味方

 以後、大江氏の惣領となって繁栄

 後に執権北条氏が台頭し

 評定衆の一人

 備後国守護にも任じられた

ーー

 長井泰秀の代

 宝治元年(1247年)

 「宝治合戦」で

 泰秀の叔父

 毛利季光は

 三浦氏に味方し、一族はほぼ滅亡

 泰秀は

 北条氏に味方して

 所領を安堵

 親族の毛利氏の救済を願って、

 生き残った

 毛利経光に

 越後国

 佐橋荘と

 安芸国

 吉田荘の

 地頭職の安堵で奔走し

 結果、

 毛利氏は両荘の地頭職を安堵

 その後

 長井氏は

 米沢城を築き

 置賜郡

 長井荘

 地頭職を代々務めた

 長井広秀の代に鎌倉幕府が滅亡

 執権北条氏を見限り、

 後醍醐天皇方について

 関東廂番の一員となった

 建武二年(1335年)

 足利氏の執事に就任

 長井広秀の

 長井荘に

 隣接する伊達郡の

 伊達氏が

 後醍醐天皇方に味方して対立

 伊達氏も北朝に転じて長井氏と和解

ーー

 伊達宗遠

 信夫郡等を支配下に収めた後に、

 置賜郡長井荘にも進出

 南朝:天授六年

 北朝:康暦二年

 (1380年)

 伊達宗遠は

 茂庭行朝らを率いて

 置賜郡に侵入し、一部を占拠

 高畠城を長井荘進出の橋頭堡とした

 長井氏は幕府の支援を受け

 伊達氏を退却させたが

 南朝:元中二年

 北朝:至徳二年

 (1385年)

 宗遠の跡を継いだ

 伊達政宗の攻撃によって、

 出羽

 長井氏は滅亡

ーー

 備後

 長井氏

 鎌倉幕府より

 備後国の守護として任命され栄えた。

ーー

 長井貞広の死後、

 同族の

 毛利元春の子の

 広世を養子として迎え、

 福原氏と名を変え

 子孫は

 毛利氏の家臣として存続

 幕末に

 長井時庸(長井雅楽)を出した

 長井氏は

 この福原氏から分かれた一族

 ・・・やっと、出てきた・・・ながいうた・・・

ーー↓原文はスベテ、「ウイッキペデア」

長井雅楽 - Wikipedia

ーー↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E9%9B%85%E6%A5%BD

ーー↓長井時庸(長井雅楽)

 長井 時庸

 文政二年五月一日

 (1819年6月22日)

   ~

 文久三年二月六日

 (1863年3月24日)

 別名 雅楽・与之助・与左衛門

    隼人、右近

 戒名 庸軒誠義英剣居士

 墓所 海潮寺(山口県萩市)

 主君 毛利敬親

 藩  長州藩士

 氏族 大江姓長井氏

 父は長井泰憲(長井次郎右衛門泰憲)

 母は福原利茂の女

 子は貞子

ーー

 藩校の明倫館で学ぶ

 藩主・毛利敬親の小姓

 奥番頭

 敬親の世子である

 毛利定広の後見人

 安政五年(1858年)

 長州藩

 直目付

 開国論者

 文久元年(1861年)

 公武一和に基づいた

 「航海遠略策」を藩主に建白

 十一月

 藩主・敬親と共に江戸入り

 老中

 久世広周、安藤信正と会見

 十二月

 正式に建白し公武の周旋を依頼

 当時藩内であった

 尊皇攘夷派とは対立関係

 井伊直弼の

 安政の大獄のとき、

 吉田松陰の江戸護送を制止も弁明もしようとしなかった

 松陰の弟子である

 久坂玄瑞や

 前原一誠らに命を狙われる

 文久二年(1862年)

 公武合体を進めていた

 安藤や久世らが

 「坂下門外の変」で失脚

 藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、

 長井の排斥運動

 文久二年三月

 再度入京

 尊攘激派の

 久坂らの

 朝廷工作によって

 長井の説は

 朝廷を誹謗するものとして

 敬親により

 帰国謹慎を命じられた

 六月に免職、帰国

 文久三年(1863年)

 雅楽は

 長州藩の責任を全て取る形で

 切腹、自害

 享年四十五歳

 国司親相が

 切腹

 検視役正使

 長女

 貞子は後に

 富岡製糸場で勤務

ーー

 高杉晋作の父・高杉小忠太とは

 世子付の同役を務めた

 友人同士

 切腹の前日、

 小忠太へ

 潔白を訴え、

 遺児の庇護を依頼する

 長文の手紙を出し、

 末尾に

 「ぬれ

  衣の

  かかる

  うき身は

  数ならで

  唯

  思はるる

  国の

  行く

  末」

 と辞世の歌

ーー↓他の辞世句

 今さらに

 何をか

 言わむ

 代々を

 経し

 君の

 恵みに

 むくふ

 身なれば

ー↓

 君

 が

 ため

 身を

 捨つる

 命は

 惜し

 から

 で

 ただ

 思はるる

 国の

 ゆく

 すえ

ー↓

 君恩に

 報いん

 として

 業

 いまだ

 央ならず

 自羞す

 四十五年の

 狂

 即

 今

 成仏は

 予が

 意に

 非らず

 願わく

 は

 天魔を

 帥いて

 国光を

 輔けん

ーー↓

 長州藩の

 路線変更とそれを

 画策した

 久坂玄瑞が

 最終的には

 長井雅楽を死に追いやった・・・

 久坂玄瑞らも

 禁門の変で討死

 その明治新政府の政策は

 「尊皇攘夷」ではなく

 「開国和親」、

 長井雅楽の唱えた航海遠略策

 明治新政府の中心に座ったのは、

 松下村塾の卒塾生であり、

 吉田松陰の

 仇敵と

 目された

 長井雅楽の

 評価を

 不当に貶めた・・・

 吉田松陰の「大攘夷」

 実行論において

 対極の

 長井は松陰の行動主義を批判し

 「寅次(松陰)は破壊論者なり。国益を起こすの人にあらず」

 松陰は、長井を奸臣とし「青面の鬼」と呼んで憎悪

 松陰を江戸へ送れという幕府の命令を

 直目付の

 長井が藩へ伝えたことが

 松下村塾系の藩士から

 逆恨みを買った。

 長井雅楽は

 外に

 真意を

 漏らさなかったが、

 松陰の江戸護送が

 断腸の思いであることを

 家族に伝えている・・・

 後に

 長井雅楽の

 真意を知った

 松下村塾卒塾生の

 一部は、

 長井の家族を庇護・・・

ー↓ー

 575年

 第三十代敏達天皇(訳語田渟中倉太珠敷尊)

 百済大井宮の跡に「訳語田(おさだ)」に宮を造る

 これを

 「幸王宮(さきたまのみや)」と言う

 奈良県

 桜井市

 戒重(カイジュウ)の

 春日神社近辺

 「686年(朱鳥元年九月)天武天皇崩御」

 「686年(朱鳥元年十月二日、親友の川島皇子の密告で、謀反の意有り、とし「大津皇子」を・・・死に追いやる・・・

 「持統天皇朱鳥元年(686年)冬十月二日(日本書紀)」

 ・・・「皇子大津を訳語田の舎に賜死む」・・・妃の「山辺皇女」は殉死・・・

ー↓ー長田(おさだ)→訳語田(おさだ)→長=おさ=訳語

 長

 チョウ・チャウ・・・音訓のスベテのコトバ・・・

 ながい→名臥意→永井・長居

 たける→多懸留→建・健・猛・武・焚ける・炊ける

 おさ→嗚差→緒作・尾作・御詐→訳語田(おさだ)

 つかさ→通掛作→司・宰・典・官・士・曹・束作

ーー↓

 有間皇子

 有馬皇子・・・?

(ありまのみこ)

 舒明天皇十二年(640年)

   ~

 斉明天皇四年

 十一月

 十一日

 (658年12月11日)

 蘇我赤兄が中大兄皇子に密告し

 守大石・坂合部薬たちと捕らえられ

 孝徳天皇の皇子

 母は

 左大臣

 阿倍内麻呂(天智天皇の父方の従兄)の娘

 小足媛

 明日香皇女、

 新田部皇女の

 姉妹とは母方の従兄妹

 後世に

 有馬皇子と表記される例が多い・・・?

ー↓和歌

 磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む

 磐白乃濱松之枝乎引 結 真幸 有 者亦 還 見武

 「万葉集・巻二・141」

ー↓

 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 家 有 者笥爾盛 飯乎草枕旅爾之有 者椎之葉爾盛

 「万葉集・巻二・142」

ー↓

 有間皇子処刑後

 「大宝元年(701年)」

 長意吉麻呂

 や

 山上憶良らの

 追悼歌が「万葉集」に残されている・・・?

 江戸時代の「百人一首・注釈書」などで「後即位」となっている・・・

 「磐代」も平安時代以後、「紀伊国」の「歌枕=名所・旧跡」とされた・・・ならば、「キイのコク」で「記紀の拠句」、「記意の語句」であるカナ・・・

 「歌枕」は歌を詠むのに典拠とすべき「枕詞・名所」などを記した「書物」。もともと和歌に用いる言葉、歌詞(うたことば=歌語)を歌枕といい、それらを記した書物も歌枕と呼んでいた・・・「能因歌枕」など・・・「歌語の解説書」といった意味・・・

 能因(ノウイン)

 永延二年(988年)

  ~

 永承五年?(1050年)、康平元年?(1058年)

 僧侶

 「後拾遺和歌集(三十一首)」

 「勅撰和歌集に六十七首」が入集

 歌集に「能因集」

 私撰集「玄々集」

 歌学書「能因歌枕」がある。

 ・・・「伝能因所持本(デンノウインショジホン)、通称・能因本(のういんぼん)は、「枕草子」の「写本」の系統の一つ・・・

ーーーーー↓能因

 枕草子

 (八七段)・・・八十七段・八拾七段・捌足漆段

         8+7=15=十五=壱拾五=壱足伍

         8×7=46=四十六=四拾六=肆足陸

 かへる

 年の

 二月

 二十五日に、

 宮、

 職の

 御曹司に

 出で

 させ

 給ひし。

 御供にまゐらで

 梅壼に

 殘り居たりし

 又の日、

 頭中將の

 消息とて、

 「きのふの

  夜

  鞍馬へ

  詣

  で

  たり

  し

  に、

  こよひ方の

  塞がれば、

  違に

  なん

  行く、

  まだ

  明けざらんに

  歸りぬ

  べし。

  必

  いふべき

  事あり、

  いたく

  たたかせで

  待て」との

 給へりしかど、

 「局に

  一人は

  などてあるぞ、

  ここ

  に

  寐よ」とて

 御匣殿めしたれば參りぬ。久しく寐おきておりたれば、

 「いみ

  じう

  人の

  たたかせ

  給ひし。

  辛う

  じて

  起きて

  侍り

  しかば、

  うへに

  かたらば

  斯く

  なんと

  の給ひしかども、

  よも

  きかせ

  給

  は

  じ

  とて

  臥し

  侍り

  に

  き」と語る。心もとなの事やとて聞くほどに、主殿司きて、「頭の殿の聞えさせ給ふなり。只今まかり出づるを、聞ゆべき事なんある」といへば、「見るべきことありて、うへになんのぼり侍る。そこにて」といひて、

 局はひきもやあけ給はんと、心ときめきして、わづらはしければ、

 梅壼の

 東おもての半蔀あげて、「ここに」といへば、めでたくぞ歩み出で給へる。

 櫻の直衣

 いみじく花々と、うらの色つやなどえもいはずけうらなるに、

 葡萄染の

 いと濃き指貫に、

 藤の

 をり枝ことごとしく織りみだりて、

 紅の

 色擣目など、

 輝くばかりぞ見ゆる。次第に白きうす色など、あまた重りたる、狹きままに、片つかたはしもながら、少し簾のもと近く寄り居給へるぞ、

 まことに

 繪に書き、

 物語の

 めでたきこと

 に

 いひたる、これにこそはと見えたる。

 御前の

 梅は、

 西は白く

 東は紅梅にて、

 少しおちかたになりたれど、猶をかしきに、うらうらと日の氣色のどかにて、人に見せまほし。簾の内に、まして若やかなる女房などの、髮うるはしく長くこぼれかかりなど、そひ居ためる、今少し見所ありて、

 をかし

 かりぬ

 べき

 に、

 いと

 さだ過ぎ、

 ふるふる

 しき

 人の、

 髮

 なども

 我には

 あらねばや、處々わななきちりぼひて、大かた色ことなるころなれば、あるかなきかなる薄にびども、あはひも見えぬ衣どもなどあれば、露のはえも見えぬに、おはしまさねば

 裳も著ず、

 袿すがたにて居たるこそ、

 物ぞ

 こなひに口をしけれ。

 「職へなんまゐる、ことづけやある、いつかまゐる」などのたまふ。さても昨夜あかしもはてで、されどもかねてさ言ひてしかば待つらんとて、月のいみじう明きに、西の京よりくるままに、局をたたきしほど、辛うじて寐おびれて起き出でたりしけしき、

 答の

 はしたなさ

 など語りて

 わらひ給ふ。「無下にこそ思ひうんじにしか。などさるものをばおきたる」など實にさぞありけんと、いとほしくもをかしくもあり。暫しありて出で給ひぬ。

 外より見ん人はをかしう、

 内にいかなる人のあらんと思ひぬべし。

 奧のかたより

 見いだされ

 た

 らん

 うしろ

 こそ、

 外に

 さる人やともえ思ふ

 まじ

 けれ。

 暮れぬればまゐりぬ。御前に人々多くつどひゐて、物語のよきあしき、にくき所などをぞ、定めいひしろひ誦じ、仲忠がことなど、御前にも、おとりまさりたる事など仰せられける。

 「まづこれは如何にとことわれ。

  仲忠が

  童生の

  あやしさを、せちに仰せらるるぞ」などいへば、「何かは、琴なども天人おるばかり彈きて、いとわろき人なり。

  みかどの

  御むすめや

  はえ

  たる」といへば、仲忠が方人と心を得て「さればよ」などいふに、  「この事ども

  よりは、

  ひる

  齋信が

  參りたりつるを見ましかば、

  いかに

  めで

  惑はましとこそ覺ゆれ」と仰せらるるに、人々「さてまことに常よりもあらまほしう」などいふ。「まづそのことこそ啓せめと思ひて參り侍つるに、物語の事にまぎれて」とて、

 ありつる事を語り聞えさすれば、

 「誰も誰も見つれど、

  いと

  かく

  縫ひ

  たる

  絲針

  目

  までやは

  見

  と

  ほし

  つる」とて笑ふ。

 西の京といふ所の荒れたりつる事、

 諸共に

 見る人あらましかばとなん覺えつる、

 垣なども

 皆破れて、

 苔

 生ひてなど

 語りつれば、

 宰相の

 君の、

 「かはらの

  松は

  あり

  つや」と

 答へたりつるを、いみじうめでて、

 「西のかた

  都門を

  去れる

  こと

  いくばくの

  地ぞ」と

 口ずさび

 に

 し

 つる

 事など、

 かし

 がましき

 まで

 いひし

 こそ

 をかし

 かり

 しか。

ーーーーー

 ・・・

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数字

2013-07-22 16:05:37 | 古事記字源
 ・・・不思議と云えば「不思議な数」である・・・第「23(念参)」回参院選・・・「22(弐拾弐)」日未明・・・改選定数「121(壱百弐拾壱)」の全議席数・・・自民党「65(陸拾伍)」、民主党「17(壱拾漆)」、公明党「11(壱拾壱)」、みんなの党「8(捌)」、共産党「8(捌)」、日本維新の会「8(捌)」、社民党「1(壱)」、諸派・無所属「3(参)」・・・「参議院選挙最終投票率、52.61%」・・・金権のマツリゴトに回帰・・・?・・・元々だけれど・・・
 今日は・・・肌寒い日である・・・かな・・・「ネジ釘」が折れなければイイのだが・・・

 自分自身の書き込んだ「文章」と言うか、「作文」も読んでくれる人には、かなり理解困難、解読困難であると思われているが・・・事実、そのとおりデあるが・・・他人を理解させるのは難しい・・・以下の「抜粋原文」も・・・

ーー

 宇宙全体の「温度」は「何度か?」はボクの問いかけである・・・「無限」?、であるらしい・・・「無限」って、宇宙全体の温度は測定不可能、と言うことか?・・・「恒星の温度」が判っているなら、「恒星の数の温度の総和」ぐらいは判る?だろう・・・「全宇宙の星の数」も未だ判っていないか・・・もし、「宇宙全体の温度」が「均衡状態」になったら・・・「宇宙の動き」は止まる・・・?・・・って、妄想してしまう・・・の、だがね・・・

 「温度」も何かを「基準値」としなければ「測定出来ない」であろ・・・が、

 温度には下限が存在し、

 分子運動が

 止まっている状態が

 温度「0K(絶対零度)」を

 もし、「量子力学」における「不確定性原理」を無視して、絶対温度「0」で「物質の分子運動が止まる」に適合させたら「宇宙の動きは止まる」・・・

 ・・・そもそも「温度」とはナニ?・・・

 以下の原文は「ウイッキペデア」・・・以前にも同じようなモノを抜粋したけれど・・・

ーー

 温度

 寒暖の度合いを

 数量で表したもの

 具体的には

 物質を構成する

 分子運動のエネルギーの

 統計値

ーー

 温度には下限が存在し、

 分子運動が止まっている状態が

 温度「0K(絶対零度)」

 ただし、

 分子運動が

 「0」となるのは古典的な極限

ーー

 実際は、

 量子力学における

 不確定性原理から、

 絶対零度であっても、

 分子運動は

 「0」にならない(止まっていない)。

ーー

 温度は

 それを構成する

 粒子の運動である

 化学反応に直結し、

 それを元にする

 あらゆる現象における

 影響力を持つ

ーー

 生物にはそれぞれ

 「至適温度」があり、

 ごく狭い範囲の温度の下でしか

 生存できない。

 なお、日常では単に

 温度といった場合、

 気温のことを指す

ーー

 平衡状態における

 分子の運動エネルギーを、

 エントロピーという

 統計値で微分したもの

ーー

 エントロピー 【entropy】

 《変化の意のギリシャ語tropから》

 1) 熱力学において物質の状態を表す量の一。

  等温可逆的な変化で、ある物質系が熱量を吸収したとき、

  エントロピーの増加は

  吸収熱量を

  温度で

  割った値に等しい。

  熱的に

  外部から孤立した系では、

  内部変化は

  つねに

  エントロピーが増す方向に起こる。

  1865年クラウジウスが導入。

  系の秩序に関連する度合いで、

  エントロピーが高くなることは

  乱雑さが増すことを示す。

ーー↓ー

 そもそも、この「宇宙の枠内」で「外部から孤立した系」なんて、存在するのか?・・・「孤立」ではなく、現実には「個々の限定された枠内のモノ、個々に区別された枠内のモノ」であろう・・・「孤立」は人間の「認識論」的な「範疇概念」である・・・「存在論」としての「コトバ」ではないだろう・・・

ーー

 2) 情報理論で、

  ある情報が得られる確率をもとに、

  情報がどれだけ欠如しているかの状態を示す量。

  情報の不確定さの度合い。

ーー↓

 ・・・ここは「温度」の問題だから1)の検討であるが、「日本語訳」が必要だ・・・

 「等温可逆的な変化」とはナニか?・・・「ある物質形態AとBの接触で双方の温度差が無くなる温度変化」、「可逆」とは「温度差のやりとりで温度差が無くなる」、「接触物質の双方の温度が等しくなる」と言う事だろう・・・「ある物質系」とは「一かたまり、一個の形態の物質」であろう・・・「高い熱量のA」は「低い熱量のB」にその「Aの熱量」の「吸収」を温度差がなくなるまで増大させていく・・・と、いうことだろう・・・?・・・コンロの火の温度→鍋の温度→肉の温度→空気→移動温度の拡散・・・物質と物質の位置(距離)関係、空間(密度)関係の問題である・・・

ーー↓

 真の意味での

 温度の

 平衡状態は

 自然界の

 「個々の物質・個々の領域・個々の空間」

 「個々の動植物」では・・・マッタクない・・・である。

ーー

 必要に迫られて

 非平衡状態、

 計測上の

 便宜的な定義である

ーー

 現時点で、

 非平衡状態での温度の定義は、

 本来の意味で定義できない

 途上段階の定義

ーー

 温度は、

 非常に

 計りにくい

 物理量の一つで

 温度とは

 統計値であるため、

 分子数が少ない場合

 (低密度状態、または非常に狭い範囲を対象にする場合)には、

 統計的に値が安定せず、

 意味が無くなる

 もう一つは、

 非常に大量の数の

 分子の運動状態を

 一個一個観測することは

 現在の技術では不可能

ーー

 代わりに

 間接計測を行っている

 計測の方法として、

 計測対象となる物体から

 放射される

 電磁波を計測する方法や、

 長い時間をかけて

 計測プローブ(検出器)

 を

 計測対象となる

 物体に

 接触させ

 熱平衡状態にさせてから計る方法がある

 どちらの方法も、

 何らかの

 計測上の問題を抱えている

ーー

 近年の

 高速温度測定装置

 対象物の大きさ

 数十ミクロン、

 測定時間は

 数ミリ秒程度で測定可能

 物理現象を捕らえる

 一つの手段としての

 有効性が向上

ーー

 物体の

 「寒暖の度合い」を

 定量的に表そうという試みを初めて行ったのは

 ガリレオ・ガリレイ

 初めて目盛付き温度計により

 数値によって温度を表現したのは

 オーレ・レーマー

 レーマーは

 水の沸点を

 60度、

 水の融点を

 7.5度

 とする温度目盛を作成

 温度目盛を作成するには

 任意の

 2点の

 定義定点が必要である

 かつては

 温度と

 熱というのは

 ほとんど同じ概念を示していた。

 温度と熱の違いを

 ジョゼフ・ブラックは

 氷が融解している

 最中は

 熱を吸収しても

 温度が変化しない

 「潜熱」を発見

 また温度の違う

 同質量の

 水銀と

 水を

 混ぜる実験を行い、

 それぞれ

 水と水銀の温度変化に

 ある

 定数を

 掛けた値が

 常に

 等しくなることを発見

 すなわち

 熱容量の概念を発見した

ーー

 熱の移動量=熱容量×温度変化

ーー

 これらの実験により

 温度と熱が

 別物であることが確立

 その後、19世紀

 ニコラ・レオナール・サディ・カルノーは

 熱機関の効率には

 熱源と

 冷媒の間の

 温度差によって決まる

 上限があることを発見

ーー↓

 冷媒

 冷凍機や熱ポンプにおいて、

 低温の物体から高温の物体に

 熱を運ぶ

 作動流体。

 その逆の

 高温の物体から低音の物体に

 熱を運ぶ

 作動流体、 

 蒸気機関車の「熱媒体」は「水・蒸気(スチーム)」である。

 ・・・「霊媒」は「心霊現象の巫女(みこ・フブ)・覡(かんなぎ・ケキ・ゲキ)」である・・・数字の「零倍」は「レイ・0・ゼロ」・・・である・・・

ーー

 熱力学第二法則

ーー

 外部から

 仕事が

 なされない限り、・・・・仕事をしても、しなくても

             接触、接点があれば、で、ある。

             接触、接点とは

             物質の「空間距離・密度」である

             物質は常に動いている

 熱エネルギーは

 温度の高い物体から

 温度の低い物体に移動する

 温度とは

 熱エネルギーが

 自然に移動していく

 方向を示す指標である

ーー

 ウィリアム・トムソンは

 カルノーサイクルで

 熱源と冷媒に出入りする

 熱エネルギーから

 温度目盛が

 構築できることを示した

 これを

 熱力学温度目盛という

 熱力学温度においては

 一つの定義定点は

 カルノーサイクルの効率が

 1となる温度であり、

 摂氏温度目盛で表せば

 「-273.15℃」である。

ーー

 熱力学第二法則によれば、

 この温度に到達するには

 無限の仕事が必要となり、

 それより低い温度は存在しない。

 この温度を

 絶対零度ともいう。

 熱力学温度目盛ではこの

 絶対零度を

 原点(0 K)としている。

 温度の下限の存在は

 シャルルの法則から、

 あらゆる

 気体の体積が

 「0」となる

 温度として考えられていた。

ーー

 原子、分子レベルにおける

 温度の意味

 ジェームズ・クラーク・マクスウェルの

 気体分子運動論によって明らかとなった。

 気体分子の

 速度の

 分布は

 マクスウェル分布に従い、

 この分布関数の形状は

 温度に依存している。

 特に

 気体分子の

 平均運動エネルギーは

 3/2 kT(k:ボルツマン定数、T:熱力学温度)

 温度に比例する。

 すなわち

 温度は

 分子運動の激しさを

 表す数値でもある。

 このため

 プラズマ中の

 イオンや電子の持つ

 平均運動エネルギーを

 温度で表現することがある。

 この時は

 通常平均運動エネルギー = kT

 となる

 温度「T」によって表現する。

ーー

 ルートヴィッヒ・ボルツマン

 このマクスウェルの考え方を発展させ

 統計熱力学を構築

 統計熱力学では、

 あらゆる形態の

 エネルギーにこの考え方が拡張されている。

 温度が高いほど

 高いエネルギーを持つ原子や分子の割合が大きくなり、

 原子や分子の持つ平均エネルギーの大きさも増加する。

 統計熱力学において

 温度は

 分子のエネルギー分布の

 仕方を表す指標

ーー

 量子論が確立してくると、

 古典的な統計熱力学は

 量子統計の

 近似であることが明らかとなった。

 古典論においては

 「0 K」において

 あらゆる粒子は

 運動を停止した

 最低エネルギー状態をとることになるが、

 量子論においては

 粒子は「0 K」においても

 零点エネルギーを持ち

 静止状態とはならない。

 また、

 ボース粒子のエネルギー分布は

 ボース・アインシュタイン分布、

 フェルミ粒子のエネルギー分布は

 フェルミ・ディラック分布となる。

 フェルミ粒子においては

 パウリの排他原理により、

 絶対零度においても

 古典論では

 数万 Kにも相当するような

 大きなエネルギーを持つ

 粒子が存在し、

 温度を古典論のように

 単純に

 粒子のエネルギーの

 大きさの

 目安とすることはできない。

 しかし、

 温度が分子の

 エネルギー分布の仕方を表す指標であることは

 古典統計と変わっていない。

ーー↓

 ・・・ィヤァ~ッ、ナカナカ、「理解する」には難しい・・・「ニホン語」なのか?、これって・・・

 以下の原文も「ウイッキペデア」

ーー↓???

 エネルギー保存の法則(the law of the conservation of energy)

 「ある孤立系の中のエネルギーの総量は変化しない」

 とする法則

 「エネルギー保存則」、

 「熱力学第一法則」と

 表現される

ーー

 アリストテレスの哲学用語

 ものがもつ

 「可能態」の中から

 現実化された

 「現実態」=「エネルゲイア」

 「活力(運動力)」が具体的な

 「仕事状態(運動状態)」に変化しつつあるコト

ーー 

 熱力学

 第一法則では、

 dU=「δQ - δW」

 「dU」は密閉された空間内部のエネルギー変化、

 「δQ」は密閉された内部に外部から加えられた熱量、

 「δW」は密閉された内部が外部にした運動量

 「熱」も「仕事」も

 同じエネルギーの一種であり、

 「エネルギー収支(増減)」が

 「内部エネルギー変化」とする法則

ーー

 加えられた熱量の分だけ

 内部エネルギーが増加し、

 外界に対して行った仕事の分だけ

 内部エネルギーは減少する

ーー

 質量保存の法則

 質量=エネルギー

ーー

 1905年

 アインシュタインは、

 質量=エネルギー

 等価交換可能

 とした

ーー

 特殊相対性理論

 質量=エネルギー

 E=mc²

 質量はエネルギーの一つの形態

 「質量」には

 「相互変換」する

 「エネルギー」の総和が保存

ーー

 「原子核反応」や

 「電子対創生」などの

  実験において確認

ーー

 なを、それに伴って、

 「質量保存則は(厳密に言えば)成り立っていない」と

 考えられるようになった。

 「原子核反応」を扱う場合においては、

 「質量」の「エネルギーへの変換」は

 無視できないほど大きく、

 「質量は保存されていない」として計算

ーー

 「β崩壊」は

 「エネルギー保存則」が成立していない事例

ーー 

 1932年

 パウリとフェルミが、

 「β崩壊の事例」で

 「中性の微子が存在」と予想し

 1956年

 「微子(ニュートリノ)」が確認され

 「エネルギー保存則」が

 成り立っているとされた

ーー

 「エネルギー保存の法則」

 「最も基本的な物理法則の一つ」

ーー

 量子力学

 エネルギー保存則

 量子力学ではあらゆる物理量に対応する

 「エルミート作用素」が存在するが、

 「エネルギー」に対しては

 「ハミルトニアン作用素」が対応

 「外部系」との相互作用がない

 「孤立系」を考えると、

 「シュレーディンガー演算子」には

 露わな

 「時間依存性」がない

 「ハミルトニアン」に対する

 「ハイゼンベルグ方程式」

 から自明で

 「孤立系のエネルギー」が保存する

ーー

 時間とエネルギーの

 不確定性関係のために

 短時間では

 エネルギー保存則が

 破れるという記述もあるが、

 それは

 「摂動論」における

 「自由ハミルトニアン部分の保存則の破れ」にすぎず、

 「相互作用項」まで加えた

 全エネルギーは常に厳密に

 「保存」する

ーー

 エネルギーの「量」と「質」

 「エネルギー保存の法則」が成立したと仮定し、

 「宇宙がエネルギーの総量が一定の閉鎖系」

 だと仮定すると、

 「エントロピーの小さいエネルギー」は

 時間とともに減少

 「エントロピー」は

 局所的には

 増加も減少もするが、

 宇宙全体としては常に増加

 (熱力学第二法則)

 「エントロピーの増加」は

 エネルギーの

 「質(そのエネルギーからどれだけ仕事を得られるか)」の

 低下を意味し、

 宇宙に存在する

 全てのエネルギーは

 最終的にはもはや

 外部に対して

 何ら仕事をすることができない

 均一な

 熱エネルギーとなる(熱的死)

ーー↓???・・・ナンだ、コレは・・・

 エネルギー問題における

 エネルギーの有限性は、

 「エントロピーの小さいエネルギー」の

 存在量を問題としている

 人類(および他のあらゆる存在)は、

 「質の良い(小)エネルギー」を

 「質の悪い(エントロピーの大きい)エネルギー」に

 転換する過程で仕事を得ている

 エネルギーの

 仕事への変換効率は

 エネルギーの質が低くなるほど

 原理的に低下し、

 エネルギーを消費していく

 「エネルギー保存の法則」が

 成り立つということは

 「(有用な)エネルギーはいくら使ってもなくならない」という意味ではない

 (第二種永久機関の否定)。

 ・・・ナンジャイ、これは、評論?・・・「循環論」はどうだ・・・

ーー

 「相対性理論」によれば

 「化学反応」によって

 放出または吸収された

 エネルギーに相当する質量変化が起こっており、

 質量は厳密には保存されていない・・・

 「化学反応の前後」で、

 それに関与する

 「元素の種類と各々の物質量は変わらない」という

 表現がより正確な表現となる・・・

 「核反応の世界」では

 実験的に十分に

 測定可能なだけの

 質量変化が起こっており、

 反応の前後で

 元素の種類や各々の物質量も変化していく。

 「素粒子論の世界」では

 「物質・質量の生成や消滅」が

 広範に起こっている・・・?

 これらの世界においては、

 「質量保存の法則」や

 「物質の不変性・不滅性」は

 全く成り立っていない・・・?

ーー↓

 「全く成り立っていない」じゃぁなく・・・「物質の変化」だろう・・・「不滅性」は「消滅する=無」ということではない、のさッ・・・

ーー

 「化学反応の前後で質量の総和は変わらない」

 ではなく

 「化学反応で保存されるのは物質量」である

ーー

 木や紙は燃やすと灰となって

 「質量」が大幅に減少する

 反対に

 スチールウールなどの金属は

 「質量」が増加する

 アインシュタインは相対性理論において、

 E=mc²

 という数式を提示し、

 質量はエネルギーは等価関係にある、とすることを提唱した

 「質量は消滅してエネルギーに変化」

 閉じた系の「質量の総和が一定である」ということを

 公理として扱っていた。

 しかし、

 相対性理論を考慮に入れた現代物理学では、

 「質量の総和が一定である」という命題は

 日常的な場面において、

 あくまで

 近似的に成立するものであるとされている。

ーー

 特殊相対性理論

 質量とエネルギーは等価であり、

 閉じた系において保存されるのは

 「質量の総和」ではなく

 「(質量を含む)エネルギーの総和」であるとされる。

 従って、

 化学反応によってエネルギーが吸収・放出されれば、

 それだけ質量も変化することになる。

ーー?

 「高エネルギーの素粒子反応」においては

 「粒子」が

 「消滅」したり、

 「新しく創られたりすること」は、

 ごく普通の現象である

ーー↓

 ・・・「消滅」、「新創造」のコトバは「物質の変化」のコトだろう・・・「消滅=無」ではないし、「新創造」は「無からの有」ではない・・・「消滅=有の変化」、「新創=有の変化」である・・・

ーー

 質量とエネルギーの

 等価性が無視できないものとしては、

 「対生成」や

 「対消滅」、および

 「核反応」のような

 強い相互作用に基づく変化がある。

 一方、

 「電磁相互作用」に基づく変化(化学変化など)、

 「弱い相互作用」に基づく変化(ベータ崩壊など)、

 「重力相互作用」に基づく変化(物体の落下による位置エネルギーの消費など)では、

 相対論的効果による質量の変化は無視しても問題ないほど小さい。

 そのため、

 化学反応における

 「質量の保存」は

 近似的に成立していると考えることができる。

ーーー

 ただし、重力による位置エネルギーについては、この宇宙が発生した原理にかかわるものである。

 宇宙が無から発生したのは何故かというのは、ある意味、哲学的な命題であるが、

 少なくとも

 「質量」と

 「エネルギー」については解決を見ている。

 つまり、

 この宇宙全体の

 質量とエネルギーの総和はゼロである

ーー↓

 ・・・「総和がゼロ」と言うことは「ゼロ=無」ではなく、「存在のスベテ」、「ゼロ=有」と言うコトですな・・・

ーー

 「位置エネルギー」は

 重力ゼロの状態を

 基準点とするため、

 マイナスの値を取る

 というのが、

 この命題の回答である・・・?・・・「名題」ですか・・・

ーー

 ・・・今日の「枕草子」は・・・(八六段)・・・

ーーーーー

 頭中將そぞろなる

 そらごとを聞きて、

 いみじう

 いひおとし、

 「何しに人と思ひけん」など殿上にてもいみじくなんの給ふと聞くに、はづかしけれど、

 「實ならばこそあらめ、おのづから聞きなほし給ひてん」

 など笑ひてあるに、黒戸のかたへなど渡るにも、聲などする折は、袖をふたぎて露見おこせず、いみじうにくみ給ふを、とかくもいはず、見もいれで過ぐす。二月つごもりがた、雨いみじう降りてつれづれなるに、「御物忌にこもりて、さすがにさうざうしくこそあれ。物やいひにやらましとなんの給ふ」と人々かたれど、

 「よにあらじ」

 など答へてあるに、一日しもに暮して參りたれば、夜のおとどに入らせ給ひにけり。

 長押の下に火近く取りよせて、さし集ひて篇をぞつく。「あなうれしや、疾くおはせ」など見つけていへど、すさまじき心地して、何しにのぼりつらんとおぼえて、炭櫃のもとにゐたれば、又そこにあつまりゐて物などいふに、

 「なにがしさぶらふ」といと花やかにいふ。

 あやしく、

 「いつの間に何事のあるぞ」と

 問はすれば殿主司なり。

 「唯ここに人傳ならで申すべき事なん」といへば、

 さし出でて問ふに、「これ頭中將殿の奉らせ給ふ、御かへり疾く」といふに、いみじくにくみ給ふをいかなる御文ならんと思へど、「只今急ぎ見るべきにあらねば、いね、今きこえん」とて懷にひき入れて入りぬ。なほ人の物いふききなどするに、すなはち立ちかへりて、「さらばその有りつる文を賜りて來となん仰せられつる。疾く疾く」といふに、

 「あやしく伊勢の物語なるや」とて見れば、青き薄樣にいと清げに書き給へるを、心ときめきしつるさまにもあらざりけり。

   「蘭省の花の時錦帳の下」

と書きて、「末はいかにいかに」とあるを、如何はすべからん。御前のおはしまさば御覽ぜさすべきを、これがすゑ知り顏に、たどたどしき眞字は書きたらんも見ぐるしなど、思ひまはす程もなく、責めまどはせば、唯その奧に、すびつの消えたる炭のあるして、

   「草の庵を誰かたづねん」

と書きつけて取らせつれど、返事もいはで、

 みな寐て、翌朝いと疾く局におりたれば、源中將の聲して、「草の庵やあるある」とおどろおどろしう問へば、「などてか、さ人げなきものはあらん。玉の臺もとめ給はましかば、いで聞えてまし」といふ。「あなうれし、下にありけるよ。上まで尋ねんとしつるものを」とて、昨夜ありしやう、「頭中將の宿直所にて、少し人々しきかぎり、六位まで集りて、萬の人のうへ、昔今と語りていひし序に、猶このもの無下に絶えはてて後こそ、さすがにえあらね。もしいひ出づる事もやと待てど、いささか何とも思ひたらず。つれなきがいとねたきを、今宵惡しとも善しとも定めきりて止みなんかして、皆いひ合せたりしことを、只今は見るまじきとて入りたまひぬとて、主殿司來りしを、また追ひ歸して、ただ袖をとらへて、東西をさせず、こひとり持てこずば、文をかへしとれと誡めて、さばかり降る雨の盛に遣りたるに、いと疾く歸りきたり。これとてさし出でたるが、

 ありつる文なれば、

 かへしてけるかとうち見るにあはせてをめけば、あやし、いかなる事ぞとてみな寄りて見るに、いみじきぬす人かな。

 なほえこそすつまじけれと見さわぎて、これがもとつけてやらん、源中將つけよなどいふ。夜更くるまでつけ煩ひてなん止みにし。この事かならず語り傳ふべき事なりとなん定めし」と、いみじくかたはらいたきまでいひきかせて、

 「御名は今は草の庵となんつけたる」とて急ぎたちたまひぬれば、

 「いとわろき名の末まであらんこそ口惜しかるべけれ」といふほどに、修理亮則光「いみじきよろこび申しに、うへにやとて參りたりつる」といへば、「なぞ司召ありとも聞えぬに、何になり給へるぞ」といへば、「いで實にうれしき事の昨夜侍りしを、心もとなく思ひ明してなん。かばかり面目ある事なかりき」とて、はじめありける事ども、中將の語りつる同じ事どもをいひて、「この返事に隨ひてさる物ありとだに思はじと、頭中將の給ひしに、ただに來りしはなかなかよかりき。

 持て來りしたびは、如何ならんと胸つぶれて、まことにわろからんは、兄のためもわろかるべしと思ひしに、なのめにだにあらず。そこらの人の褒め感じて、兄こそ聞けとのたまひしかば、下心にはいとうれしけれど、さやうのかたには更にえ侍ふまじき身になんはべると申ししかば、言加へ聞き知れとにはあらず、ただ人に語れとてきかするぞとの給ひしなん、少し口をしき兄のおぼえに侍りしかど、これがもとつけ試るにいふべきやうなし。殊に又これが返しをやすべきなどいひ合せ、わろき事いひてはなかなかねたかるべしとて、夜中までなんおはせし。

ーーーーー

 これは身のためにも人のためにも、さていみじきよろこびには侍らずや。司召に少將のつかさ得て侍らんは、何とも思ふまじくなん」といへば、實に數多して、さる事あらんとも知らで、ねたくもありけるかな。これになん胸つぶれて覺ゆる。この妹兄といふことをば、うへまで皆しろしめし、殿上にも官名をばいはで、「せうと」とぞつけたる。

 物語などして居たる程に、「まづ」と召したれば參りたるに、この事仰せられんとてなりけり。うへの渡らせ給ひて、語り聞えさせ給ひて、「男ども皆扇に書きて持たる」と仰せらるるにこそ、あさましう何のいはせける事にかと覺えしか。

 さて後に袖几帳など取りのけて、思ひなほり給ふめりし。


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ぼけ→木瓜・呆け・惚け・暈け←模懸

2013-07-21 19:32:11 | 古事記字源
 ・・・何かを書き込もうとしてブログを開けてニュースなどを見て、寄り道して、イザ自分の書き込みサイトを開けたら、その「ナニか」がナンであったのか思い出せない・・・夢の記憶もそうであるけれど・・・ボケ・・・
 今朝の夢は忘れないようにとメモていたのだが、今、思い出したいことは「アスファルト舗装の蜃気楼の走水」のように消えて、切っ掛けも出てこない・・・
 夢の方は「大規模な火山爆発」・・・金髪の若い女性と火山弾、火山灰、その遠くの爆発から逃げようとしているのだけれど・・・
 「11+92」・・・「92→96←62→69←92」・・・
 「火山」と言えば「渡邊崋山(華山)」・・・
 彼の「慎機論」のタイトルだが、「不謹慎・慎重・戒慎・慎始敬終・敦厚周慎(馬援が龍伯高を評した言葉)・謹厳慎行」はあっても「慎機」の漢字熟語はない・・・
 1838年(天保九)十月十五日、「尚歯会」で近々、英国船モリソン号が「漂流民」を護送して渡来し、幕府が「撃攘策」をもって対処すると言う噂(うわさ)を聞いて崋山が、これを批判した書物・・・
 ボクの作文は「清危論」・・・「新規論」、「振起論」、「神姫論」である・・・「まくらのそうし」・・・
ーー↓

 渡辺 崋山

 (寛政五年九月十六日(1793年十月二十日)

    ~

  天保十二年十月十一日(1841年11月23日)

 武士、画家

 三河国田原藩(愛知県田原市東部)の藩士で、家老

 通称は登(のぼり・のぼる)」と「揮毫」

 諱は定静(さだやす)

 号は、はじめ華山で、三十五歳ころに崋山と改め

 号は他にも全楽堂・寓画堂 

ーー↓

 「慎機論」の

 「慎・愼」

 「ちか・つつしみ・つつしむ・のり・まこと・みつ・よし・シン・ジン」・・・「つつしむ・念を入れる・欠けめなく気を配る」・・・「シン・つつしむ・手落ちのないように気を配る」

 「慎重・戒慎・謹慎」

 「名のり」は「ちか・のり・まこと・ みつ・よし」

 音読みは、「シン」

 訓読みは、「しず・しずか・ちか・つつし・のり・まことみつ・よし」

 意味は、「慎む・注意深いなどの意・思慮深い」

 「欠けめなく気を配る・つつしみ・つつしみ深いこと・念入りな心」

 「注意して気を配る・したがう・まこと・思う」

 「説文解字・巻十」には「謹しむなり」とある。

 「謹」も「愼むなり」

 「手落ちのないように気を配る」

 「不慎」の意味は「不注意である・ちょっとうっかりする」

ーー

 「粛慎(シュクシン・みしはせ・あしはせ」

 満州(中国東北地方及びロシア・沿海地方)に住んでいた

 「ツングース系狩猟民族」

 また、後にこの民族が住んでいた地域の名称

 ・・・ナゼ、「粛慎(シュクシン」が「みしはせ・あしはせ」の「訓読み」の「音」なんだろ・・・?・・・「視氏(詞)葉施」、「足(亜詞)葉施」・・・古代中国でも

 「粛慎」という呼び名は

 「周代・春秋戦国時代」の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が

 「粛慎人」の自称を

 「音訳した呼び名」としたらしい・・・

 「息慎(ソクシン・Xīshèn)」

 「稷慎(ショクシン・Jìshèn)」とも表記

 ・・・「稷(ショク)」は五穀の一つの「粟(あわ)」の別称である・・・そして

ーー

 「稷」が現在の何にあたるかについては

 三説ある・・・らしい・・・ブログ辞典の記事には

 「爾雅(ジガ)」、

 「礼記(ライキ)」などの「経書の注釈」では、

 唐までは粟とされてきた。

 ところが

 唐代の

 本草家(薬草学者)が

 「穄(うるきび)」という説をたて、流布し、

 さらに

 清代に

 「程瑶田」が

 「高梁(コーリヤン)」説を主張。

 「五穀の筆頭におかれ、太古農事をつかさどった官、

  周の始祖の別名となった

  后稷、

  社稷として

  土地神にならぶ

  穀物神とされる稷の用法からも

  粟とするのが妥当」であろう・・・とある。

 「后稷(コウショク)」は、伝説上の

  周王朝の

 「姫」姓の祖先・中国の農業の神

 「史記・周本紀」は

 「帝嚳の元妃(正妃)」であった

 「姜原」が、野に出て

 「巨人の足跡」を踏んで妊娠、出産した子供

 最初、産んだ赤ん坊を母の「姜原」は

 道(ドウ)に捨て

 林(リン)に捨て

 氷(ヒョウ)の上に捨てたが

 飛鳥が

 赤子(エイジ=嬰児=みどりご)を暖めた

 拾いなおしてその赤ん坊を育て、

 「弃」と名づけた

 「弃(キ)=云+廾(キュウ・ク)

      =亠(なべぶた・音の略字)

       +

       弁(わきまえる・はなしべ・ベン)」は

 「棄(すてる・捨てる・キ)」と同じ意味の異字・・・である・・・「廾」は両手で捧げ持つ、また「拱」に通じて「こまぬく」の意を表す。 偏旁の意符としては「両手でもつ」、「捧げること」を示す・・・事が起きたときに、何もしないで傍観している。また、何もできないでいる。手をこまぬく。「こまぬく」とは、両手の指を胸の前で組んで挨拶する中国の敬礼の一で、「腕組み」をするということ・・・「姜原」は捨てた「嬰児→英字→英語」を「こまねいて傍観」してたんだろう・・・

ーー↓粛慎=息慎=稷慎

 「中国の周代の文献」、

 「日本書紀」にも「粛慎の記述文字」がある。

 後代の

 「挹婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)」と同系の民族・・・「満州族(清王朝)」が問題になるのは「江戸時代の幕末・明治」以降である・・・

ーーー↓ボクの「家頁」からの抜粋デス・・・

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/utax3.htm

ーーー↓百人一首・清少納言「62番目」

 62(清少納言・生死没?)・六拾弐(陸拾弐)

 夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ

 ↓

 よをこめて とりのそらねは はかるとも

 ↓

 与将古女出 斗理之素羅音葉 葉穫る斗模

 よに あふさかの せきは ゆるさし

 ↓

 与似 阿婦作掛之 施記葉 諭留作詞

 『清少納言』は「清原元輔」の女(娘)で、「橘則光」に嫁いだが離婚し、「正暦年間(990~994)」に「一條天皇」の「中宮『藤原定子』」に仕えた。代表的な「枕草子」は彼女の随筆であった。『藤原定子』の死後(1000)には宮廷出仕をやめ、晩年には出家して「尼」となった。

 当然、この和歌の示唆は「鳥(後鳥羽上皇)」が「鳴こう(泣こう・帰京の嘆願)」とも「尼将軍(北条政子)」は許るさじである。

 『清少納言(セイショウノウゴン)』・・・制勝之有権

 「清原元輔(セイゲンゲンヘンホ)」・・・制限源捕

 「橘則光(キツソクコウ)」・・・・・・・記柘即考

 「中宮・定子(テイシ)」・・・・・・・・定史・鵜史・綴史・帝史

      ↓

      ウ+一+ト+人

      鵜史(鵜野讃良)

 「鵜野讃良」は「持統天皇(広野姫)」であった。「鵜呑みに出来ない」とはコノコトである。

ーーーーー

 枕草子

 (八五段)・・・八十五段・八拾五段・捌足伍段

         8+5=13=十三=壱拾参=足参

         8×5=40=四十=四拾=肆足

 御佛名の

 あした、

 地獄繪の

 御屏風

 とりわたして、宮に御覽ぜさせ奉りたまふ。

 いみじう

 ゆゆしき

 事

 かぎりなし。

 「これ

  見よ

  かし」と仰せらるれど、

 「更に

  見侍

  らじ」とて、

 ゆゆしさに

 うへやに

 隱れ

 ふしぬ。

 雨

 いたく

 降りて

 徒然

 なりとて、

 殿上人

 うへの

 御局に

 召して

 御あそび

 あり。

 道方の

 少納言

 琵琶

 いと

 めでたし。

 濟政の

 君

 筝の琴、

 行成

 笛、

 經房の

 中將

 笙の

 笛など、

 いと

 おもろう

 ひと

 わたり

 遊びて、

 琵琶

 ひき

 やみ

 たる

 ほどに、

 大納言殿の、

 「琵琶の

  聲は

  やめて

  物語する

  こと

  遲し」と

 いふ事を

 誦じ

 給ひしに、

 隱れ

 ふし

 たり

 しも

 起き

 出でて、

 「罪は

  おそろし

  けれど、

  なほ

  物の

  めで

  たき

  は

  え

  止む

  ま

  じ」

 とて

 笑

 は

 る。

 御聲

 などの

 勝れ

 たる

 には

 あらねど、

 折の

 こと

 さらに

 作り

 いで

 たる

 やう

 なりし

 なり。

ーーーーー

 ・・・、「罪はおそろしけれど、なほ物のめでたきはえ止むまじ」・・・

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