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コジキジゲン

蛇足・佳人之奇遇

2013-07-08 21:38:00 | 古事記字源
 ダレイオス・・・「跎雄斯 (ダリウス・Dareiosz)」は「猫好き」・・・「等解纂史(トウカイサンシ)」・・・なるほど「東海散士」の「佳人之奇遇」、「 東洋之佳人」、「埃及(エジプト)近世史」・・・それに「仮名垣魯文」の「西洋道中膝栗毛」、「安愚楽鍋」・・・「散切り頭、文化、文明開化の音がする」である・・・
ーーー↓仮名書き露文(芦文・賂文)

 仮名垣魯文

 文政十二年一月六日

 (1829年2月9日)

   ~

 明治二十七年

 (1894年十一月八日)

 本名は野崎文蔵

 別号は鈍亭・猫々道人

 江戸京橋の魚(さかな・まな・うお・ギョ)屋(おく・ヤ)に生まれた

 大通人の

 細木(津国屋)香以

       (カイ?コウジ)の

 愛顧で

 花笠文京

(はながさブンケイ

 カリュウブンキョウ)に

 弟子

(でし・サイシ・おとこ)

 入りし

 戯作(げさく)者になる

 出世作は

 万延元年(1860)の

 「滑稽富士詣」を皮切りに

 「西洋道中膝栗毛・初編1870年」

    (なかひざくり解)  

 「安愚楽鍋・初編1871年」

 (あんぐらなべ・アングガクカ

  やすおろかたのしいなべ)

 等を次々と刊行

 明治七(1874)年

 「横浜毎日新聞」の雑報記者

 明治八年

 「仮名読新聞」を創刊

 「鳥追

  阿松

  海上

  新話(久保田彦作著)」などの

 新聞連載小説を掲載

 「高橋

  阿伝

  夜叉(やしゃ)・・・玄孫

  譚」などの当たり作を刊行

ーーー↓トウカイサンシ

 倒壊(凍解・倒壊・当会・韜晦)

 問う甲斐の纂の史

ーーー↓等外の三史

 東海散士

 嘉永五年十二月二日

 (1853年1月11日)

   ~

 大正11年

 (1922年九月二十五日)

 本名は

 柴四朗

 安房国(千葉県)の出身

 台湾軍司令官

 東京衛戍総督の

 柴五郎の兄

 ウィキペディア生年月日=1852年六月二十一日?

 富津に・・・生まれた

ーー↓ふつ

   布津・布都

 タケミカヅチ

 タケミカヅチオ

 雷神

 剣の神

 相撲の元祖

  建御雷之男神・建御雷神(古事記)

  武甕槌、武甕雷男神(日本書紀)

  建雷命

  別名

  建布都神(タケフツ)

  豊布都神(トヨフツ)

  鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神

  鹿島神(かしまのかみ)

  鯰絵では、

  要石に住まう

  地震を引き起こす

  大鯰を御する存在

  伊弉諾尊(伊邪那岐・いざなぎ)が

  火神

  軻遇突智(カグツチ)の

  首を切り落とした際に、

  十束剣

 「天之尾羽張(アメノオハバリ)」の

  根元についた血が

  岩に飛び散って生まれた

  三神の一柱

  剣のマタの名は

  伊都尾羽張(イツノオハバリ)

  「日本書紀」

  甕速日神(ミカハヤヒノカミ)

  という

  建御雷の租が生まれたという伝承と、

  建御雷も生まれたという

  伝承を併記

 「出雲の国譲り」の段では

 伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子

 伊都之尾羽張は

 天之尾羽張の別名

 建御雷が

 天鳥船(アメノトリフネ)とともに

 降臨

 出雲の

 伊耶佐小浜(いざさのおはま)

 に降り立って

 タケミカヅチは、

 十掬の剣(とつかのつるぎ)を

 波の上に逆さに突き立てて、

 剣の切っ先の上に胡坐をかき

 大国主に

 国譲りの

 談判

 大国主は、その判断を

 子らに託した

 子の事代主は服従

 建御名方神(タケミナカタ)は、

 建御雷に力比べで

 負け諏訪に遁走

 「日本書紀」では

 葦原中国平定の段で

 下界に降される

 二柱は、

 武甕槌神と

 建布都神

 武甕槌は鹿島神社の主神

 建布都神は香取神社の主神

 この二柱が

 出雲の

 五十田狭小汀(いたさのおはま)で

 十握の剣を

 砂に突き立て

 大己貴命(大国主)に

 国譲りをする

 大己貴命は・・題は己の記名

 自分の

 広矛を・・・・公募?

 献上し恭順

 「天津神」に条件として、

 須賀の宮を

 建てるコトとした

 二神に敵対する

 天津甕星を

 征した神が、

 香取に座すとするが

 服従させたのは

 建葉槌命(たけはづちのみこと)

     たてるはつちの見事

 ケンハツイ(ヅイ)メイ

 建(件・懸・献・憲)の言葉は

 対(堆・隋)の名

  ↓

 神武東征

 建御雷神が、

 熊野で

 神武天皇

 (磐余=磐餘)を・・・岩倉具視

            岩崎弥太郎

 助ける

 熊野で熊が出現(古事記)で

 劣勢

 あるいは

 毒気(日本書紀)で

 神武、軍も失神(失心)

 高倉下・・・・・・・・岩倉具視

  ↓

 高倉天皇

 応保元年九月三日

 (1161年9月23日)

   ~

 治承五年一月十四日

 (1181年2月6日)

 第八十代天皇

 (在位・仁安三年二月十九日

 (1168年4月9日)

   ~

 治承四年二月二十一日

 (1180年3月18日)

 諱は憲仁(のりひと)

 後白河天皇

 第七皇子?・・・六皇子?

 二条天皇と後白河院が対立し

 二条天皇の死後に擁立された

 六条天皇

 (二条天皇の子・高倉天皇の甥)を

 三歳で退位させ、

 天皇として擁立された

 父の後白河院が院政を敷き、

 平清盛の孫にあたる

 安徳天皇に皇位を譲った

 高倉天皇は

 平清盛の義理の甥

 清盛の娘、徳子を中宮とした

 笛の名手

 御陵

 京都市東山区

 清閑寺・・・清の漢字、官寺・韓事

         巻字・鑑事・監事、感じ・・・

 歌ノ中山町の

 後の

 清閑寺陵

 清閑寺旧境内の山腹に所在

 ・・・「二条(七十八代)・六条(七十九代)」で、「高倉(八十代・憲仁)」である・・・「明治憲法、日本国憲法二、六条」にナニが記録されているのか?・・・

 日本国憲法第二条(皇位の継承)「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」

 日本国憲法六条(天皇の任命権)「1天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する。2 天皇は、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する」

 「亜米利加合衆国憲法修正第2条」・・・合衆国憲法制定(1787年)から4年後の1791年の追加条項・・・「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を保持する権利は侵してはならない」・・・

 「四条天皇」は「八十七代」である・・・  「岩倉宮・忠成王」

  承久三年・

  (1221年)

   ~

  弘安二年三月十一日

  (1279年4月23日))

 第八十四代順徳天皇の

 第五皇子

 品位は無品

 岩倉宮、広御所宮を号す

 仁治三年(1242年)正月九日

 四条天皇が十二歳で崩御

 忠成王は

 土御門天皇の皇子・邦仁王とともに

 皇嗣候補として名が挙がり、

 忠成王には縁戚の九条道家

 邦仁王には土御門定通

 が後見

 鎌倉幕府執権の

 北条泰時は

 順徳天皇の皇子である

 忠成王の即位に難色

 軍事介入を仄めかしながら、

 鶴岡八幡宮の神意であるとして、

 同じく後鳥羽天皇の孫にあたる

 邦仁王を推し、

 同年の

 三月十八日に

 邦仁王(後嵯峨天皇)が即位

 忠成王は

 宝治三年(1249年)二月二十五日

 元服し、岩倉宮と呼ばれる

  ↓

 日本国憲法第四条(天皇の政治的中立、国事行為の委任)「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」・・・

ーーー↓憲法条文?

六十六代  一条天皇 986~1011

六十七代  三条天皇1011~1016

六十八代 後一条天皇1061~1036

七十一代 後三条天皇1068~1072

七十八代  二条天皇1158~1165

七十九代  六条天皇1165~1168

八十代   高倉天皇1168~1180

八十七代  四条天皇1232~1242

九十四代 後二条天皇1301~1308

ーーー↓

 ・・・これらの「天皇」の「條・条」は「条里」ではなく、「条理」で、「憲法条文」の示唆である・・・かな・・・?

  ↓

 歴代天皇の確定基準は

 大正時代末期

 確定は、水戸藩で編纂された

 「大日本史」の編纂過程で検討された

 「水戸学・尊王論」で歴代天皇は確定

ーーー↓神武天皇

 (磐余=磐餘)は

 (たかくらじ)の剣で

 挽回、勝利した

 そのいきさつは

 高倉の下の

 夢枕に

 天照大神や

 タカミムスビ(高木神)が

 現われ

 タケミカヅチを派遣しようとしたが

 建御雷が自分の剣をさずければ

 勝てると

 倉に穴を開けて

 神武のところへ降した

 その剣は

 布都御魂(ふつのみたま)

 佐士布都神(さじふつのかみ)

 甕布都神(みかふつのかみ)の

 別名で呼ばれている

 石上神宮のご神体・・・七支刀?

ーー↓東海散士

 富津に・・・←布津

 あった

 会津陣屋

(千葉県富津八坂神社の所在地

 房総半島・北に君津、木更津

 対岸には

 浦賀水道を挟んで

 三浦半島の神奈川県の

 横須賀が存在

 1889年、明治二十二年四月一日

 町村制施行で

 富津村、

 川名村、

 篠部村、

 新井村が合併し、

 周淮郡

 富津村

 が発足)

 に

 生まれる

 藩校

 日新館で学び、

 少年期に

 会津藩士として

 戊辰戦争に

 兄の

 柴謙介と・・・シバ(司馬)の見解

 共に従軍

 明治十年(1877年)

 別働隊として

 西南戦争に参戦

 熊本鎮台司令長官

 谷干城に・・・他にカンキ

          乾気←板垣退助

          官記

 見出され、

 二十七歳のとき

 岩崎家の援助を受けて

 アメリカに留学

 ペンシルベニア大学

 及び

 パシフィック・ビジネス・カレッジを卒業

 明治十八年(1885年)に帰国

 持論の

 「国権伸長」論を基調とする

 ナショナリズム小説

 「佳人之奇遇」初版を

 東海散士の名で発表

 以後、

 明治三十年(1897年)まで

 八編を刊行

 著書に

 「東洋之佳人」

 「埃及近世史」

 「乙未事変」に

   ↓

  1895年10月8日

  乙未事変(いつびじへん)

  李氏朝鮮の

  第二十六代国王

  高宗の王妃、

  閔妃が

    閔=ビン・ミン・あわれむ・憐れむ

  三浦梧楼らの計画で

  王宮に乱入した

  日本軍守備隊、

  領事館警察官、

  日本人壮士(大陸浪人)、

  朝鮮親衛隊、

  朝鮮訓練隊、

  朝鮮警務使らに

  暗殺

   ↓

 関与し、

 収監されたが裁判では無罪となった

 1892年(明治二十五年)以降

 福島県選出(進歩党・憲政本党)など

 衆議院議員として活躍

 十回当選

 農商務次官

 外務参政官などを歴任

 条約改正反対運動に尽力

 大正十一年(1922年)

 熱海の別荘で死去

 満69歳

 所属政党

 進歩党、

 憲政本党、

 立憲同志会、

 大同倶楽部

 戊辰戦争では

 会津城に籠城し

 母兄弟を失い

 自らも

 捕囚となった

ーー↓

 弱小民族の

 ナショナリズムを

 浪漫的に描く

 政治小説「佳人之奇遇」

 安房(あわ)の生まれ

 本名、柴四朗

 会津藩士

ーー↓蛇足

 「跎雄斯(ダリウス・Dareiosz)」

 「蹉跎神社」 

 延喜元年(901年)

 菅原道真が大宰府へ左遷される途中、山の上で休憩し、都の方を望んで名残を措しんだ場所(菅相塚)という現在「寝屋川市菅相塚町」

 その後を娘の

 苅屋姫が追いかけたが、間に合わず、

 「足摺り=蹉跎」して嘆いた

 その山を「蹉跎山」と呼ぶ

 大宰府でその話を聴いた道真は、

 三尺二寸の自身の木像を作って娘に送った

 天暦五年(951年)

 蹉跎山に社殿を造営して木像を祀り、

 近隣

 二十五箇村の産土神とした

 慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣で社殿は焼失

 神像は無事

 現在地に遷座して中振・出口両村の産土神として再建

 明治五年

 走谷村の産土神であった

 加茂健豆美命神社を合祀

 郷社に列格

 加茂健豆美命神社は

 明治十二年に分祀再建

 現在の社殿は

 明治二十二年三月に改築

 江戸時代まで、境内には

 聖徳太子が開基したと伝えられる

 龍光寺があった

 創建後は宮寺とされていたが、

 明治の神仏分離で廃され、

 仏像や曼陀羅などは近くの浄土院に移された

ーー↓蹉跎

    跎雄斯 (ダリウス) Dareiosz

  ダレイオス三世・(Dareios III)

  跎雄斯 (ダリウス) Dareiosz

 ペルシア帝国最後の王。

 在位、

 前336~前330年

 ダレイオス二世の曾孫←ダレイオス一世の玄孫?

 カスピ海南岸のカドゥシア人を征討し

 アルメニアの

 サトラップに任官

 アルタクセルクセス三世と

 アルセスの

 二人の王を殺した

 宦官バゴアス(Bagōas)は

 傍系から彼を選んで王に擁立した

 その後

 両者は対立

 ダレイオスはバゴアスを倒し

 宮廷政治の粛正をはかった

 マケドニアの

 アレクサンドロス大王が帝国に侵入し

 イッソス(前333)と

 ガウガメラ(前331)の

 両度の戦いで敗北

ーーー

 紀元前329年

 マケドニア王

 アレクサンドロス三世が中央アジアに侵攻

 マラカンダ(サマルカンド)を攻め落とし

 抵抗したソグド人の死者は

 約三万人

 中心都市の占領し

 将兵に

 ソグド女性との婚姻を奨励

 アレクサンドロスの死後、

 マラカンダを中心とする

 ソグディアナ一帯は

 周辺の諸民族の乱入で混乱

 その間にソグド人は東西貿易の商人として活躍

 奄蔡・康居時代

 中国の史書では初め、

 西方異民族のことを、

 専ら

 胡人と呼んでいた

 ソグド人・・・「商胡」

 この頃のソグディアナでは

 康居(こうきょ)という遊牧国家が支配

 西北にも

 奄蔡(えんさい)という遊牧国家が支配

 これらのもとでソグド人は生活

 前漢の

 武帝(在位:前141年~前87年)

 中国が西域(中央アジア)と通じ

 シルクロード交易は

 バクトリア商人に代わり、

 四世紀以降

 ソグド商人は東西交易の主役となった

 ソグド人商人はシルクロードの各所に

 ソグド人コロニーを形成

 交易の主導的な地位を成した

 粟特国・昭武九姓

 「ソグド」

 中国史書に登場するのは、

 「魏書・西域伝」

 そこには

 「粟特国(そくどくこく)」と記されている

 粟特国は漢代に

 「奄蔡」と呼ばれた地域にあたり、

 康居の西北、大沢(アラル海)沿いに在った

 北魏の時代(386年~534年)

 粟特国の商人が多く

 涼州の

 姑臧にまで来ていた

 この商人がソグド人

 旧康居である

 康国(サマルカンド)をはじめとした国々、

 いわゆる

 昭武九姓においてもソグド人は健在で、

 深目,高鼻,多髯の外見と商業が記されている

これらの国々はクシャーナ朝,エフタル,突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変遷したが、その間もソグド人は独自の文化を維持し、農業と商業に従事した。

 玄奘の記録

 中国唐の時代、ソグド人は玄奘の『大唐西域記』において、

 窣利人として記録

 窣利総記全文

 素葉(スーヤーブ)より

 西に数十の孤城があり、

 城ごとに長を立てている。命令をうけているのではないが、

 みな

 突厥に隷属している。

 素葉城から

 羯霜那国(史国)に至るまで、土地は

 窣利と名付け、人も

 「窣利人」という。

 文字・言語もその名称に随って

 「窣利文字・窣利語」と称している。

 字の成り立ちは簡略で、もと

 二十余文字であるが、

 それが組み合わさって

 語彙ができ、

 その方法が

 次第にひろがって

 文を記している。

 ほぼ記録があり、

 その文を

 竪(縦)に読んでいる。

 そのやり方を

 順次に伝授して、

 師匠も弟子もかえることがない。

 氈や褐を身につけ、

 皮や氎を着ている。

 裳も服もせまく、

 身にぴったりとし、

 頭髪をととのえて

 頭頂を出しているか、

 或いはまったく

 剃り、

 絵彩を額に巻く。

 体つきは大きいが、性格は臆病であり、風俗は軽薄で、詭詐がまかり通っている。おおむね欲張りで、父子ともに利殖をはかっている。財産の多い者を貴とし、身分の優劣の区別が無い。たとえ巨万の富を持った者でも、衣食は粗悪である。

 力田(農民)と

 逐利(商人)が半ばしている。

ーーーーー

 枕草子

 (七三段)・・・七拾参段・七十三段・漆足参段

         7+3=10=十=壱拾=足

         7×3=21=二十一=弐拾壱=弐足壱

 夜烏

 どもの

 ゐて、

 夜中

 ばかりに、

 いね

 騒ぐ。

 落ち

 まどひ、

 木

 伝ひて、

 寝

 起きたる

 声に

 鳴き

 たる

 こそ、

 昼の

 目に

 違ひて

 をかし

 けれ。

ーーーーー

 ・・・

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