「腰痛」の原因の殆んどが「ストレス」にあるらしい・・・
「椎間板ヘルニア」での腰痛はパーセンテージからすると僅かであるらしい・・・「腰痛」の解消は「体の静養・休憩・休息」ではなく、「動かすコト」である。
ボクの物理的、肉体的な「イタミ」の経験からすると「胃腸」の調子の悪いときに「腰に来るコト」が多い。「胃腸の調子」のヨシアシは殆んどが「便秘」であるか「下痢」で、その確認はトイレでの納得である。「尿道結石」の時には「尿道?」の痛みではなく、感じる痛みの場所は「腰」であった・・・
「楽天家」でもあるのだが・・・腰痛の原因が「脳内のストレス」だって、か?・・・ストレスそのものがナンであるのか、を、あまり考えたことがない。猫二匹とジィジィのボクだけの日常生活だから・・・
社会生活をする「人間の腰痛の原因」にはナニが「ストレスの原因」なのかをアレコレ詮索するなんじゃぁなくて、先ずは「日常生活」が前提的に「安全=危険」、「生=死」の表裏関係の「枠内」であることの「認識」と、「理不尽」であるコトの「能因」の「覚悟」が必要である、カナ。
「覚悟」は「諦めろ」、「我慢すれ」と言うコトではない。今まで生きてきた、今生きている、今からも生きていく、と言う「覚悟」である。その「日常性の枠内」で生きてきているコト自体が「ストレス」なのだ。「ストレス」は人間の動きを躍起する、生き方の目的を実現しようとする必要なモノである。肉体が「いたみ」として反応する無自覚なストレス、「喜怒哀楽」のバロメーターの「針の振幅」である。「目盛りの基準」は「(+)←0→(-)」である。そして、その「意識的な自覚」、ナニがあっても、ドッチに転んでもヨシとする「覚悟」がトリアエズは「イタミ」から「解放」してくれんじゃぁナイのかな・・・
パキスタン(巴基斯坦・巴基斯坦・巴基斯坦)の山村に小学校を作った「日本人女性」・・・60歳で無くなったそうだが、「日本人」、そして「女性」、そして「地球上の人間」だからこそできた・・・
「新古今和歌集」・・・「薬師丸ひろこ」の「歌」じゃぁないョ、なッ・・・「新古今話掛集」・・・今じゃァ、「3丁目のオバン」・・・
ーーーーー↓
枕草子
(六八段)・・・六拾八段・六十八段・陸足捌段
6+8=14=十四=壱拾四=足肆
6×8=48=四十八=四拾八=肆足捌
集・・・・・・「シュウ」のスベテの同音漢字
は
古萬葉集。・・「古い萬(万)葉集」である
「清少納言」は
「新しい萬(万)葉集」ではナイモノ、と
言っているんだろう
ーーー
古今。・・・・「古今」は「古今和歌集」であり、
「新古今和歌集」ではない
ーーー↓
仮名で書かれた
仮名序と
真名序の
二つの序文を持つ
延喜五年(905年)
四月
十八日
奏上
現存する「古今和歌集」には、
延喜五年以降に
詠まれた和歌も入れられている
奏覧の後、内容に手が加えられた?
・・・ナゼ、内容に手が加えられ、「追加」されたのか?
追加された「和歌」の歌には「何」が歌われているのか?
完成は
「延喜十二年(912年)ごろ」との説も・・・?
であるならば、「延喜五年(905年)四月十八日奏上」の「説明」がナゼ無いのか・・・
・・・加えて、「ごろの説?」はナゼ、「延喜十二年(912年)」なのか・・・
ーー
撰者
紀友則、
紀貫之、
凡河内躬恒、
壬生忠岑の
四人
序文では
友則が筆頭だが、
真名序の署名が
貫之である
巻第十六に
「紀友則が身まかりにける時によめる」の
詞書で
貫之と躬恒の歌が載せられている
編纂の中心は「貫之」ではなく、
彼は存在しなかったのではないか?
「友則」は途上で没したのではなく、
「友則」=「貫之」ではないのか・・・?
ダレかに取って
「紀貫之」の「名前」が必用だった・・・理由は
「日本書紀」=「紀貫之」である・・・そして、
平仮名で記録された
女の文字使用の「土佐日記」の執筆者であった、とされている・・・?・・・「土佐勤皇党」・・・土佐の金納を問う・・・?・・・武市瑞山(半平太)・・・後藤象二郎(諱は正本)だろう、坂本君・・・
ーー
成立過程
仮名序・真名序の
双方に記載
ーー↓
延喜五年四月十八日、
大内記
紀友則、
御書所預
紀貫之、
前
甲斐
少目
(凡)・・・おほ・おお・ボン・あまねし 凡河内躬恒、・・・おおこうち
右衛門府生
壬生忠岑・・みずのえのうまれ
等
に-おほせ・・・匂ほ(お)せ・臭ほ(お)せ
仁王ホセ・二王ホセ
られて、
万葉集に
入らぬ古き歌、
みづからのをも
奉らしめ
たまひて・・・玉比出・珠比出・球異出
多摩比出・多磨異出・太摩異出
なむ
(中略)
すべて
千歌、
二十巻、
名づけて
古今和歌集といふ
仮名序=日本語古文の序
ひら仮名・カタ仮名
ーー
爰に、・・・「爰」は「さる・エン・オン」
大内記
紀友則、
御書所預
紀貫之、
前
甲斐
少目
(凡)
凡河内躬恒、
右衛門府生
壬生忠岑
等に詔して、
各家集、
并・・・・・異・意・亥・違
に
古来の
旧歌を献ぜしめ、
続万葉集と
曰・・・・・いわく・違和句・岩(磐)区
ふ。・・・・付
是に於いて、
重ねて詔有り、
奉る所の歌を
部類して、
勒して
二十巻となし、
名づけて
古今和歌集と曰ふ。
(中略)
時に
延喜五年、
歳は
乙丑
に
次る
四月
十五日、
臣
貫之
謹みて
序す
真名序=漢字文の序
ーーー
後撰。・・・・「後撰和歌集」である
ーー↓
「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」
「村上天皇(むらかみてんのう)
延長四年六月二日(926年7月14日)
~
康保四年五月二十五日(967年7月5日)
第六十二代天皇
(在位
天慶九年四月二十八日(946年5月31日)
~
康保四年五月二十五日(967年7月5日)」
の勅命で編纂
二番目の
勅撰和歌集
体裁は
「古今和歌集」の形式を採り
春(上・中・下)、
夏、秋(上・中・下)、
冬、恋(六巻)、雑(四巻)、
離別(附 羇旅)、
賀歌(附 哀傷)の二十巻
総歌数は
1425首
序文無し
成立年時は不明
天暦五年(951年)十月に
宮中の昭陽舎(梨壺)に撰和歌所設置
寄人任命
源順
大中臣能宣
清原元輔
坂上望城
紀時文(梨壺の五人)が
「万葉集」の
訓詁と新たな勅撰集の編纂に当たり、
藤原伊尹が別当となって
統括しことが
「本朝文粋・巻十二・奉行文(源順)」
「後撰和歌集・藤原定家・
天福二年・書写本・書入・定家勘物」
にあるらしい・・・「天福二年」って、「転覆(顛覆・顚覆)の似撚、爾念(字捻)」だろう・・・?
ーーー
・・・ただ「後撰」とあるが・・・?・・・「何時の時代」の「後撰」なのか・・・
全二十巻で
定家本によれば
歌数は
総勢
1111首、・・・「壱千壱百壱拾壱」首
巻頭に
仮名序、
巻末に
真名序が付くが内容は
おおよそ同じ
仮名序は
紀貫之、
真名序は
紀淑望の作
伝本によっては
巻頭に真名序、
次に仮名序
その次に本文
のものがある
ただし
真名序を持たない
伝本も多い
真名序、仮名序は
どちらかが一が
後代の
偽作とする説があるらしい・・・
ーーー
古今伝授(こきんでんじゅ)
「古今和歌集」の講義師匠より受けた講義内容を筆記、師匠からその筆記内容に誤りがないかどうかの認可を受けるというもの。
御所伝授や地下伝授、堺伝授がある。
細川幽斎が
丹後田辺城で
石田三成の軍勢に囲まれ
死を覚悟した時、
この古今伝授を
三条西実枝から受けていたので
勅使が丹後に赴き和議を講じ、
その結果幽斎は城を開いて亀山城に移った。
この「古今伝授」は、
「この歌に詠まれている木は、何処の木」といった
由来に関する内容のものであった。
本居宣長は
「排蘆小船」で、これを
後代の捏造であると批判しているらしい・・・?・・・「本居宣長」にとってはこのハナシは「まずかった」のではないか?・・・「この歌に詠まれている木(キ)は、何処の木(キ)」の「キ=記・紀」だからであるカナ・・・?
「古今和歌集」は「枕草子(六八段)」で「古今」として「評価(?)」され、「源氏物語」でも「古今和歌集の和歌」が引用・・・
「和歌詠みの手本」として「古来風躰抄(藤原俊成)」にも「歌の本躰」は、「古今集」である、と云っているらしい・・・
「賀茂真淵」は、
「万葉集」=「ますらをぶり(男性的)」
「古今集」=「たをやめぶり(女性的)」
とした・・・これって、和歌文学としての「創作技法」ではなく、「男性的・女性的」の内容の対比だろう・・・
明治二十一年(1888年)
「再び歌よみに与ふる書(正岡子規)」で
「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」
と述べているらしい・・・なんせ、「子規(ほととぎす)」は「托卵(タクラン)鳥」の「杜鵑・霍公鳥・時鳥・杜宇・不如帰・沓手鳥・ 蜀魂・郭公・蜀鳥・杜魄・盤鵑」だから・・・
和辻哲郎は「愚劣」、
萩原朔太郎は「低能歌」、「凡庸の歌」
と云っているらしい・・・これは、「歌の創作技術の問題」なのか?・・・「国家主義者(?)」の男性社会の偏見だろう・・・
ーーーーー
・・・なるほど、いと、おもしろし「文字」の「集は古萬葉集。古今。後撰」で、「誤捻・語捻」では、あるナッ・・・
「椎間板ヘルニア」での腰痛はパーセンテージからすると僅かであるらしい・・・「腰痛」の解消は「体の静養・休憩・休息」ではなく、「動かすコト」である。
ボクの物理的、肉体的な「イタミ」の経験からすると「胃腸」の調子の悪いときに「腰に来るコト」が多い。「胃腸の調子」のヨシアシは殆んどが「便秘」であるか「下痢」で、その確認はトイレでの納得である。「尿道結石」の時には「尿道?」の痛みではなく、感じる痛みの場所は「腰」であった・・・
「楽天家」でもあるのだが・・・腰痛の原因が「脳内のストレス」だって、か?・・・ストレスそのものがナンであるのか、を、あまり考えたことがない。猫二匹とジィジィのボクだけの日常生活だから・・・
社会生活をする「人間の腰痛の原因」にはナニが「ストレスの原因」なのかをアレコレ詮索するなんじゃぁなくて、先ずは「日常生活」が前提的に「安全=危険」、「生=死」の表裏関係の「枠内」であることの「認識」と、「理不尽」であるコトの「能因」の「覚悟」が必要である、カナ。
「覚悟」は「諦めろ」、「我慢すれ」と言うコトではない。今まで生きてきた、今生きている、今からも生きていく、と言う「覚悟」である。その「日常性の枠内」で生きてきているコト自体が「ストレス」なのだ。「ストレス」は人間の動きを躍起する、生き方の目的を実現しようとする必要なモノである。肉体が「いたみ」として反応する無自覚なストレス、「喜怒哀楽」のバロメーターの「針の振幅」である。「目盛りの基準」は「(+)←0→(-)」である。そして、その「意識的な自覚」、ナニがあっても、ドッチに転んでもヨシとする「覚悟」がトリアエズは「イタミ」から「解放」してくれんじゃぁナイのかな・・・
パキスタン(巴基斯坦・巴基斯坦・巴基斯坦)の山村に小学校を作った「日本人女性」・・・60歳で無くなったそうだが、「日本人」、そして「女性」、そして「地球上の人間」だからこそできた・・・
「新古今和歌集」・・・「薬師丸ひろこ」の「歌」じゃぁないョ、なッ・・・「新古今話掛集」・・・今じゃァ、「3丁目のオバン」・・・
ーーーーー↓
枕草子
(六八段)・・・六拾八段・六十八段・陸足捌段
6+8=14=十四=壱拾四=足肆
6×8=48=四十八=四拾八=肆足捌
集・・・・・・「シュウ」のスベテの同音漢字
は
古萬葉集。・・「古い萬(万)葉集」である
「清少納言」は
「新しい萬(万)葉集」ではナイモノ、と
言っているんだろう
ーーー
古今。・・・・「古今」は「古今和歌集」であり、
「新古今和歌集」ではない
ーーー↓
仮名で書かれた
仮名序と
真名序の
二つの序文を持つ
延喜五年(905年)
四月
十八日
奏上
現存する「古今和歌集」には、
延喜五年以降に
詠まれた和歌も入れられている
奏覧の後、内容に手が加えられた?
・・・ナゼ、内容に手が加えられ、「追加」されたのか?
追加された「和歌」の歌には「何」が歌われているのか?
完成は
「延喜十二年(912年)ごろ」との説も・・・?
であるならば、「延喜五年(905年)四月十八日奏上」の「説明」がナゼ無いのか・・・
・・・加えて、「ごろの説?」はナゼ、「延喜十二年(912年)」なのか・・・
ーー
撰者
紀友則、
紀貫之、
凡河内躬恒、
壬生忠岑の
四人
序文では
友則が筆頭だが、
真名序の署名が
貫之である
巻第十六に
「紀友則が身まかりにける時によめる」の
詞書で
貫之と躬恒の歌が載せられている
編纂の中心は「貫之」ではなく、
彼は存在しなかったのではないか?
「友則」は途上で没したのではなく、
「友則」=「貫之」ではないのか・・・?
ダレかに取って
「紀貫之」の「名前」が必用だった・・・理由は
「日本書紀」=「紀貫之」である・・・そして、
平仮名で記録された
女の文字使用の「土佐日記」の執筆者であった、とされている・・・?・・・「土佐勤皇党」・・・土佐の金納を問う・・・?・・・武市瑞山(半平太)・・・後藤象二郎(諱は正本)だろう、坂本君・・・
ーー
成立過程
仮名序・真名序の
双方に記載
ーー↓
延喜五年四月十八日、
大内記
紀友則、
御書所預
紀貫之、
前
甲斐
少目
(凡)・・・おほ・おお・ボン・あまねし 凡河内躬恒、・・・おおこうち
右衛門府生
壬生忠岑・・みずのえのうまれ
等
に-おほせ・・・匂ほ(お)せ・臭ほ(お)せ
仁王ホセ・二王ホセ
られて、
万葉集に
入らぬ古き歌、
みづからのをも
奉らしめ
たまひて・・・玉比出・珠比出・球異出
多摩比出・多磨異出・太摩異出
なむ
(中略)
すべて
千歌、
二十巻、
名づけて
古今和歌集といふ
仮名序=日本語古文の序
ひら仮名・カタ仮名
ーー
爰に、・・・「爰」は「さる・エン・オン」
大内記
紀友則、
御書所預
紀貫之、
前
甲斐
少目
(凡)
凡河内躬恒、
右衛門府生
壬生忠岑
等に詔して、
各家集、
并・・・・・異・意・亥・違
に
古来の
旧歌を献ぜしめ、
続万葉集と
曰・・・・・いわく・違和句・岩(磐)区
ふ。・・・・付
是に於いて、
重ねて詔有り、
奉る所の歌を
部類して、
勒して
二十巻となし、
名づけて
古今和歌集と曰ふ。
(中略)
時に
延喜五年、
歳は
乙丑
に
次る
四月
十五日、
臣
貫之
謹みて
序す
真名序=漢字文の序
ーーー
後撰。・・・・「後撰和歌集」である
ーー↓
「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」
「村上天皇(むらかみてんのう)
延長四年六月二日(926年7月14日)
~
康保四年五月二十五日(967年7月5日)
第六十二代天皇
(在位
天慶九年四月二十八日(946年5月31日)
~
康保四年五月二十五日(967年7月5日)」
の勅命で編纂
二番目の
勅撰和歌集
体裁は
「古今和歌集」の形式を採り
春(上・中・下)、
夏、秋(上・中・下)、
冬、恋(六巻)、雑(四巻)、
離別(附 羇旅)、
賀歌(附 哀傷)の二十巻
総歌数は
1425首
序文無し
成立年時は不明
天暦五年(951年)十月に
宮中の昭陽舎(梨壺)に撰和歌所設置
寄人任命
源順
大中臣能宣
清原元輔
坂上望城
紀時文(梨壺の五人)が
「万葉集」の
訓詁と新たな勅撰集の編纂に当たり、
藤原伊尹が別当となって
統括しことが
「本朝文粋・巻十二・奉行文(源順)」
「後撰和歌集・藤原定家・
天福二年・書写本・書入・定家勘物」
にあるらしい・・・「天福二年」って、「転覆(顛覆・顚覆)の似撚、爾念(字捻)」だろう・・・?
ーーー
・・・ただ「後撰」とあるが・・・?・・・「何時の時代」の「後撰」なのか・・・
全二十巻で
定家本によれば
歌数は
総勢
1111首、・・・「壱千壱百壱拾壱」首
巻頭に
仮名序、
巻末に
真名序が付くが内容は
おおよそ同じ
仮名序は
紀貫之、
真名序は
紀淑望の作
伝本によっては
巻頭に真名序、
次に仮名序
その次に本文
のものがある
ただし
真名序を持たない
伝本も多い
真名序、仮名序は
どちらかが一が
後代の
偽作とする説があるらしい・・・
ーーー
古今伝授(こきんでんじゅ)
「古今和歌集」の講義師匠より受けた講義内容を筆記、師匠からその筆記内容に誤りがないかどうかの認可を受けるというもの。
御所伝授や地下伝授、堺伝授がある。
細川幽斎が
丹後田辺城で
石田三成の軍勢に囲まれ
死を覚悟した時、
この古今伝授を
三条西実枝から受けていたので
勅使が丹後に赴き和議を講じ、
その結果幽斎は城を開いて亀山城に移った。
この「古今伝授」は、
「この歌に詠まれている木は、何処の木」といった
由来に関する内容のものであった。
本居宣長は
「排蘆小船」で、これを
後代の捏造であると批判しているらしい・・・?・・・「本居宣長」にとってはこのハナシは「まずかった」のではないか?・・・「この歌に詠まれている木(キ)は、何処の木(キ)」の「キ=記・紀」だからであるカナ・・・?
「古今和歌集」は「枕草子(六八段)」で「古今」として「評価(?)」され、「源氏物語」でも「古今和歌集の和歌」が引用・・・
「和歌詠みの手本」として「古来風躰抄(藤原俊成)」にも「歌の本躰」は、「古今集」である、と云っているらしい・・・
「賀茂真淵」は、
「万葉集」=「ますらをぶり(男性的)」
「古今集」=「たをやめぶり(女性的)」
とした・・・これって、和歌文学としての「創作技法」ではなく、「男性的・女性的」の内容の対比だろう・・・
明治二十一年(1888年)
「再び歌よみに与ふる書(正岡子規)」で
「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」
と述べているらしい・・・なんせ、「子規(ほととぎす)」は「托卵(タクラン)鳥」の「杜鵑・霍公鳥・時鳥・杜宇・不如帰・沓手鳥・ 蜀魂・郭公・蜀鳥・杜魄・盤鵑」だから・・・
和辻哲郎は「愚劣」、
萩原朔太郎は「低能歌」、「凡庸の歌」
と云っているらしい・・・これは、「歌の創作技術の問題」なのか?・・・「国家主義者(?)」の男性社会の偏見だろう・・・
ーーーーー
・・・なるほど、いと、おもしろし「文字」の「集は古萬葉集。古今。後撰」で、「誤捻・語捻」では、あるナッ・・・