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コジキジゲン

埃及

2013-07-05 18:03:25 | 古事記字源
 ナニを云いたいんだか・・・「政治屋ども」・・・エジプト(埃及)はシナリヲ通りだが・・・
ーー

 「東京新聞 ‎- 2 時間前

 【カイロ=今村実】

 反モルシ政権デモが拡大したエジプトで、軍最高評議会のシシ議長は三日夜、国営テレビを通じ、憲法を停止して暫定政府を樹立すると宣言した。モルシ大統領の権限を剥奪し、最高憲法裁判所のマンスール長官に移す」・・・

ーー

 「(民主的?)国民投票」で選ばれた「穏健派イスラム原理主義組織ムスリム同胞団」の「理屈」のドコが「ワルイ」んだか?・・・「政治(立法・行政)と宗教(思想)分離」で「いのち」を賭ける「カチ」はアルのか?・・・「経済(私有財産)システムと宗教分離」・・・「イスラム法(シャリーア)」は「宗教=民族(同胞)思想の枠内」だからだろう・・・「個々人の人間思想」が「成熟」していない「格差社会地域」では「暴動」は「支配階級の宗教思想」に集約されていく・・・ロシア革命時のロシア周辺「アラブ系諸国家のヒトビト」は「革命(思想)万歳」ではなく、「ジハード(聖戦思想)万歳」を唱えて「武装革命」に参加していった・・・「社会革命の構築思想」ではなく、目の前にある現実生活の「衣食住の飢餓」からの「解放(思想)」は「組織化された革命思想」でなくてもヨカッタのである・・・「スローガン」は「人参」であった・・・そして「食える場所」は「階級序列社会の軍隊」であった・・・そして、スベテの事象が「カミ」であっても結果、イイのである。「人間自身の克ち取ってきたモノ」と考える余裕は「餓死寸前、餓死に怯えているヒトビト」にはない・・・だろう・・・「衣食住足って」の「秩序(礼儀)」は「ダレのモノ」であるのか?・・・

 「ムハンマド(Muḥammad・570年頃~632年6月8日)」はナニを望んでいたのか?・・・人々が食糧不足に陥ったとき、「富者からの略奪」・・・?

 「メッカの2000世帯の移住は、メディナに食糧不足をもたらした。マホメットはこの問題を、飢えた人々がするのと同じようにして解決した。すなわち、得られるところから食糧を略奪したのである(世界の歴史・デュラント=ウィリアムジェームズデュラント・1885年11月5日~1981年11月7日)・アメリカの作家・学者・哲学者?)」・・・直接的で、ストレートなコトバではあるな・・・

 ボクはこの「世界の歴史・デュラント」を読んだことも、聞いたコトがなかった。今回、ブログで初めて知った・・・

 「暴動」はナゼ起きるのか・・・「富者からの略奪」としての「暴動」は「革命」に直結はしないが「切っ掛け」にはナルである・・・だが、そもそも「略奪」される「富者」なるモノがナゼ存在するのか?・・・

 「富者からの略奪」が「ザカート」と「サダカ」・・・ですか・・・宗教的な「施し・喜捨」の観念のもと一体化して「イスラム共同体の社会福祉システム」・・・「宗教的」でなくても「イイ」だろう、「人間的」であり、「自然界の動物たち」も時折、その行動を「異種間」でとる・・・ハラがヘッテいては如何ともし難いが・・・

 「自由な喜捨」・・・「預言者ムハンマドは「サダカ」という名で、神に仕える者の徳目として自由な喜捨を推奨していたが、義務ではなかった」・・・個々人の「自由」だった、のだ。

 630年以後・・・新たに従った部族に対する「喜捨の義務化」がおこなわれ、初代カリフ、「アブー・バクル」以降、現在につながる定義が「ウラマー」らにより策定・法制化・・・

 「ザカート」と「サダカ」、二つの混用が見られ、「サダカの性格」を「サダカ・アッタタッウー(自発的サダカ)」という二重化した言い回しが用いられた・・・

 「義務としての喜捨」を「ザカート」、

 「自発的喜捨」を「サダカ」としたらしい・・・「日本語」では「定かとはシナイ」であろう・・・

 「おぼつかない(覚束無い)」とは・・・

 物事の成り行きが疑わしい。うまくいきそうもない。

 はっきりしない。あやふやである

 確かでなくはっきりしない。ぼんやりしている。

 うまく行く見込みがない。疑わしい。だめだろう。

 uncertain

 doubtful・dubious

 unlikely

 almost hopeless

 見込み薄・たどたどしい

 生半可・不可能

 乏しい

 あやふや

 不如意・儘ならない

 しっか(確)りしない・・・不確定・不確証

 しっか(聢)りしない・・・不聢

         未(非)+「定木・定規」?

 「聢=耳+定」は「国字」

 正確さまたは精密度を示す

 丁度・きちんと・きちんきちん・きちっと

 正に・ちょうど・ぴたっと

 将に・かっきり・ちゃんと

 堅いか押えられたさま

 ぎゅうっと・ぴしっと・ぴっちりと

 しっかと・犇と・きゅうきゅうと

 ひしひしと・ぎっしりと・ぴたっと

 certainly・for sure

 distinctly・clearly・exactly

 firmly

 蹌踉めく

 弱い・危ない

 儚=顭(はかない・ボウ・くらむ)

 くらい、はっきりしない

 「昏昧」という意味で、

 〔爾雅・釈訓〕に「儚儚、佪佪、惛なり」とある

 「段注本」では儚の字の注に

 「爾雅」を引いて儚は𠐿だろうとしている

 「集韻」は懜の本字が儚であるとしている

 「段注本」

   ↓

 清の「段玉裁」が著した

 「説文解字注・三十巻(段注本)」

ーーーー↓おぼつかない(覚束無い)

 枕草子

 (七一段)・・・七拾壱段・七十一段・漆足壱段

         7+1=8=八=捌

         7×1=7=七=漆

 おぼ

 つか

 なき

 もの

 十二年の

 山籠の

 法師の

 女親。

 知らぬ

 所に

 闇

 なるに

 行き

 たるに、

 あらは

 にも

 ぞ

 ある

 とて、

 火も

 ともさで、

 さすがに

 なみ

 ゐ

 たる。

 今

 いで

 來る

 ものの

 心も

 知らぬに、

 やんごと

 なき

 物

 もたせて

 人の

 許

 やり

 たるに、

 遲く

 かへる。

 物

 いはぬ

 兒の、

 そ-り

  (り-くつがへり)

 くつがへりて

 人にも

 抱かれず

 泣きたる。

 暗きに

 覆

 盆

 子

 食ひたる。

 人の

 顏

 見しらぬ

 物見。

ーーーーー

 ・・・「人の顏見しらぬ物見」とは「傍観主義者・客観主義者」なんだろう・・・

ーーー

 そもそも「アラブ」と「ユダヤ」の「対立関係」は・・・

 「ユダヤ教徒」が「マホメットの喜捨(?)思想」を「拒否」した・・・ところから始まった・・・?・・・「マホメット」は「旧約聖書(排外主義)・新約聖書(非合理主義)」を「誤解」したのでは無く、その「本質」に「人間」としての「現実主義的」な「異議=意義」を唱えた・・・のだろう・・・「初期の宗教思想」は、いずれも「経済的(生活=衣食住)格差」からの「解放」からはじまった・・・?

 613年頃

 ムハンマドは

 アラビア人伝統の

 多神教の聖地であった

 「マッカ(メッカ)」の人々に「教え」説き始める

 だが、

 マッカ(メッカ)の支配層たちは、

 ムハンマドと

 その信徒(ムスリム)たちに

 迫害を加えた

 伯父

 「アブー=ターリブ」は

 「ハーシム家」を代表して

 ムハンマドを保護していたが

 619年頃死亡し、

 同じ頃

 妻

 「ハディージャ」も死亡

 622年

 ムハンマドは、

 ヤスリブ(マディーナ=メディナ)の住民から

 アラブ部族間の

 調停者として招かれ

 これをきっかけに、

 マッカで迫害されていたムスリムは

 ヤスリブに移住

 マッカの支配層が、

 刺客を放って

 ムハンマド暗殺を企てたが

 彼は

 甥の

 「アリー」の協力で、

 新月の夜に

 「アブー・バクル」と共にマッカを脱出

 ムハンマドらは

 10日ほどでヤスリブに無事到着

 この事件を

 「ヒジュラ(聖遷、遷都)といい

 「ヒジュラ暦元年」と定め

 「ヤスリブ」の名を

 「マディーナ(預言者の町)=メディナ」と改めた

 マディーナでは

 マッカからの移住者(ムハージルーン)と

 ヤスリブの入信者(アンサール)を結合し

 ムハンマドを長とする

 「イスラーム共同体」=「ウンマ」を結成

 「ウンマ」勢力増大に反発する

 ユダヤ教徒などを排除し

 「ウンマ=イスラーム共同体」の基礎を築く

 「ウンマ=イスラーム共同体」は

 「ベドウィン(アラブ遊牧民)」の

 諸部族と同盟を結び

 「バドル」で戦った

 バドルの戦いで多くの戦死者を出した

 「マッカ=メッカ」支配層は報復戦として

 再び

 「マディーナ=メディナ」に侵攻

 マディーナ軍は戦闘前に離反者を出し

 マッカ軍の別働隊に大敗

 ムハンマド負傷した(ウフドの戦い)

 ムハンマドは

 「マッカ=メッカ」支配層と通じていた

 「ユダヤ人」らを追放した

 627年

 マッカ軍と、その諸部族の大軍が

 ムスリム勢力圏を狙って侵攻

 塹壕を築いて防戦

 「塹壕(ハンダク)」の戦い

 マッカ軍を撃退したイスラム軍は

 武装を解かずマッカと通じて

 マディーナのイスラーム共同体と

 敵対していた

 マディーナ東南部の

 ユダヤ教徒、

 クライザ族の集落を

 包囲襲撃し、

 無条件降服させ

 成人男子を

 全員処刑虐殺

 女性や子供は捕虜として

 奴隷身分に落とし、財産を没収

 「クライザ族虐殺事件」

ーーーー↓「現存・古事記原文」より部分抜粋

 「故、伊邪那美者、

    因生火、

    遂

    

    避坐也」

 「故爾、伊邪那岐命

  詔之、

  愛我

  那邇妹命乎(那邇二字以音)

  下效此。

  謂

  易

  子之

  一木乎、

  乃

  匍匐

  御

  枕方、

  匍匐

  御

  足方

  而

  哭時、

  於

  御淚

  所

  成、

  坐

  香山

  之

  畝尾

  木本、

  名

  泣澤女。

  故、

  其所

  避

  之

  伊邪那美者、

  葬

  出雲國

  與

  伯伎國

  堺

  比婆之

  山

  也」

 「於是、

  伊邪那岐命、

  拔所

  御佩之

  十拳劒、

  斬

  其子

  迦具土之頸」

 ・・・

 「最後

  其妹、

  伊邪那美命、

  身自追來焉。

  爾

  千引

  石

  引塞

  其

  黃泉比良

  坂、

  其

  石置

  中、

  各對立而、

  度事戸之

  時、

  伊邪那美命

  言、

  愛我

  那勢命、

  爲如

  此者、

  汝國

  之

  人草、

  一日

  絞殺

  千頭。

  爾、

  伊邪那岐命

  詔、

  愛

  我

  那邇妹命、

  汝

  爲然者、

  吾

  一日

  立

  千五百

  產屋。

  是以

  一日

  必

  千人死、

  一日

  必

  千五百人生也。

  故、

  號其

  伊邪那美命

  謂

  黃泉津大。

  亦云、

  以

  其追

  斯伎斯(此三字以音)。

  而、

  號

  道敷

  大。

  亦

  所

  塞

  其

  黃泉坂

  之

  石者、

  號

  道反

  大、

  亦

  謂

  塞坐

  黃泉戸大。

  故、

  其所

  謂

  黃泉比良坂者、

  今謂

  出雲國

  之

  伊賦夜坂

  也。

 是以

 伊邪那伎大

 詔、

 吾者

 到於

 伊那志許米

 上志許米岐(此九字以音)。

 穢國

 而在

 祁理。(此二字以音)。

 故、

 吾者

 爲

 御身之禊而、

 到坐

 竺紫

 日向

 之

 橘

 小門

 之

 阿波岐(此三字以音)。

 原而、

 禊祓

 也。

ーーーーー

 ・・・・?・・・

コメント
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