ナニを云いたいんだか・・・「政治屋ども」・・・エジプト(埃及)はシナリヲ通りだが・・・
ーー
「東京新聞 - 2 時間前
【カイロ=今村実】
反モルシ政権デモが拡大したエジプトで、軍最高評議会のシシ議長は三日夜、国営テレビを通じ、憲法を停止して暫定政府を樹立すると宣言した。モルシ大統領の権限を剥奪し、最高憲法裁判所のマンスール長官に移す」・・・
ーー
「(民主的?)国民投票」で選ばれた「穏健派イスラム原理主義組織ムスリム同胞団」の「理屈」のドコが「ワルイ」んだか?・・・「政治(立法・行政)と宗教(思想)分離」で「いのち」を賭ける「カチ」はアルのか?・・・「経済(私有財産)システムと宗教分離」・・・「イスラム法(シャリーア)」は「宗教=民族(同胞)思想の枠内」だからだろう・・・「個々人の人間思想」が「成熟」していない「格差社会地域」では「暴動」は「支配階級の宗教思想」に集約されていく・・・ロシア革命時のロシア周辺「アラブ系諸国家のヒトビト」は「革命(思想)万歳」ではなく、「ジハード(聖戦思想)万歳」を唱えて「武装革命」に参加していった・・・「社会革命の構築思想」ではなく、目の前にある現実生活の「衣食住の飢餓」からの「解放(思想)」は「組織化された革命思想」でなくてもヨカッタのである・・・「スローガン」は「人参」であった・・・そして「食える場所」は「階級序列社会の軍隊」であった・・・そして、スベテの事象が「カミ」であっても結果、イイのである。「人間自身の克ち取ってきたモノ」と考える余裕は「餓死寸前、餓死に怯えているヒトビト」にはない・・・だろう・・・「衣食住足って」の「秩序(礼儀)」は「ダレのモノ」であるのか?・・・
「ムハンマド(Muḥammad・570年頃~632年6月8日)」はナニを望んでいたのか?・・・人々が食糧不足に陥ったとき、「富者からの略奪」・・・?
「メッカの2000世帯の移住は、メディナに食糧不足をもたらした。マホメットはこの問題を、飢えた人々がするのと同じようにして解決した。すなわち、得られるところから食糧を略奪したのである(世界の歴史・デュラント=ウィリアムジェームズデュラント・1885年11月5日~1981年11月7日)・アメリカの作家・学者・哲学者?)」・・・直接的で、ストレートなコトバではあるな・・・
ボクはこの「世界の歴史・デュラント」を読んだことも、聞いたコトがなかった。今回、ブログで初めて知った・・・
「暴動」はナゼ起きるのか・・・「富者からの略奪」としての「暴動」は「革命」に直結はしないが「切っ掛け」にはナルである・・・だが、そもそも「略奪」される「富者」なるモノがナゼ存在するのか?・・・
「富者からの略奪」が「ザカート」と「サダカ」・・・ですか・・・宗教的な「施し・喜捨」の観念のもと一体化して「イスラム共同体の社会福祉システム」・・・「宗教的」でなくても「イイ」だろう、「人間的」であり、「自然界の動物たち」も時折、その行動を「異種間」でとる・・・ハラがヘッテいては如何ともし難いが・・・
「自由な喜捨」・・・「預言者ムハンマドは「サダカ」という名で、神に仕える者の徳目として自由な喜捨を推奨していたが、義務ではなかった」・・・個々人の「自由」だった、のだ。
630年以後・・・新たに従った部族に対する「喜捨の義務化」がおこなわれ、初代カリフ、「アブー・バクル」以降、現在につながる定義が「ウラマー」らにより策定・法制化・・・
「ザカート」と「サダカ」、二つの混用が見られ、「サダカの性格」を「サダカ・アッタタッウー(自発的サダカ)」という二重化した言い回しが用いられた・・・
「義務としての喜捨」を「ザカート」、
「自発的喜捨」を「サダカ」としたらしい・・・「日本語」では「定かとはシナイ」であろう・・・
「おぼつかない(覚束無い)」とは・・・
物事の成り行きが疑わしい。うまくいきそうもない。
はっきりしない。あやふやである
確かでなくはっきりしない。ぼんやりしている。
うまく行く見込みがない。疑わしい。だめだろう。
uncertain
doubtful・dubious
unlikely
almost hopeless
見込み薄・たどたどしい
生半可・不可能
乏しい
あやふや
不如意・儘ならない
しっか(確)りしない・・・不確定・不確証
しっか(聢)りしない・・・不聢
未(非)+「定木・定規」?
「聢=耳+定」は「国字」
正確さまたは精密度を示す
丁度・きちんと・きちんきちん・きちっと
正に・ちょうど・ぴたっと
将に・かっきり・ちゃんと
堅いか押えられたさま
ぎゅうっと・ぴしっと・ぴっちりと
しっかと・犇と・きゅうきゅうと
ひしひしと・ぎっしりと・ぴたっと
certainly・for sure
distinctly・clearly・exactly
firmly
蹌踉めく
弱い・危ない
儚=顭(はかない・ボウ・くらむ)
くらい、はっきりしない
「昏昧」という意味で、
〔爾雅・釈訓〕に「儚儚、佪佪、惛なり」とある
「段注本」では儚の字の注に
「爾雅」を引いて儚は𠐿だろうとしている
「集韻」は懜の本字が儚であるとしている
「段注本」
↓
清の「段玉裁」が著した
「説文解字注・三十巻(段注本)」
ーーーー↓おぼつかない(覚束無い)
枕草子
(七一段)・・・七拾壱段・七十一段・漆足壱段
7+1=8=八=捌
7×1=7=七=漆
おぼ
つか
なき
もの
十二年の
山籠の
法師の
女親。
知らぬ
所に
闇
なるに
行き
たるに、
あらは
にも
ぞ
ある
とて、
火も
ともさで、
さすがに
なみ
ゐ
たる。
今
いで
來る
ものの
心も
知らぬに、
やんごと
なき
物
もたせて
人の
許
やり
たるに、
遲く
かへる。
物
いはぬ
兒の、
そ-り
(り-くつがへり)
くつがへりて
人にも
抱かれず
泣きたる。
暗きに
覆
盆
子
食ひたる。
人の
顏
見しらぬ
物見。
ーーーーー
・・・「人の顏見しらぬ物見」とは「傍観主義者・客観主義者」なんだろう・・・
ーーー
そもそも「アラブ」と「ユダヤ」の「対立関係」は・・・
「ユダヤ教徒」が「マホメットの喜捨(?)思想」を「拒否」した・・・ところから始まった・・・?・・・「マホメット」は「旧約聖書(排外主義)・新約聖書(非合理主義)」を「誤解」したのでは無く、その「本質」に「人間」としての「現実主義的」な「異議=意義」を唱えた・・・のだろう・・・「初期の宗教思想」は、いずれも「経済的(生活=衣食住)格差」からの「解放」からはじまった・・・?
613年頃
ムハンマドは
アラビア人伝統の
多神教の聖地であった
「マッカ(メッカ)」の人々に「教え」説き始める
だが、
マッカ(メッカ)の支配層たちは、
ムハンマドと
その信徒(ムスリム)たちに
迫害を加えた
伯父
「アブー=ターリブ」は
「ハーシム家」を代表して
ムハンマドを保護していたが
619年頃死亡し、
同じ頃
妻
「ハディージャ」も死亡
622年
ムハンマドは、
ヤスリブ(マディーナ=メディナ)の住民から
アラブ部族間の
調停者として招かれ
これをきっかけに、
マッカで迫害されていたムスリムは
ヤスリブに移住
マッカの支配層が、
刺客を放って
ムハンマド暗殺を企てたが
彼は
甥の
「アリー」の協力で、
新月の夜に
「アブー・バクル」と共にマッカを脱出
ムハンマドらは
10日ほどでヤスリブに無事到着
この事件を
「ヒジュラ(聖遷、遷都)といい
「ヒジュラ暦元年」と定め
「ヤスリブ」の名を
「マディーナ(預言者の町)=メディナ」と改めた
マディーナでは
マッカからの移住者(ムハージルーン)と
ヤスリブの入信者(アンサール)を結合し
ムハンマドを長とする
「イスラーム共同体」=「ウンマ」を結成
「ウンマ」勢力増大に反発する
ユダヤ教徒などを排除し
「ウンマ=イスラーム共同体」の基礎を築く
「ウンマ=イスラーム共同体」は
「ベドウィン(アラブ遊牧民)」の
諸部族と同盟を結び
「バドル」で戦った
バドルの戦いで多くの戦死者を出した
「マッカ=メッカ」支配層は報復戦として
再び
「マディーナ=メディナ」に侵攻
マディーナ軍は戦闘前に離反者を出し
マッカ軍の別働隊に大敗
ムハンマド負傷した(ウフドの戦い)
ムハンマドは
「マッカ=メッカ」支配層と通じていた
「ユダヤ人」らを追放した
627年
マッカ軍と、その諸部族の大軍が
ムスリム勢力圏を狙って侵攻
塹壕を築いて防戦
「塹壕(ハンダク)」の戦い
マッカ軍を撃退したイスラム軍は
武装を解かずマッカと通じて
マディーナのイスラーム共同体と
敵対していた
マディーナ東南部の
ユダヤ教徒、
クライザ族の集落を
包囲襲撃し、
無条件降服させ
成人男子を
全員処刑虐殺
女性や子供は捕虜として
奴隷身分に落とし、財産を没収
「クライザ族虐殺事件」
ーーーー↓「現存・古事記原文」より部分抜粋
「故、伊邪那美者、
因生火、
遂
避坐也」
「故爾、伊邪那岐命
詔之、
愛我
那邇妹命乎(那邇二字以音)
下效此。
謂
易
子之
一木乎、
乃
匍匐
御
枕方、
匍匐
御
足方
而
哭時、
於
御淚
所
成、
坐
香山
之
畝尾
木本、
名
泣澤女。
故、
其所
避
之
伊邪那美者、
葬
出雲國
與
伯伎國
堺
比婆之
山
也」
「於是、
伊邪那岐命、
拔所
御佩之
十拳劒、
斬
其子
迦具土之頸」
・・・
「最後
其妹、
伊邪那美命、
身自追來焉。
爾
千引
石
引塞
其
黃泉比良
坂、
其
石置
中、
各對立而、
度事戸之
時、
伊邪那美命
言、
愛我
那勢命、
爲如
此者、
汝國
之
人草、
一日
絞殺
千頭。
爾、
伊邪那岐命
詔、
愛
我
那邇妹命、
汝
爲然者、
吾
一日
立
千五百
產屋。
是以
一日
必
千人死、
一日
必
千五百人生也。
故、
號其
伊邪那美命
謂
黃泉津大。
亦云、
以
其追
斯伎斯(此三字以音)。
而、
號
道敷
大。
亦
所
塞
其
黃泉坂
之
石者、
號
道反
大、
亦
謂
塞坐
黃泉戸大。
故、
其所
謂
黃泉比良坂者、
今謂
出雲國
之
伊賦夜坂
也。
是以
伊邪那伎大
詔、
吾者
到於
伊那志許米
上志許米岐(此九字以音)。
穢國
而在
祁理。(此二字以音)。
故、
吾者
爲
御身之禊而、
到坐
竺紫
日向
之
橘
小門
之
阿波岐(此三字以音)。
原而、
禊祓
也。
ーーーーー
・・・・?・・・
ーー
「東京新聞 - 2 時間前
【カイロ=今村実】
反モルシ政権デモが拡大したエジプトで、軍最高評議会のシシ議長は三日夜、国営テレビを通じ、憲法を停止して暫定政府を樹立すると宣言した。モルシ大統領の権限を剥奪し、最高憲法裁判所のマンスール長官に移す」・・・
ーー
「(民主的?)国民投票」で選ばれた「穏健派イスラム原理主義組織ムスリム同胞団」の「理屈」のドコが「ワルイ」んだか?・・・「政治(立法・行政)と宗教(思想)分離」で「いのち」を賭ける「カチ」はアルのか?・・・「経済(私有財産)システムと宗教分離」・・・「イスラム法(シャリーア)」は「宗教=民族(同胞)思想の枠内」だからだろう・・・「個々人の人間思想」が「成熟」していない「格差社会地域」では「暴動」は「支配階級の宗教思想」に集約されていく・・・ロシア革命時のロシア周辺「アラブ系諸国家のヒトビト」は「革命(思想)万歳」ではなく、「ジハード(聖戦思想)万歳」を唱えて「武装革命」に参加していった・・・「社会革命の構築思想」ではなく、目の前にある現実生活の「衣食住の飢餓」からの「解放(思想)」は「組織化された革命思想」でなくてもヨカッタのである・・・「スローガン」は「人参」であった・・・そして「食える場所」は「階級序列社会の軍隊」であった・・・そして、スベテの事象が「カミ」であっても結果、イイのである。「人間自身の克ち取ってきたモノ」と考える余裕は「餓死寸前、餓死に怯えているヒトビト」にはない・・・だろう・・・「衣食住足って」の「秩序(礼儀)」は「ダレのモノ」であるのか?・・・
「ムハンマド(Muḥammad・570年頃~632年6月8日)」はナニを望んでいたのか?・・・人々が食糧不足に陥ったとき、「富者からの略奪」・・・?
「メッカの2000世帯の移住は、メディナに食糧不足をもたらした。マホメットはこの問題を、飢えた人々がするのと同じようにして解決した。すなわち、得られるところから食糧を略奪したのである(世界の歴史・デュラント=ウィリアムジェームズデュラント・1885年11月5日~1981年11月7日)・アメリカの作家・学者・哲学者?)」・・・直接的で、ストレートなコトバではあるな・・・
ボクはこの「世界の歴史・デュラント」を読んだことも、聞いたコトがなかった。今回、ブログで初めて知った・・・
「暴動」はナゼ起きるのか・・・「富者からの略奪」としての「暴動」は「革命」に直結はしないが「切っ掛け」にはナルである・・・だが、そもそも「略奪」される「富者」なるモノがナゼ存在するのか?・・・
「富者からの略奪」が「ザカート」と「サダカ」・・・ですか・・・宗教的な「施し・喜捨」の観念のもと一体化して「イスラム共同体の社会福祉システム」・・・「宗教的」でなくても「イイ」だろう、「人間的」であり、「自然界の動物たち」も時折、その行動を「異種間」でとる・・・ハラがヘッテいては如何ともし難いが・・・
「自由な喜捨」・・・「預言者ムハンマドは「サダカ」という名で、神に仕える者の徳目として自由な喜捨を推奨していたが、義務ではなかった」・・・個々人の「自由」だった、のだ。
630年以後・・・新たに従った部族に対する「喜捨の義務化」がおこなわれ、初代カリフ、「アブー・バクル」以降、現在につながる定義が「ウラマー」らにより策定・法制化・・・
「ザカート」と「サダカ」、二つの混用が見られ、「サダカの性格」を「サダカ・アッタタッウー(自発的サダカ)」という二重化した言い回しが用いられた・・・
「義務としての喜捨」を「ザカート」、
「自発的喜捨」を「サダカ」としたらしい・・・「日本語」では「定かとはシナイ」であろう・・・
「おぼつかない(覚束無い)」とは・・・
物事の成り行きが疑わしい。うまくいきそうもない。
はっきりしない。あやふやである
確かでなくはっきりしない。ぼんやりしている。
うまく行く見込みがない。疑わしい。だめだろう。
uncertain
doubtful・dubious
unlikely
almost hopeless
見込み薄・たどたどしい
生半可・不可能
乏しい
あやふや
不如意・儘ならない
しっか(確)りしない・・・不確定・不確証
しっか(聢)りしない・・・不聢
未(非)+「定木・定規」?
「聢=耳+定」は「国字」
正確さまたは精密度を示す
丁度・きちんと・きちんきちん・きちっと
正に・ちょうど・ぴたっと
将に・かっきり・ちゃんと
堅いか押えられたさま
ぎゅうっと・ぴしっと・ぴっちりと
しっかと・犇と・きゅうきゅうと
ひしひしと・ぎっしりと・ぴたっと
certainly・for sure
distinctly・clearly・exactly
firmly
蹌踉めく
弱い・危ない
儚=顭(はかない・ボウ・くらむ)
くらい、はっきりしない
「昏昧」という意味で、
〔爾雅・釈訓〕に「儚儚、佪佪、惛なり」とある
「段注本」では儚の字の注に
「爾雅」を引いて儚は𠐿だろうとしている
「集韻」は懜の本字が儚であるとしている
「段注本」
↓
清の「段玉裁」が著した
「説文解字注・三十巻(段注本)」
ーーーー↓おぼつかない(覚束無い)
枕草子
(七一段)・・・七拾壱段・七十一段・漆足壱段
7+1=8=八=捌
7×1=7=七=漆
おぼ
つか
なき
もの
十二年の
山籠の
法師の
女親。
知らぬ
所に
闇
なるに
行き
たるに、
あらは
にも
ぞ
ある
とて、
火も
ともさで、
さすがに
なみ
ゐ
たる。
今
いで
來る
ものの
心も
知らぬに、
やんごと
なき
物
もたせて
人の
許
やり
たるに、
遲く
かへる。
物
いはぬ
兒の、
そ-り
(り-くつがへり)
くつがへりて
人にも
抱かれず
泣きたる。
暗きに
覆
盆
子
食ひたる。
人の
顏
見しらぬ
物見。
ーーーーー
・・・「人の顏見しらぬ物見」とは「傍観主義者・客観主義者」なんだろう・・・
ーーー
そもそも「アラブ」と「ユダヤ」の「対立関係」は・・・
「ユダヤ教徒」が「マホメットの喜捨(?)思想」を「拒否」した・・・ところから始まった・・・?・・・「マホメット」は「旧約聖書(排外主義)・新約聖書(非合理主義)」を「誤解」したのでは無く、その「本質」に「人間」としての「現実主義的」な「異議=意義」を唱えた・・・のだろう・・・「初期の宗教思想」は、いずれも「経済的(生活=衣食住)格差」からの「解放」からはじまった・・・?
613年頃
ムハンマドは
アラビア人伝統の
多神教の聖地であった
「マッカ(メッカ)」の人々に「教え」説き始める
だが、
マッカ(メッカ)の支配層たちは、
ムハンマドと
その信徒(ムスリム)たちに
迫害を加えた
伯父
「アブー=ターリブ」は
「ハーシム家」を代表して
ムハンマドを保護していたが
619年頃死亡し、
同じ頃
妻
「ハディージャ」も死亡
622年
ムハンマドは、
ヤスリブ(マディーナ=メディナ)の住民から
アラブ部族間の
調停者として招かれ
これをきっかけに、
マッカで迫害されていたムスリムは
ヤスリブに移住
マッカの支配層が、
刺客を放って
ムハンマド暗殺を企てたが
彼は
甥の
「アリー」の協力で、
新月の夜に
「アブー・バクル」と共にマッカを脱出
ムハンマドらは
10日ほどでヤスリブに無事到着
この事件を
「ヒジュラ(聖遷、遷都)といい
「ヒジュラ暦元年」と定め
「ヤスリブ」の名を
「マディーナ(預言者の町)=メディナ」と改めた
マディーナでは
マッカからの移住者(ムハージルーン)と
ヤスリブの入信者(アンサール)を結合し
ムハンマドを長とする
「イスラーム共同体」=「ウンマ」を結成
「ウンマ」勢力増大に反発する
ユダヤ教徒などを排除し
「ウンマ=イスラーム共同体」の基礎を築く
「ウンマ=イスラーム共同体」は
「ベドウィン(アラブ遊牧民)」の
諸部族と同盟を結び
「バドル」で戦った
バドルの戦いで多くの戦死者を出した
「マッカ=メッカ」支配層は報復戦として
再び
「マディーナ=メディナ」に侵攻
マディーナ軍は戦闘前に離反者を出し
マッカ軍の別働隊に大敗
ムハンマド負傷した(ウフドの戦い)
ムハンマドは
「マッカ=メッカ」支配層と通じていた
「ユダヤ人」らを追放した
627年
マッカ軍と、その諸部族の大軍が
ムスリム勢力圏を狙って侵攻
塹壕を築いて防戦
「塹壕(ハンダク)」の戦い
マッカ軍を撃退したイスラム軍は
武装を解かずマッカと通じて
マディーナのイスラーム共同体と
敵対していた
マディーナ東南部の
ユダヤ教徒、
クライザ族の集落を
包囲襲撃し、
無条件降服させ
成人男子を
全員処刑虐殺
女性や子供は捕虜として
奴隷身分に落とし、財産を没収
「クライザ族虐殺事件」
ーーーー↓「現存・古事記原文」より部分抜粋
「故、伊邪那美者、
因生火、
遂
避坐也」
「故爾、伊邪那岐命
詔之、
愛我
那邇妹命乎(那邇二字以音)
下效此。
謂
易
子之
一木乎、
乃
匍匐
御
枕方、
匍匐
御
足方
而
哭時、
於
御淚
所
成、
坐
香山
之
畝尾
木本、
名
泣澤女。
故、
其所
避
之
伊邪那美者、
葬
出雲國
與
伯伎國
堺
比婆之
山
也」
「於是、
伊邪那岐命、
拔所
御佩之
十拳劒、
斬
其子
迦具土之頸」
・・・
「最後
其妹、
伊邪那美命、
身自追來焉。
爾
千引
石
引塞
其
黃泉比良
坂、
其
石置
中、
各對立而、
度事戸之
時、
伊邪那美命
言、
愛我
那勢命、
爲如
此者、
汝國
之
人草、
一日
絞殺
千頭。
爾、
伊邪那岐命
詔、
愛
我
那邇妹命、
汝
爲然者、
吾
一日
立
千五百
產屋。
是以
一日
必
千人死、
一日
必
千五百人生也。
故、
號其
伊邪那美命
謂
黃泉津大。
亦云、
以
其追
斯伎斯(此三字以音)。
而、
號
道敷
大。
亦
所
塞
其
黃泉坂
之
石者、
號
道反
大、
亦
謂
塞坐
黃泉戸大。
故、
其所
謂
黃泉比良坂者、
今謂
出雲國
之
伊賦夜坂
也。
是以
伊邪那伎大
詔、
吾者
到於
伊那志許米
上志許米岐(此九字以音)。
穢國
而在
祁理。(此二字以音)。
故、
吾者
爲
御身之禊而、
到坐
竺紫
日向
之
橘
小門
之
阿波岐(此三字以音)。
原而、
禊祓
也。
ーーーーー
・・・・?・・・