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コジキジゲン

ひよめき

2013-07-20 17:22:55 | 古事記字源
同じような繰り返しを書き込んでいる・・・ボク自身の脳ミソの「コトバ」の再確認が何度も繰り返し、繰り返しの要求している・・・明日は「参議院選挙の日」・・・「自民、公明両党が圧勝する勢いを維持しており、野党が参院で多数を占める「ねじれ国会」の解消が確実視される(MSN・サンケイニュース)」・・・らしいが、ホントなのか?・・・日本居住地区住民・・・「無党派」の「1%」の投票参加増でも・・・「どうなるのか心配だ」と云っているのはダレなんだか・・・兎に角、「生活」が「カ」かっちゃっているからナッ・・・投票の「選択」は「自由」である・・・他人に意思を通すコトの最後通牒が「暴力」の威喝と行使である・・・その「暴力」を跳ね返そう、抑えようとするのも「暴力」である・・・その「暴力」とは「ダレ」のタメの「暴力」なんだか・・・経験から、むかし、ボクが訪ねた世界各国の「田舎の人々」はオオムネ素朴で親切だった。そして殆んどの中年壮年の男性の自慢は「戦争」に従軍してきた、ということであった。「都会人」はおおむね「(ズル)賢(かしこ)」すぎて、「悪人」なんだか、「善人」なんだか区別がつきにくかった・・・デトロイトの破綻は・・・「カネの問題」なのか?・・・「カネのフ(プ)ールの中の問題」だろう・・・物理学・・・ヒックス・・・ヒャックリ・・・だろう・・・「無」は存在しないのさ・・・「物理学」には・・・「消滅=無=非有」はない・・・勿論、この現実的な宇宙にも・・・
ーーーーー

 枕草子

 (八四段)・・・八十四段・八拾四段・捌足肆段

         8+4=12=十二=壱拾弐=足弐

         8×4=32=三十二=参拾弐=参足仁

 とり

 も

 たる

 もの。

 傀儡・・・・・傀=カイ・ケ=イ+鬼

          鬼=「甶 or 囟」+儿+ム

             甶(フツ・フチ・ヒ)

        甶=鬼の頭+儿(ニン・ジン)

              +ム(シ・よこしま)

        囟(ひよめき・シン)

        囟(ひよめき)胎児から乳児の頭に

        いくつかある骨のない小さな部分のこと

        医学、 解剖学では

        頭蓋泉門または単に

        泉門と呼ばれる。

        頭蓋(とくに頭蓋冠)をつくる

        骨どうしが完全に接着していないため、

        その間にすき間がある。

        囟(ひよめき・シン頭蓋骨=頭頂囟

          おおきい・くぐつ・でく

        儡=ライ=イ+畾(田田田)

          田(た・デン)が三

          つかれる・くぐつ・でく

 (くぐつ)の

 こと

 とり。

 除目に・・・・ジモク→字目・事目・治目・耳目

        ジョモク→除目・徐目・女目

 第一の

 國

 得

 たる

 人。

ーーーーー

 ・・・「傀儡(くぐつ・でく・カイライ)」、「木偶(でく・モクグウ)」・・・「木彫りの人形・人形・でこ・もくぐう・操り人形・くぐつ・役に立たない人・愚か者・でくのぼう」・・・「第一の國、得たる人」・・・「甚目」・・・「甚(はなはだ)しい目(メ)」って・・・「甚目寺」・・・

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江藤新平・佐賀の乱

2013-07-19 19:07:44 | 古事記字源
 「う‐づゑ(え)」・・・何を云いたかったんだか・・・「佐賀 潜(さがせん・1814年3月21日~1970年8月31日)」は、「推理作家、検察官、弁護士。本名は松下幸徳・東京生まれ」・・・「父親を含め先祖代々が佐賀・鍋島藩」の・・・出身・・・では、「宇能 鴻一郎(うの こういちろう・本名は鵜野 廣澄・1934年7月25日)」は、どうしているんだか・・・「北海道札幌市出身」、「東京府士族の鵜野二弥と、佐賀県士族の綾(旧姓は徳久)」の長男・・・官僚の父の転勤で各地を転々とし、奉天から敗戦で引き揚げてきた・・・「嵯峨島 昭(さがしま あきら)」の別名で推理小説も執筆・・・彼の作品と映画に関する「鯨神」に関しては以前、書き込んだが・・・
「さがみに、かみにかみて、ふきちらし・・・(現存・古事記)」・・・

 以下の参照参考原文は殆んどが「ウイッキペデア」、あるいは「ブログ辞典」からです・・・「行の頭だしのコトバ」と「数字(元号、西暦年月日、代数、第数)」の「掛け言葉の探索」と「歴史の重なりの探索」、それへの「?」な「モウソウ探索」ですので・・・アシカラズ・・・

ーー↓佐賀 潜の作品・・・タイトル

 非情の顔・ 第三の殺人・ むらさきの女・ 華やかな死体・ 黒の記憶・ 特捜圏外(埼玉鉄道事件)・ 検事城戸明・ 701号法廷(太陽信用組合事件)・ 銭の踊り・ 赤い血黒い血(弁護士鳴海五郎物語)・法律事務所SAGA・ 恐喝・ 白檀が匂った・ 黒幕・ 暗殺 明治の暗黒・ 猫眼石・ 黒の初夜・ 黒の構図・ 謀略者・ 脱税者・ 掠奪者・ 会社泥棒・ 赤い傷痕・ 黒の勝敗・ 略奪(明治の暗黒)・ 会社喰い・ 黒の追跡者・ 黒の捜査・ 黒の疑惑・ 黒い悦楽・ 深夜の目撃・ 倒産会社・ 総理大臣秘書・ 黒い会社・ 小説経団連・ 札束の軌跡(黒の告発書)・ 代議士逮捕・ 黒の社長室・ 黒い爪痕・ 弁護士槙弾正の告白・ 逃亡者・ 闇の極意・ 女の法律・ 倒産心中・ 幻の工場群・ 詐欺師・ 銭と女・ 抜け穴・ 乱花(藤原薬子の乱)・ 女の罠・ 殺意の蔭に・ 影の棲息者・ 夜を撃つ・ 社長の椅子・ 完全犯罪入門・ 五号という名の女・ アダムとイブの判例集・ 地図にない沼・ 殺人の報酬・ 真昼の醜聞・ 黒い策謀・ 小説法律入門・ 六字の遺書・ 文明開化帳・ 幻の殺人者・ 闇の図録・ 女体の幻影・ 華麗なる殺人(残酷犯罪調書)・ 夜の法律・ 悪の捕物帖・ 黒い昼夜・ 刺青源八捕物控・ 黒い頭脳集団・ 影絵のアルバム・ 佐賀潜捕物帖・ 燃えた札束・ 悲風川中島・ ある殺意・ ある疑惑・ 二本の指(明治掏摸物語)・ 清兵衛流極意(明治泥棒物語)・・・

スゴイねッ・・・同じ土俵の上で無自覚に「アク」も知らない人物のモノガタリ・・・高校時代に勉強もせず夜鍋してヨンだモノもある・・・

ーーーーー

 枕草子

 (八三段)・・・八拾参段・八十三段・八参段・捌足参段

         8+3=11=十一=壱拾壱=壱壱=壱足壱

         8×3=24=二十四=弐拾四=念肆

 ここち・・・個々知

 よげ・・・・与解

 なる・・・・名留

 もの・・・・模之

 卯杖の・・・「う‐づゑ(え)」之

ーーーーーーー↓

     正月初の卯の日に、魔よけの具として用いる杖

     柊(ひいらぎ)・桃・梅・柳などの木を

     5尺3寸(約1.6メートル)に切り

     2、3本ずつ5色の糸で巻いたもの

     昔、宮中では

     六衛府などから朝廷に奉った

    「古猫の相伴にあふ卯杖かな・許六」

ーー↓許六

 森川許六(もりかわ きょりく)

 明暦二年八月十四日

 (1656年10月1日)

    ~

 正徳五年八月二十六日

 (1715年9月23日)

 近江蕉門・蕉門十哲の一人

 名は百仲

 字は羽官

 幼名は

 兵助、

 または

 金平

 別号は五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵

    如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など

 近江国

 彦根藩藩士

 佐々木高綱を遠祖とする

 三百石取りの彦根藩士

 森川與次右衛門の子

 彦根城

 下藪下生まれ

 父親が

 大津

 御蔵役を勤めたことから

 七年間大津に住んだ

 剣術

 馬術(悪馬新当流)

 槍術(宝蔵院流槍術鎌十文字槍)の名人

 絵は狩野探幽の弟で

 奥絵師の

 狩野安信に習った

 1670年代前半に

 和歌や俳諧は

 北村季吟・田中常矩などに学んだ

 談林派の俳諧に属していた

 元禄二年(1689年)頃

 近江蕉門の古参

 江左尚白に弟子入り

 元禄四年(1691年)

 江戸下向の折に

 蕉門十哲の

 宝井其角

 服部嵐雪の指導を受けた

 元禄五年(1692年)

 江戸深川で

 芭蕉に入門し、芭蕉より「許六」と言う号を授けられた

 「十団子も 小粒になりぬ 秋の風」の句を

 芭蕉は激賞

 芭蕉は許六に俳諧を教え

 許六は芭蕉に絵を教えた

 元禄六年(1693年)

 彦根に帰る際に芭蕉から

 「柴門之辞」と・・・司馬文之字

 俳諧の奥伝書を授けられた

 彦根では、

 芭蕉遺愛の

 桜の木を切って

 芭蕉像を作り

 河合智月(智月尼)に贈った

 芭蕉の門人で

 彦根西郊平田にある

 明照寺の・・・名証字

 住職

 河野李由と

 元禄十五年(1702年)

 俳書

 「韻塞(いんふたぎ)」

 「篇突(へんつき)」などを共同編集

 宝永三年(1706年)

 「十三歌仙」

 正徳二年(1712年)

 「蕉風彦根躰(ひこねぶり)」

 聖徳五年(1715年)

 「歴代滑稽伝」

 門人として

 直江木導・松居汶村・北山毛紈

 寺島朱迪などを指導・・・寺=ジ

             島=トウ

             朱=シュ

             迪=テキ・ジャク・みち

                ↓

             字問取擢(適・摘)

             持統朱雀(主弱)

 宝永七年(1710年)

 家督を養子の

 百親に譲る

 晩年は

 癩病を病み、

 正徳五年八月二十六日

 (1715年9月23日)

 死去

 俳文集

 宝永三年(1706年)九月

 「本朝文選」、後に「風俗文選」と改題

 十巻九冊(五冊本もある)

 井筒屋庄兵衛から刊行

 蕉門俳人

 二十八の俳文約百二十編を

 「古文真宝後集」に倣って

 辞・賦・紀行などの

 二十一類に分けて収められた

 代表作(句)

 秋も早 かやにすぢかふ 天の川

 うの花に 芦毛の馬の 夜明哉

 茶の花の 香や冬枯の 興聖寺

 苗代の 水にちりうく 桜かな

 水筋を 尋ねてみれば 柳かな

 もちつきや 下戸三代の ゆずり臼

 紫陽花図には

 紫陽花の絵と共に・・・アジサイ→亜字差意掛

                 安治・鰺・味・庵治

 「あちさいの花は

  色白に肥ふとりたるが

  ちかくよりみれば

  白病瘡の

  あとのすき間もなくて

  興さめてやみぬ」

 と言う文が記録

 「風俗文選の山水の譜」には

 唐の

 王維の

 画論を基に自説

 「絵をよくするには、

  まず

  風雅を知らなければならない。

  古人が

  画中の詩、

  詩中の画と言っているのは

  このことを言っている」と記した

 風雅=詞句=愛=絵・・・?

 「詩画一致」の論理

 自ら

 「蕉門二世」と称し、

 「先師(芭蕉)の

  発句の作り方の

  前後をよく知り

  俳諧の底を抜いて

  古今にわたる者は五老井一人だ」と

 自負

 龍潭寺襖絵(彦根市)

 井伊家の菩提寺龍潭寺に

 許六の「牡丹に唐獅子」をはじめ、

 五十六面に及ぶ襖絵がある・・・らしい・・・

ーーー↓「う‐づゑ」の「ゑ=恵」

 「恵」は草体「ゑ」

 「衛」は片仮名「ヱ」、「we」 と発音

 「エ」は [e] と発音

 「ヤ行のエ」は「[je」 と発音・・・???

ーー↓ー

 奈良時代

 ヱは [we] と発音され、ア行のエは [e] と発音されて区別されていた。また、ヤ行のエも [je] と発音されて区別されていた。

 「ヱ」を表すための万葉仮名

 「咲」「面」「廻」「恵」

 ア行の

 「エ」は

 「衣」「依」「愛」「榎」

 ヤ行の

 「エ」は

 「兄」「江」「吉」「曳」「枝」「延」「要」「遥」「叡」

 と区別されていた。

 漢字音では、

 合拗音の「クヱ」「グヱ」(当時は小書きはされていない)

 という字音があり、それぞれ

  [kʷe] 、[ɡʷe] と発音され、

 「ケ」「ゲ」とは区別されていた。

ーー↓

 平安時代

 ア行の「エ」と

 ヤ行の「エ」が合流するものの、まだそれらと

 「ゑ」は区別されていた。

 十一世紀中期から後期頃の成立と考えられる

 「いろは歌」には、

 「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」

 とあり、

 「ア行のエ」と「ヤ行のエ」が合流するものの、

 「ヱ」は区別されている

 (ただしもとはア行のエも含まれていた可能性が指摘)

 寛智による

 「悉曇要集記(承保二年・1075年〉」には、

ーー

 アカサタナハマヤラワ一韻

 イキシチニヒミリヰ一韻

 ウクスツヌフムユル一韻

 オコソトノホモヨロ一韻

 エケセテネヘメレヱ一韻

ーー

 とあり、

 「ヤ行のエ」、「ワ行のヲ」が

 省かれている。このことから、当時の「音韻状態」は、

 「ア行のエ」と「ヤ行のエ」や、

 「ア行のオ」と「ワ行のヲ」は区別を失い同音になっていた一方、

 「ア行・ヤ行のエ」と「ワ行のヱ」は依然として区別されていた。

 「ア行のエ」と「ヤ行のエ」は十世紀後半以降同音になった・・・

 合流した

 「ア行とヤ行のエ」については、「ア行のエ」の発音が [je] に変化して、元々 [je] だった「ヤ行のエ」に合流したと見られている。

 「ヤ行のエ」を表す仮名は使われなくなっていき、

 「エ」に統合された。

ーー

 『和名類聚抄』(承平年間、931年~938年頃成立、ア行とヤ行のエの区別がない)には、

 「机 和名、都久恵(つくゑ)」とあり、本来はヤ行のエを含んでいた「つくえ」を「つくゑ」と誤記した例がある。このように、ア行・ヤ行のエ([je])とワ行のヱ([we])を混同する例も出てきていたが、平安時代にはあまり混同は多くなかった。

 語中の「ハ行音」が「ワ行に発音」される現象(ハ行転呼)が奈良時代から散発的に見られ、十一世紀初頭には一般化した。

 この現象により、語中・語尾の

 「ヘ」の発音が

  [ɸe] から [we] に変化し、

 「ヱ」と同音になった。

 これにより語中の

 「へ」と「ゑ」の使い分けに混同が見られるようになった。

 十二世紀末には、

 『三教指帰注』(中山法華経寺蔵、院政時代末期の加点)に

 「酔はす(ゑはす)」を「エハス」とする例があるなど、

 「ヱ」と「エ」の区別を失うものも散見

ーー

 鎌倉時代に入ると「ヱ」と「エ」の混同が顕著になり、十三世紀に入ると「ヱ」と「エ」は統合した。

 「ヱ」が

 [we] から [je] に変化することによって

 「エ」と合流した・・・

 漢字音の

 「クヱ」、「グヱ」もそれぞれ

  [ke] 、[ɡe] と発音されるようになり

 「ケ」、「ゲ」に合流・・・

 「ハ行転呼」やいくつかの

 音節の統合により、

 同じ発音になった

 仮名が多数生じ、

 仮名遣いに動揺・・・

 「藤原定家」は

 『下官集』の

 「嫌文字事」で

 六十ほどの語例について

 「を・お」

 「え・へ・ゑ」

 「ひ・ゐ・い」の

 仮名遣いの基準を示した。

 藤原定家が基準にしたものには既に「ハ行転呼」が生じて表記が動揺していたものも含まれており、

 本来は「へ」である「行方(ゆくへ)」が「ゑ」とされ、

 本来は「ゑ」である「絵(ゑ)」が「え」に、

 「故(ゆゑ)」、「植ゑ(うゑ)」、「酔ふ(ゑふ)」が

 「へ」とされるなど、

 元々の発音とは異なる表記が採用されたものもあった。

ーー

 南北朝時代

 行阿が

 『仮名文字遣』(1363年以降成立)を著し、

 対象語数を1000語以上に大幅に増やした。

 以後

 『仮名文字遣』の仮名遣いが

 「定家仮名遣」として一般に広く受け入れられた。

 「定家仮名遣」は特に

 和歌や連歌など歌道で広く使われたが、

 それ以外の分野では

 「ゑ」、「え」

 および語中・語尾の

 「へ」の書き分けが混同したものがしばしば見られる。

 十六世紀(室町時代後期)の

 キリシタン資料における

 ローマ字表記では、

 元々の「ヱ」、「ア行のエ」、「ヤ行のエ」は

 いずれも語頭・語中・語尾に関わらず

 「ye」 で書かれており、

 発音がいずれも

 [je] だったことが分かる

 ・・・?・・・「ャエ」が「ジェ」・・・ですか・・・

ーー

 江戸時代の

 契沖(1640年~1701年)は、

 『万葉集』、『日本書紀』などの

 上代文献の

 仮名遣が

 定家仮名遣と異なることに気付き、

 源順の

 『和名類聚抄』

 (承平年間、931年~938年頃成立)

 以前の文献では

 仮名遣の混乱が見られないことを発見した。

 そこで、

 契沖は

 『和字正濫鈔』(元禄八年〈1695年〉刊)を著し、

 上代文献の具体例を挙げながら

 約30000語の

 仮名遣を明らかにして、

 仮名遣の乱れが生じる前の

 上代文献に基づく

 仮名遣へ回帰することを主張した。

 契沖の仮名遣は契沖の没後に

 次第に一般に受け入れられていき、

 定家仮名遣での誤りの多くが正された。

 いっぽう

 本居宣長は

 字音仮名遣を研究し、

 『字音仮字用格』(安永五年〈1775年〉刊)で

 それを完成させたが、

 この中で

 合拗音のうち

 直音との発音の区別が当時まだ残っていた

 「クヮ」、「グヮ」のみを残し、

 「クヰ」、「グヰ」、「クヱ」、「グヱ」は

 それぞれ

 現実の発音に従って

 直音の

 「キ」「ギ」「ケ」「ゲ」に統合させた。

ーー

 十八世紀中頃には、

 「エ」や「ヱ」の発音が [je] から [e] に変化し現代と同じになった。

 明和八年(1771年)に

 上方で成立した

 『謳曲英華抄』には、

 「江ハいより生ず、江といふ時舌に触て最初に微隠なるいの音そひて江といはる」とあるが、

 この本は

 実際の口語と異なる謡曲の発音を教えるものであるから、既にこの頃には上方の口語でも [e] になっていたと見られる。しかし19世紀になっても [je] の発音は一部に残っていたらしく、

 蘭語辞典を写したと言われる

 メドハーストの

 『英和・和英語彙』(1830年刊)には、

 「え・エ」の

 ラテン文字化として

 「e」と共に

 「ye」の表記が見られる。

 ヘボンは日本語のラテン文字表記の際に、当初は

 メドハーストに倣って

 「エ」を「ye」と表記した

 『和英語林集成』(初版1867年)が、

 後の

 第三版(1886年)では、現状にあわせて

 「エ」を

 「e」 に変更している。

ーー

 明治六年(1873年)

 契沖の仮名遣いを基礎に、

 古文献を基準とした

 歴史的仮名遣が

 『小学教科書』に採用され、

 これ以降

 学校教育によって普及し一般に広く用いられた。

 字音仮名遣は

 本居宣長のものを

 基本としたものが使われた。

 しかし

 昭和二十一年(1946年)には

 表音式を基本とした

 『現代かなづかい』が公布され、

 現代の発音を反映した

 仮名遣いが採用された。

 これにより、

 歴史的仮名遣における

 「ゑ」は

 全て

 「え」に書き換えられ、

 「ゑ」は一般には使われなくなった。

 ・・・イヤァ~ッ、アレコレ面倒くさいね・・・学者の仕事は・・・兎に角、すきにさせてもらう・・・・ョッ・・・

ーーー↓枕草子・卯杖の「う‐づゑ(え)」のからのツヅキ

  「卯杖」だけれども「卯」の説明が無い・・・「フワフワした軟毛のある、穂のついた花・いね科の一年草・地中海沿岸原産・葉を含め花全体にフワフワした軟毛がある・茎の先端に小穂を蜜につけた長さ3センチ位の卵状の円錐花序をつける・高さ20~30センチ・和名は花序の形がうさぎの尻尾に似ている為」・・・ウサギちゃん・・・歯列は (順に 門歯・切歯・小臼歯・大臼歯、上下は上下顎)で、計「二十八本の歯」を持つ・・・肉食ではなく、草食・足は跳躍走行に適している。前肢の指は五本、後肢の趾は四本で、指趾には爪が発達する。体全体は丸みを帯び、尻尾は短く丸い。盲腸は長いく、尿と糞は一つの穴(総排泄口)から排出する・・・灰色や褐色等の毛色を有し、積雪地帯では冬には白毛に生え変わる在来種ニホンノウサギは、日本の固有種。特別天然記念物の「アマミノクロウサギ」は、世界でも奄美群島の一部のみに生息・・・「奄美の黒ウサギ」・・・「因幡の白兎」・・・「ウサギが走るとき、前足より後ろ足が前にくる」・・・前の足(たり・あし・ジュウ)より、後の足(たり・あし・ジュウ)が前にでる・・・「ハロルド1世(Harold I、またはハロルド兎足王 Harold Harefoot・1015年頃~1040年3月17日)は、イングランド王(在位1035?、1037?~1040年)・あだ名の「兎足王」はハロルドの足の速さと狩猟家としての技術を指していらしい・・・が、敵に「ハロルドの遺体は掘り出され、頸(首)を切られ、テムズ川に隣接する沼地に放り投げられた」・・・らしい・・・後にこの遺体と首は支持者に回収され「セント・クレメント・デーンズ(St. Clement Danes)」教会に埋葬された・・・「江藤新平(佐賀の乱)」・・・

「ラビッツ・フット(兎の足・ the rabbit's foot・rabbit foot)は、お守りの一種・・・「足=王」・・・「ウサギの尻尾」は「杖(木+丈)=記、紀の條」にぶら下る「兎の足(rabbit foot)」か、「尻尾(Rabbit Tail)」のことだろう、な、「宇佐神宮」は「魔よけ」だから・・・ワケの・・・「清麻呂」→阿倍皇女(女王)怒る→「汚(穢)麻呂」→汚名回復→「清麻呂」・・・?

ーーー↓枕草子

 祝言。

 神樂の

 人長。

 池の

 蓮の

 村雨に

 あひたる。

 御靈會の

 馬長。

 また

 御靈會の

 振幡。

ーーーーー

 ・・・平仮名、片仮名で書かれたら・・・「うづ・ゑ(え)」には困った・・・「渦の絵」、「欝(鬱)の重」→「躁鬱のウツの重なり」、「打つ・討つ・撃つ」の「江・獲・得」・・・「江藤新平を撃て」・・・?・・・

 江藤 新平

 天保五年二月九日(1834年3月18日)

   ~

 明治七年(1874年)4月13日)

 肥前国

 佐賀郡

 八戸村生まれ

 佐賀藩士、政治家

 幼名は恒太郎・又蔵

 諱は胤雄・胤風

 号は南白

 朝臣としての正式な名のりは

 平胤雄(たいら の たねお)

 維新の十傑の1人・・・

 江藤家

 肥前

 小城郡

 晴気保の

 地頭

 千葉常胤の末裔

 父は江藤胤光

 母は浅子

 父は

 「手明鑓」という身分の下級武士

 窮乏生活の折

 「人智は空腹よりいずる」を口癖にした

 嘉永三年(1850年)

 枝吉神陽が

 義祭同盟を結成すると、

 大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らとともに参加

 安政三年(1856年)

 意見書

 『図海策』を執筆

 安政四年(1857年)

 結婚

 藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務める

 文久二年(1862年)脱藩

 長州藩士の

 桂小五郎(木戸孝允)や

 公家の

 姉小路公知らと接触

 二ヶ月ほどで帰郷し

 藩主

 鍋島直正の直截裁断により

 永蟄居(無期謹慎)に死罪を軽減

 新政府が誕生すると

 佐賀藩も参加し

 新平は副島種臣と京都に派遣

 戊辰戦争

 東征大総督府軍監に任命

 西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸開城が決定するや、

 江藤は

 城内の

 文書類を接収

 京都へ戻り、

 大木喬任と連名で

 岩倉具視に対して江戸を東京と

 改称すべきこと(東京奠都)を献言する。

 彰義隊を

 大村益次郎らとともに

 討伐を主張し、

 軍監として上野戦争で戦い

 彰義隊勢を

 寛永寺周辺に追い詰め、

 佐賀藩の

 アームストロング砲を

 遠方射撃

 明治二年(1869年)

 賞典禄百石を賜う

 新政府が設置した

 江戸鎮台の長官の下の

 六人の判事の一人として

 会計局判事に任命

 明治三年(1870年)一月

 佐賀に帰郷

 着座(準家老)に就任

 中央に呼び戻され、

 十一月に

 太政官中弁

 十二月

 虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃され負傷

 明治四年(1871年)二月

 制度取調専務として国家機構の整備に従事し

 大納言

 岩倉具視に

 30項目の答申書を提出

 近代的な

 集権国家と

 四民平等を説き、

 国法会議や

 民法会議を主催し

 箕作麟祥らとともに

 民法典編纂に取り組む

 明治五年(1872年)

 司法卿、参議と数々の役職を歴任

 その間に

 学制の基礎固め

 四民平等

 警察制度整備など近代化を推進

 司法制度の整備

 (司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績

 政府内における

 急進的な民権論者

 「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として

 牛馬解放令とも呼ばれた

 司法省達

 第二十二号

 (娼妓解放令)、

 民衆に行政訴訟を認めた

 司法省達

 第四十六号

 官吏の汚職に厳しく

 長州閥の

 山縣有朋が関わったとされる

 山城屋事件、

 井上馨が関わったとされる

 尾去沢銅山事件を

 激しく追及、二人を一時的に辞職に追い込んだ

 三権分立の導入を進める

 江藤に対して

 行政権=司法権と考える

 政府内の保守派から

 激しく非難された

 急速な裁判所網の整備に

 財政的な負担が追いつかず、

 大蔵省との確執を招いた

 明治六年(1873年)

 朝鮮出兵を巡る征韓論問題で

 西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共

 十月二十四日に下野

 明治七年(1874年)一月十日

 愛国公党を結成

 一月十二日

 民撰議院設立建白書に署名

 帰郷を決意

 大隈・板垣・後藤らは

 江藤が帰郷することは

 大久保利通の術策に嵌るものであるとし

 慰留を試みるが

 全く無視

 一月

 十三日に船便で九州へ向かう

 直ぐには佐賀へ入らず

 二月

 二日

 長崎の深堀で様子を覗う

 大久保は

 一月

 十三日に

 佐賀討伐

 総帥として宮中参内

 二月五日

 佐賀に対する追討令を受けた

 江藤は

 二月

 十一日

 佐賀へ入り、

 憂国党の

 島義勇と会談

 二月

 十二日

 佐賀征韓党首領として擁立

 政治的主張の

 全く異なる

 征韓党と憂国党が共同して反乱計画

 二月十六日夜

 憂国党が武装蜂起し

 「佐賀の乱」が勃発

 佐賀軍は県庁として佐賀城に駐留する

 岩村通俊の

 熊本鎮台部隊

 半大隊を攻撃、

 その約半数に損害を与えた

 大久保利通の

 直卒する

 東京、大阪の

 鎮台部隊が九州に到着

 佐賀軍は福岡との県境へ前進して、

 政府軍部隊を迎え撃った

 政府軍は、

 朝日山方面へ

 野津鎮雄少将の部隊を、

 三瀬峠付近へは

 山田顕義少将の部隊を前進

 田手、境原で激戦が展開

 政府軍の火力の前に

 佐賀軍は敗走

 江藤は征韓党を解散して逃亡

 三月一日

 鹿児島

 鰻温泉

 福村市左衛門方で

 西郷隆盛に会うが薩摩士族の旗揚げを拒否される

 三月二十五日

 高知

 林有造・片岡健吉に武装蜂起を説くが拒否

 岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる

 途上、

 高知県

 安芸郡

 東洋町

 甲浦付近で

 捕縛

 佐賀へ送還

 手配写真で捕らえられたものだが、

 この

 写真手配制度は

 江藤自身が明治五年(1872年)に確立したもの

 制定者の江藤本人が被適用者第一号となった

 裁判

 四月八日

 江藤は急設された

 佐賀裁判所で

 司法省時代の部下であった

 河野敏鎌によって裁かれ

 四月

 十三日

 除族の上

 梟首の刑

 その日の夕方

 嘉瀬刑場において

 処刑

 江藤の首は

 千人塚で

 梟首された

 辞世

 「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」

 明治二十二年(1889年)

 大日本帝国憲法発布に伴う

 大赦令公布により

 賊名を解かれ

 大正五年(1916年)

 四月十一日

 贈正四位

 墓碑銘は

 副島種臣が手がけた

 神野公園には銅像

 ・・・

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斑鳩(いかるが)・怒る我・好かる我

2013-07-18 19:06:53 | 古事記字源
・メールの頭だしに「ばかやろう、ふざけんな」って・・・申し訳ない、「文章」をヨク読んでくれる人も、ヨンでくれない人も「イカル(好かる)」人も、「イカル(怒る)」人もそれぞれ・・・、「文字」だけを見てもネッ・・・「フザケル」の当て字はなんせ、「巫山戯る→巫女さん、タワム(撓む)れる」の「遊戯」だから・・・で、英語は「frolic [romp] about」、「play with」、「sport」・・・
ーーーーー

 枕草子

 (八二段)・・・八拾弐段・八十二段・捌足弐(仁)段

         8+2=10=十=壱拾=足

         8×2=16=十六=壱拾六=足陸

 いと

 ほしげ

 なき事

 人に

 よみて

 取らせ

 たる

 歌の

 褒めらるる、

 されど

 それは

 よし。

 遠き

 あり

 き

 する

 人の、

 つぎつぎ

 縁

 尋ねて

 文

 えん

 といは

 すれば、

 知り

 たる

 人の

 許

 等閑に

 かきて

 遣り

 たるに、

 なま

 いた

 はり

 なりと

 腹

 立ちて、

 返事も

 とらせで

 無徳に

 いひ

 なし

 たる。

ーーーーー

 ・・・いと、ほしげなき事、人によみて取らせたる・・・かな・・・

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明月記・・・月を明らかにする基

2013-07-17 15:48:53 | 古事記字源
 藤原定家が「明月記」に記載した「超新星爆発の解明・京大・2013.7.15 11:19」のニュースですか・・・「千年の時空を超え、新しい事実が分かったことにロマンを感じる」・・・「チームは超新星の残骸をスザク(すざく)で観測。爆発で飛散した鉄や硫黄、珪(ケイ)素などの元素が一方向に偏って広がっていることをスザク(すざく)を手段にして確認した」・・・
 「宇宙の膨張が加速しているとするノーベル物理学賞を受賞した研究成果の根拠の一つ」・・・「鉄(金+失)や硫黄(イオウ)、珪(ケイ・王+圭→桂)素などの元素」が「一方向に偏って広がっている」ことがナゼ「宇宙の膨張が加速」しているんコトになるんだか?・・・「宇宙は膨張と収縮」の繰り返し・・・「膨張の枠」が「風船ゴム」の様にあるのか?・・・宇宙全体は「コンニャク(蒟蒻)」状の「スベテ=ゼロ=有=存在=全部」で、その「全部の中」での「曲り」の出来事だろう・・・
 「全部」の「ワクは無い」のである?・・・思想、哲学としての存在のハテは「人間の頭のワクの限界」である・・・「どのよう存在しているか(存在物のアリ方)」は理解されていくだろうが、「ナゼ存在しているのか?(存在そのモノの存在)」は「能味噌の限界」である。先ずは「存在」が前提である・・・
 ・・・「藤原定家」は当時生まれていなかった・・・が、「明月記」には「過去の天文現象」として「非常に明るく見慣れない星があった」と記載・・・している?・・・

ー↓藤原定家・・・ボクの「家頁」です↓・・・ヒマならどうぞ・・・

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/uta.htm

ーー↓

 ボクの問題はナゼ、「明月記(めいげつき)」と「記録」されたのか?である・・・夜間晴れ間の「満月」は明るいのはアタリマエである。「暗(クラ)く」なるのは「月食=太陽→地球→月」の位置関係になる時である。そして「満月(旧暦八月の十五夜の月)」は「名月」と一般的には言われるか、記録される・・・「有明の月」とは「陰暦十六日以後、夜が明けかけても、空に残っている月」であるが、「とはずがたり」の「十四歳で後深草院の寵姫となった二条の日記」で、「御室の仁和寺の門跡の「有明の月」という「阿闍梨(男)」との激しく切なき契り・・・に引ッ掛(掻)けたのカモ・・・?

 ・・・では、なく・・・
 「山縣有朋(天保九年閏四月二十二日(1838年6月14日)~大正十一年(1922年二月一日)・幼名は辰之助・狂介・奇兵隊」・・・「朋=月+月」・・・
 そして
 「森 有礼(森有禮・幼名は助五郎・通称、金之丞)・弘化四年七月十三日(1847年8月23日)~明治二十二年(1889年二月十二日)」、暗殺・・・「明六社」会長・初代「文部大臣」・・・これは、「新暦(西暦)」と「旧暦」の「月の「関係」を「明らかにせよ」との示唆・・・である・・・「衛星の月」では無く、日記記載の「年月日の記録」の「月」である・・・当然、「その月の干支サイクル(六十干支・」である・・・
 そして「天文学者」が知りたかったのは「一年間の月の位置の記録」である・・・(60干支)÷12ヶ月=5・・・五年に一度、同じ干支が繰り返される・・・「30×2干支納音(ナッチン・ノウオン)」の循環の「納音」の漢字は「音(おと)」を「納(おさめる)」である・・・「占い」では本来「生年の二干支」だが「六十干支」の「甲子干支」と「乙丑干支」を「二個の干支」として「一まとめ」にしたモノに「名前」を付けたモノである・・・すなわち、「奇数干・奇数支」と「偶数干・偶数支」をまとめて「30のサイクル」に「三文字(二文字+五行の一文字)漢字の名前を付したモノ」で、「五行」を主軸に「±木=(+甲-乙)」、「±火=(+丙-丁)」、「±土=(+戊-己)」、「±金=(+庚-辛)」、「±水=(+壬-癸)」をまとめたモノである。
 ・・・何時の時代から知らないがコレを「月日時間」にも当てて判断する「占い」もある・・・コレは「日本製」だろう・・・「有名人」の「履歴」を知りたい、あるいは本人の「非合理性=心理」としては「出世、不出世の勝敗」には「憑きモノ」である・・・から・・・

 時刻は「干支」が「十二支」の「十二刻」、「一刻」は「二時間」であるが、その日の「日干支」によって時刻の「干」は異なってくる。

ーーーーーー↓納音名      ↓二干支

 海中・金(かいちゅう・きん) 「甲子・乙丑」

 爐中・火(ろちゅう・か)   「丙寅・丁卯」

 大林・木(たいりん・ぼく)  「戊辰・己巳」

 路傍・土(ろぼう・ど)    「庚午・辛未」

 釼鋒・金(じんぼう・きん)  「壬申・癸酉」

ーー↓

 山頭・火(さんとう・か)   「甲戌・乙亥」

 澗下・水(かんか・すい)   「丙子・丁丑」

 城頭・土(じょうとう・ど)  「戊寅・己卯」

 白鑞・金(はくろう・きん)  「庚辰・辛巳」

 楊柳・木(ようりゅう・ぼく) 「壬午・癸未」

ーー↓

 井泉・水(せいせん・すい)  「甲申・乙酉」

 屋上・土(おくじょう・ど)  「丙戌・丁亥」

 霹靂・火(へきれき・か)   「戊子・己丑」

 松柏・木(しょうはく・ぼく) 「庚寅・辛卯」

 長流・水(ちょうりゅう・すい)「壬辰・癸巳」

ーー↓

 沙中・金(さちゅう・きん)  「甲午・乙未」

 山下・火(さんげ・か)    「丙申・丁酉」

 平地・木(へいち・ぼく)   「戊戌・己亥」

 壁上・土(へきじょう・ど)  「庚子・辛丑」

 金箔・金(きんぱく・きん)  「壬寅・癸卯」

ーー↓

 覆燈・火(ふくとう・か)   「甲辰・乙巳」

 天河・水(てんが・すい)   「丙午・丁未」

 大駅・土(たいえき・ど)   「戊申・己酉」

 釵釧・金(さいせん・きん)  「庚戌・辛亥」

 桑柘・木(そうしゃく・もく) 「壬子・癸丑」

ーー↓

 大溪・水(だいけい・すい)  「甲寅・乙卯」

 沙中・土(さちゅう・ど)   「丙辰・丁巳」

 天上・火(てんじょう・か)  「戊午・己未」

 柘榴・木(ざくろ・ぼく)   「庚申・辛酉」

 大海・水(たいかい・すい)  「壬戌・癸亥」

ーー

 「納音」の各々の漢字の意味は「字面と同義、同理」だが、「納音」は「音」を「納める」であるから「音そのモノの同音の異義」の示唆である。そもそも「納音(ナッチン)」の「納」とは「納豆(なっとう)・納得(ナットク)・納屋(なや)」の同音である。

ーー↓納音→能生オン・・・「オン」のスベテの漢字を納める

 大海・水(たいかい・すい)  「壬戌・癸亥」

 「大海・水=たいかい・すい)

       他意改  諏意→おほあま・みず

  大海人(海士・海女・海部・亜麻・尼・甘・天)

    水(壬癸)

    みず→視事(頭・図・豆・逗・厨)

    ↓

    みづ=御津・美津

    みつ

    ↓

    三津=密・蜜

       褌(ふんどし=憤怒詞)

    ↓

    水戸」

ーー↓

 ・・・「奉納」は「ホウノウ」、「納付」は「ノウフ」、「納税」は「ノウゼイ」と云う・・・「NO  taxes (タックス)」である・・・「タツ=断つ、絶つ」の「クス=楠・玖珠(屑・葛)・樟」の「九図」だろう・・・「九相図(九想図、くそうず)」・・・見たくないね・・・「この絵」は「近衛」だし・・・「人道不浄相図」は「小野小町の末路の絵」だし・・・「小野妹子」は「蘇因高→素因考」である・・・

ーー↓小野と云えば・・・サッカー(蹴鞠・蹴球)・・・

 「小野道風」とは・・・「花札の絵柄」・・・藤原定家が撰んだ「百人一首(加留多・歌留多)の和歌」・・・「花札」も「百人一首」も江戸時代のアソビである・・・「花札の絵柄」に小野道風が採用されたのは明治時代かららしい・・・

 「柳と蛙」を視て発奮、努力した人物?・・・「カエルの努力」である・・・この逸話は江戸時代中期の浄瑠璃「小野道風青柳硯(おののとうふうあおやぎすずり・宝暦四年〈1754年初演)」・・・寛延三年(1750年)九月の随筆「梅園叢書・(三浦梅園著)」にこの話が記されている・・・らしいが、「梅園叢書」の刊行は安政二年(1855年)のこと・・・出版元も帳尻あわせが大変だったろう・・・

 第二次世界大戦以前の

 国定教科書にこの逸話が載せられた・・・

 ・・・「努力とガンバレ」は「アベ」だろう・・・博打の花札、オイチョカブ・・・でナニがノコルのか・・・

ーー

 0=ブタ(又はドボン)

 1=ピン(又はチンケ・イッカチ・インケツ)

 2=ニゾウ(又はニタコ)

 3=サンタ(又はサンタコ)

 4=ヨツヤ(又はシスケ・シホウ・シケ

       ヨンタ・シス・シスン・シニ)

 5=ゴケ

 6=六法(又はロッポ)

 7=シチケン(又はナキ)

 8=オイチョ(又はヤイチョ・ハッポウ・チョウベ)

 9=カブ

 「おいちょかぶ」

 8と9(オイチョ+カブ)の組み合わせ

 「8」の「オイチョ」は

 ポルトガル(葡萄牙)語の

 「8(oito)=オイト」に由来

 「9」の「カブ」の語源は不明

 「株・歌舞・蕪・下部・掛部」の「賭け」だろう・・・

 ・・・江戸時代には「かう」とも呼ばれたならば、「買う・乞う・子生・請う」の「交・考・項・行」・・・「コウ」の同音漢字のスベテだろう・・・

ーー↓小野道風

 「とうふう」は「有職読み」

 「源氏物語」では、道風の書を評して

 「今風で美しく目にまばゆく見える・源氏物語・絵合の巻」

 「空海筆の額を批判・古今著聞集」

 「美福門(額字)は田広し、

  朱雀門(額字)は米雀門、

  大極殿(額字)は火極殿」と批判した

  これって・・・「文字の批判」か?、「額縁の批判」?

  六十五歳ぐらいから目が悪くなり、

  六十七歳ぐらいの頃には

  言語が不自由

  その頃の道風の文字を

 「道風のふるい筆」といっている・・・「振るい」?・・・「馬事東風」・・・「博打」に嵌(は・填)まったら他人の忠告、諌めはなんのその・・・勝負は時のウンだって?・・・「万字当風」・・・「クレイィジィ」・・・繰れ意異字・・・は「漢字馬鹿」で、「痴漢」・・・漢和辞典もスゴイねッ・・・「痴漢」の説明に「婦女子に悪ふざけをする男・オンナ(音名)とコドモ(拠賭摸)に悪戯するオトコ(音拠)」だから・・・「大修館漢和辞典」・・・ネコはニャァかミャァ・・・尾張名古屋弁・・・本居宣長・・・拠怒母である・・・「観音様・妙音様」も「福音書」もナンのソノ・・・「婦人科・小児科」・・・挙句の果てには「魚町」、「鈴屋大人(すずのやのうし)」、淡きり「ウイロ(外郎)」じゃなく、小児「あめ(飴)薬」製造販売で大儲け・・・ゴメン・・・彼本人への「人格批判」ではありません・・・

ーー↓小野道風

 切手・・・京の四季(京都府)

 傘を差している

 小野道風が

 柳に跳びつこうとする

 四肢を広げた形

 (*・*=アスタリスク・アステリスク・asterisk

  約物の一つ、

  六本の放射線

  原語は小さい星・古代ギリシア語の字形

  日本語でも星号・星印・スター・アスタ?

  Ж・ж=ジェ・ジはロシア弟八文字、字形?

  水の漢文字の形?)

 の

 カエルの挙動を眺めている

 背景の書に

 「玉泉帖」が描かれている

 「玉泉帖」とは

 「白氏文集」の

 詩を道風が書いた

 「巻子本(かんすぼん・けんすぼん・巻物、掛軸)」で、

 巻首が

 「玉泉南澗花奇怪」の

 句で始まる

 楷行、草行、「真行草(真・行・草)」、

 書体の類型書きを取り混ぜ、

 各文字を大小肥痩に変化させた書

ーー  

 「小野道風の誕生伝説」

 ・・・南北朝時代の書の「麒麟抄」・・・「塩尻(天野信景著)」などに「記録」、「文化十二年に尾張藩の学者、秦鼎の撰文・小野朝臣遺跡碑(十八世紀末)」には、「春日井市」で道風生誕が信じられていた・・・?・・・オワリの「秦鼎」とは何者か?・・・唐風・当風・党風・東風・・・「豆腐」・・・マメが腐った・・・豆腐、納豆、油揚げ・・・甘納豆・・・

 「小野 道風(おの の みちかぜ・とうふう・ドウフウ)

  寛平六年(894年)

   ~

  康保三年十二月二十七日(957年2月9日)

  道風の書

  「野跡」と呼ばれ、

  「藤原佐理」の

  「佐跡」

  「藤原行成」の

  「権跡」とともに

  「三跡」と称される

  あと=跡・址・迹・安登・痕・彡・後・・・語・誤・呉・・・暮れ・・・夕方・夜中・晩方・・・

ーー

 で、

 「天文学」は「天体」を「分度器」で観測し、かつ「経緯度」を測る「地理学」でもある・・・「伊能忠敬・高橋景保」・・・そして当然にも「航海」する時の「知識」である・・・「三浦按針」・・・「日本帝国海軍」・・・海、ゆかば・・・末路は溺死・・・ 

ーーー↓ー↑・・参照、参考の原文は「ウイッキペデア」・・・

 「明月記・(めいげつき)」

 「藤原定家の日記」

 治承四年(1180年)

   ~

 嘉禎元年(1235年)

 五十六年間・・・・・・・山本五十六

 別名

 「照光記」・「定家卿記」。

 「明月記」の名は後世の名称で

 定家自身が命名したものではナイ

 本人自身は

 「愚記」と読んでいた

 そして、当時の人は

 「中納言・入道殿・日記」の称を用い

 一般的通称には

 「定家卿記」の名称が用いられていた・・・らしい・・

 「南北朝」の頃から

 「明月記」の名称が用いられるようになった、らしい

 ・・・とされる・・・

 「広橋家」記録によれば

 「二条良基」の説として

 「毎月抄」

 定家が

 住吉明神参拝の際に神託によって作成した

 「明月記」がこの日記であるとの考えが記されている

 ・・・らしい・・・

 「定家自筆原本」の大部分は

 「冷泉家・時雨亭・文庫」に蔵書され

 「明月記・原本」の一部は

 早くから流出し、

 「断簡(ダンカン)」、

 「掛け軸(ジク)」などとして

 諸家に分蔵

 「漢文」で記録

 通説では

 現存本などを元に

 五十六年間の記録とされているが、

 定家の子

 為家の譲状には

 「自治承~至仁治」とされており、

 定家が死去する

 仁治二年(1241年)頃まで書かれていた

 可能性もある・・・らしい・・・

 「定家自身の体験に基づいていない記録」も含まれる

 「客星・古現・例」

 「天喜二年(1054年)四月中旬の

  蟹(かに)星雲の・・・かに座=サインは「69」

 超新星爆発は、

 定家誕生以前の出来事であるが

 伝え聞いた内容として記載

 「安倍晴明の一族」が

 正確に星の観察」しており、

 ヨーロッパには全く「その記録」はなかった・・・らしい・・・

ーーー↓

 後冷泉院

 天喜二年四月中旬

 以後の

 丑の時

 客星・・・・・・彗星・ほうき星・・・法規・蜂起・放棄

            箒・帚・宝器

            伯耆(ホウキ)→伯爵が老いる日?

            伯耆=鳥取→出雲←島根

 觜・参の度に出づ

 東方に見(あら)わる。

 天関星に孛(はい)す。・・・「孛(ハイ・ボツ)」

             「孛」=「十+冖+一+了」

                   ↓

                 十のワの初めと終り

                 五十五・五拾五・伍足伍

 大きさ

 歳星の如し(原文読み下し)

ーーー↓

 一条院

 寛弘三年四月二日(1006年5月1日)

 狼(おおかみ)座の超新星残骸

   大御神

 「SN 1006」の超新星爆発

 高倉院

 治承五年六月二五日(1181年8月7日)

 「SN 1181」の超新星爆発

 ひとつの文献に

 3つの記録が残っている

 定家の子

 為家が譲状を作成(文永十年七月二十四日・1273年9月6日)

 「明月記」を

 「一身のたからとも思候也、子も孫も見んと申も候ハす、うちすてゝ候へハ」と述べて

 庶子の

 「冷泉為相」に譲っている・・・公には「価値」が無かった?

 明月記(冷泉家時雨亭文庫蔵)五十八巻一幅

 付録は補写本一巻、旧表紙集一巻

 建久三年(1192年)

  ~

 天福元年(1233年)に至る二十五年分

 五十六巻が断続的に残る。

 他に、

 建久九年十二月十日

 (1199年1月8日)の

 賀茂

 臨時

 祭記一巻

 年次不明の

 断簡一巻

 正治二年十月二十七日

 (1200年12月5日)条の

 断簡一幅

 五味文彦は

 「花園天皇宸記

  ・正中二年十二月三十日

  (1326年2月3日)」条に

 「定家卿記」を読んだ事を記録

 「園太暦

  ・貞和二年閏九月六日

  (1346年10月21日)条に

 「定家卿記」からの引用

 この時期に広く読まれたと説く。

 一方、

 松薗斉は反対に当時広く読まれた日記であればもっと多くの公家の記録や日記などに先例として引用されている筈であると指摘し、むしろ引用例の少なさが「明月記」が秘蔵されて

 一部の人の目にしか触れていなかったことを示すとしている。

 八代国治や五味文彦の研究によって、

 「吾妻鏡」の

 建暦年間前後

 かつ

 三善康信関係記事における

 「吾妻鏡」と

 「明月記」の

 記事が

 似ていることを指摘

 これは「吾妻鏡」の編纂に関わった

 三善氏関係者が鎌倉幕府との

 つながりが深く

 晩年を

 鎌倉で過ごした

 冷泉為相から

 提供を受けたと考えられている・・・らしい・・・

 ・・・ダレかがセッティングしてくれる「北枕」の最期の敷き布団の上で寝れればサイワイである・・・かな・・・

ーーー↓

 枕草子

 (八一段)・・・八拾壱段・八十一段・捌足壱段

         8+1=9=九=玖

         8×1=8=八=捌

 あぢき

 なきもの

 わざと

 思ひ

 たちて

 宮仕に

 出で

 立ち

 たる

 人の、

 ものう

 がりて

 うるさげに

 思ひたる。

 人

 にも

 いはれ、

 むづか

 しき

 事も

 あれば、

 いか

 でか

 まかで

 なん

 と

 いふ

 言草を

 して、

 出でて

 親を

 うらめし

 ければ、

 また

 參り

 なんと

 いふ

 よ。

 養子の

 顏

 にく

 さげ

 なる。

 しぶしぶに

 思ひ

 たる

 人を

 忍びて

 壻に

 とりて、

 思ふ

 さま

 ならずと

 なげく人。

ーーーーー

 ・・・

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ヨウツウ・用通(訳)・要通(約)・曜通(益)・・・腰痛厄

2013-07-16 10:08:56 | 古事記字源
 ・・・右腰が「腰痛」・・・イテ、テ、テ、テッ・・・ボクの「腰痛の原因」は「胃腸不調」と「両足の長さの不揃」にあると思う・・・右足が多分、ホンの少し長い・・・座っても、立っても、歩いても、気にはならないのだが、この僅かなバランスの崩れが過重、加重になった時に「腰に影響」を与えているらしい・・・靴(沓)底の減り方を見れば、その長短と歩き方の癖がわかる・・・「モンローウぉーク」って、「マリリンモンロー」だが、ハイヒールの片方の高さを短くして歩いていたらしい・・・賢い・・・なッ・・・兎に角、「腰(こし)」は「月の要」、「肉の要」である・・・イテッ・・・
ーーーーー

 枕草子

 (八〇段)・・・八十段・八拾段・捌足段

        8+0=8=八=捌

        8×0=0=零=空=スベテ有

 職の

 御曹司に・・・音双紙・音草子・音叢詞

 おはします

 ころ、

 木立・・・・・小太刀・故拿知

       「記・紀」立(建・断・絶・経)

 などの

 遙かに

 もの

 古り、

 屋の

 さまも

 高

 うけ

 遠

 けれど、

 すずろに・・・「珠洲路・寿々賂・鈴路・錫炉」に

        鈴懸けの径・・・円の直径・半径

           (みち・道・路・途・未知)

        立教大学の構内、路は円周を描いて

               設計されていたのか?

               怪奇→回帰で、

               カイキの漢字全てである

        教え立てる「聖書学」→清書学?

        立教大学→純粋「聖書学」研究

        大学設置 1922年

        創立   1874年

        ↓

        鈴懸の径(道)

        1942年(昭和十七年)9月

        ビクターレコード発売

        ビクターの商章は

        「犬が蓄音機の横で音を聴いている絵」

        英国画家マーク・ バラウンドの弟が、

        兄の死後蓄音器から流れる

        生前の兄の声に耳を傾け聞き入る

        飼い「犬ニッパー」の姿を描いた

        「His Master's Voice(彼の主人の声)」

        victor=征服者・戦勝者・・・CONQUEROR

            試合、競技の勝利者、優勝者

        レコードは「円盤」の「波形の録音」である

         ↓        

        佐伯孝夫作詞

        灰田有紀彦(灰田晴彦)作曲

        有紀彦の弟

        灰田勝彦が歌唱

          ↓

        友と語らん 鈴懸の径

        通いなれたる 学校(まなびや)の街

        やさしの小鈴 葉かげに鳴れば

        夢はかえるよ 鈴懸の径

        熱き想いを 心にこめて

        澄んだひとみは 青空映す

        窓辺の花に ほほを寄せれば

        夢はかえるよ 鈴懸の径

        月日は移り 想い出だけが

        今も浮かぶよ 別れた友の

        若き日の唄 風に乗せれば

        夢はかえるよ 鈴懸の径

ーーーーーーーー↓鈴懸の木

        スズカケノキ科スズカケノキ属

        落葉広葉樹

        果実が楽器の

        鈴に似ていることからの和名

        プラタナス

        プラタナスの語源

        ギリシャ語の platys(広い)

        大きな葉に由来

        日本のプラタナスは

        本種よりも

        モミジ  バ スズカケノキ

        紅葉(椛)葉 鈴 懸 の木

        摸見字  葉 素事掛 之記

         ↓

        鈴鹿の地名

        「和名抄」は

        伊勢国(三重)「すゝか」郡

        「スズダケ(煤竹・篠竹(すずたけ)・篶(すず)」

        の生える土地の説

        鈴の口が割れているような山腹から

        滝が流出する様に由来する説など

        壬申の乱の時

        大海人皇子(天武天皇)が

        二匹の鹿が

        駅鈴をつけ、現われ

        増水した川を渡った

        という伝説

ーーーーーーーー↓

        漫ろ(すずろ)

        「そぞろ」と同語

        あてのないさま

        これといった理由

        目的のないさま

        漫然

        一面に満ちて覆うさま

        漫漫・瀰漫(びまん)・爛漫(らんまん)

        むやみに広がって締まりがないこと

        漫然・散漫・冗漫・放漫

        何とはなしに・気のむくまま

        漫画・漫才

        水戸黄門漫遊記(紀)

        漫=バン・みなぎ(る)・みだ(りに)

        そぞ(ろに)

        漫談→万段→萬談

        笑う→可笑しい

 をかしう

 おぼゆ。

 母屋は、

 鬼・・・・・・記紀・訊き・聴き・機器→録音機・蓄音機

 ありとて、

 南へ・・・・・皆見経

 隔て

 出だして、

 南の

 廂に・・・・・ひさし→比差史

 御帳・・・・・書籍・本・帳簿

 立てて、

 又

 廂に

 女房は・・・・ジョボウ→序剖葉

 さぶらふ。・・差(作)部等符(付・布・譜・附)

 近衛の・・・・個之重之・キンエイ→筋英・近影

 御門・・・・・語文

 より

 左衛門の・・・差重文

 陣に・・・・・人似・仁似・神似・字務似

 まゐり・・・・真意理

 たまふ

 上達部の・・・かんだちめ・かむだちめ・かむだちべ

        下意上達

        「上達」は上の者に達する、届く意

        「上達=ジョウタツ」は上手に、巧くなる

 前駆・・・・・前句・全句

 ども、

 殿・・・・・・伝・出ん

 上人

 のは

 短ければ、

 大

 前駆、

 小

 前駆と

 付けて

 騒ぐ。

 あまた

 たびに

 なれば、

 その

 声ども

 も

 皆

 聞き

 知りて、

 「それぞ」

 「かれぞ」

 など

 言ふに、

 また

 「あらず」

 など

 言へば、

 人

 して

 見せ

 など

 するに、

 言ひ

 あてたる

 は、

 「されば

  こそ」

 など

 言ふ

 も

 をかし。

 有明の・・・・有る明(治)之

 いみじう・・・意味字得

 霧り

 わたり

 たる

 庭に・・・・・似話爾→爾来・由来

 おりて

 ありくを

 きこ

 しめして、

 御前

 にも

 起き

 させ

 たまへり。

 上

 なる

 人々の

 限り

 は、

 出で

 ゐ、

 おり

 など

 して

 遊ぶに、

 やうやう

 明け

 もて

 ゆく。

 「左衛門の

  陣に

  まかりて

  見む」

 とて

 行けば、

 我も・・・・話例摸

 我もと、

 追い

 つぎて

 行く

 に、

 殿

 上人

 あまた

 声して、

 「なに

  がし

  一声の

  秋」・・・安芸・亜紀・安岐→徳田 秋声

       田秋聲

       明治四年十二月二十三日

       1872年2月1日

       ~

       昭和十八年

       1943年十一月十八日

       石川県

       金沢市生

       本名は末雄

       作品に「足迹(あしあと

           ソクシャク・ソクセキ)」

尾崎紅葉に師事し、

泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉らとともに

「葉門の四天王」と呼ばれた

       徳田秋聲・泉鏡花・室生犀星らは

       「金沢の三文豪」

 と

 誦じて

 まゐる

 音

 すれば、

 逃げ

 入り、

 もの

 など

 言ふ。

 「月を・・・・月の扁=肉(ジク)・舟(ソウ)

  見

  たまひ

  けり」

 など、

 めでて、

 歌

 詠む

 も

 あり。

 夜も

 昼も、

 殿上人の

 絶ゆる

 をり

 なし。

 上達部

 まで、

 まゐり

 たまふに、

 おぼろげに

 急ぐ

 事

 なきは、

 かならず

 まゐり

 たま

 ふ。

ーーーーー

 ・・・

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