城郭探訪

yamaziro

「幻の聚楽第」本丸の石垣遺構

2012年10月05日 | 遺蹟

「幻の聚楽第」本丸の石垣遺構 初確認

聚楽第跡地から出土した本丸の石垣の一部(4日、京都市上京区で)=川崎公太撮影

 豊臣秀吉が16世紀後半に造営した城郭式の邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」跡地(京都市上京区)で本丸の石垣の一部とみられる遺構が見つかり、京都府埋蔵文化財調査研究センターが4日発表した。完成からわずか8年で消えた「幻の聚楽第」の中心地で、本格的な遺構が確認されたのは初めて。

 京都府警宿舎の建て替えに伴い、本丸推定地の南端約1100平方メートルを調査。発掘された石垣は高さ約80センチが残り、40~50センチの石を2段に積み重ねていた。

 北側の1か所では施設跡とみられる柱穴(縦約1・5メートル、横約1・2メートル、深さ約50センチ)も確認。周辺では金箔(きんぱく)を施した瓦の破片3個が出土した。

 聚楽第は秀吉が養子・秀次(ひでつぐ)に関白職とともに譲り渡した邸宅。秀吉は嫡男・秀頼が生まれると、秀次に謀反の疑いをかけて自害させ、聚楽第を取り壊した。

 跡地一帯は住宅地で調査が難しく、詳しい実態はわかっていないが、これまでに北の丸の石垣の一部や大量の金箔瓦が出土。桃山時代の「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)には石垣に囲まれた天守などの本丸が描かれ、当時、日本にいた宣教師ルイス・フロイスは著書で大坂城より豪華だったと記している。

 現地説明会は7日午前10時~午後3時。問い合わせはセンター(075・933・3877、当日080・5321・8666)。

 鋤柄(すきがら)俊夫・同志社大教授(中世考古学)の話「見栄えも意識した立派な石垣で、秀吉時代の大坂城の石垣を彷彿(ほうふつ)とさせる。想像しかできなかった本丸の実態に迫る発見だ」

 ◆聚楽第 豊臣秀吉が1586年、平安宮跡の内裏近くに造営を始め、87年の完成後、大坂から移って政務を執ったが、秀次に譲った後、95年に破棄した。西本願寺・飛雲閣(国宝、京都市下京区)、大徳寺・唐門(同、同市北区)などは聚楽第から移築されたとの説がある。本丸は東西約200メートル、南北約330メートルと推定されている。