お城のデータ
所在地:甲賀市甲賀町和田 (旧甲賀群甲賀町和田) map:http://yahoo.jp/XVSc8v
現 状::山林
遺 構:単曲輪・土塁・虎口・案内板
区 分:居館
標 高:210m 比高差:5m
築城期:室町期
築城者:和田惟政
目標地:善福寺
和田氏
駐車場:説明板前の空地に駐車場
甲賀市市史跡
訪城日:2015.4.11
お城の概要
和田支城Ⅲの北側に位置し、郭の背後(北側)は自然の地形を削り残し高土塁状に、曲郭は三段の基壇を残す。
現状は民家の背後で、甲賀市史(甲賀の城)にも記載がない。平成22年の整備事業の現地説明板で知る。
南側・曲郭基壇30m×30m
東側・曲郭基壇10m×20m(民家に削平か)
奥の曲郭虎口
主郭・背後の高土塁
和田谷には、和田城を本城に和田支城I・和田支城II・和田支城III・和田館・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を残存する。
・・・・・信長公記・・・・
一巻 流亡将軍 一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事
義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。
越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。
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築城年代は定かではないが和田氏によって築かれたと云われる。 和田氏は源満政を祖とするとされるが、一説には佐々木六角氏の一族ともされ、後の15代将軍足利義昭を領内に匿った時の当主和田惟政は十八代という。
足利義昭を匿った和田惟政は、その功によって芥川城主となり、その後高槻城主となった。
惟政死後、子の和田惟長は没落して和田領も取り上げられたが、後に徳川家康に仕え旗本として旧領を回復し治めたという。
・Wikipedia・信長公記
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