城郭探訪

yamaziro

和田館  近江国(甲賀)

2015年05月02日 | 館跡

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町和田 (旧甲賀群甲賀町和田)  map:http://yahoo.jp/XVSc8v                                           

現 状::山林

遺 構:単曲輪・土塁・虎口・案内板

区 分:居館

標 高:210m 比高差:5m

築城期:室町期

築城者:和田惟政

目標地:善福寺 

城 主: 和田氏

駐車場:説明板前の空地に駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.11

お城の概要

和田支城Ⅲの北側に位置し、郭の背後(北側)は自然の地形を削り残し高土塁状に、曲郭は三段の基壇を残す。

現状は民家の背後で、甲賀市史(甲賀の城)にも記載がない。平成22年の整備事業の現地説明板で知る。

 

南側・曲郭基壇30m×30m

東側・曲郭基壇10m×20m(民家に削平か)

奥の曲郭虎口主郭・背後の高土塁

歴 史  

 和田谷には、和田城を本城に和田支城I・和田支城II・和田支城III・和田館・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を残存する。 

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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 築城年代は定かではないが和田氏によって築かれたと云われる。 和田氏は源満政を祖とするとされるが、一説には佐々木六角氏の一族ともされ、後の15代将軍足利義昭を領内に匿った時の当主和田惟政は十八代という。

足利義昭を匿った和田惟政は、その功によって芥川城主となり、その後高槻城主となった。

惟政死後、子の和田惟長は没落して和田領も取り上げられたが、後に徳川家康に仕え旗本として旧領を回復し治めたという。

参考資料:甲賀市史(甲賀の城)にも記載がない。平成22年の整備事業の現地説明板・Wikipedia・信長公記

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醒井山城 近江国(米原・枝折)

2015年05月02日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:米原市枝折町(旧坂田郡米原町枝折) map:http://yahoo.jp/wrgD08

区 分:山城

築城期:鎌倉期

築城者:醒井氏・土肥氏?

遺 構:竪堀・見隠し土塁・銃座/射て座・曲郭

標 高:361m   比高差:230m

城 域:150m×50m

初城主:醒井氏

目標地:枝折・八幡神社

訪城日:;2015.4.12

駐車場:集落の手前のグランドに

お城の概要

 枝折集落の東側の山上に、醒井城の詰め城遺構が残存する。

 醒井城は、名神高速道路で分断され、出城部分が 醒井城 とされていた。

   が尾根上部に「竪堀・見隠し土塁・銃座/射て座・曲郭」遺構が明確に残る。

見隠し土塁・銃座/射て座は、西の箕浦・朝妻湊方面の残り、曲郭は自然地形をうまく削平・利用し基壇も!

鉄塔下から箕浦・朝妻湊

頂部三角点

お城の歴史

『江州南北諸士帳』に、醒ヶ井 住 佐々木随兵平氏 土肥玄蕃亮とあり。(醒井城に関して、文献等の資料は少ない。)

『淡海国木間攫』に、醒ヶ井村 「建武兵革ノ此醒井三郎トイヘル武士見ヘタリ、ニテ自殺ノ内ニアリ、醒井権藤頭京極浅井家ノ記ニ出ル、是等ハ此辺住居ノ武士ナリ」とあり。

 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。

土肥氏の事なるべし、京極政經が土肥氏の場、多和田兩村及び醒井村に分住す、故に、番場殿・多和田殿・醒井殿ど稱し、土肥三殿石なし蓋、土肥氏は足利尊氏の時より本郡箕浦庄に住し、其の族繁榮するに及び、切落可^-候事、共、大原政所へ折柢を遣し、爲-一切落;出雲井は西上坂村請取、瀧の水は堀部村請取、雜ぬ殿依:下知;上坂^部 ... 土肥の八軒衆どて八入の老臣て囬寂天山大居士ど號す、明和八年墓標の松樹枯れしにより、冤政元年八月,醒井释の云々

井村大字醒井小字西阿彌に在りしも、何時しか影を沒し、小字名のみ存す。(坂田郡志)

下屋敷か

 
 
塹壕跡
 
下屋敷の曲郭から詰め城への桝型虎口状の登城路
武者走り土橋か頂部の北尾根の鉄塔下から箕浦・朝妻湊方面 三角点空堀(身隠し土塁/銃座・射て座)は50m以上4

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、坂田郡志

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