城郭探訪

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東野館 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 館跡
東野山館
お城のデータ
 
所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町東野  map:http://yahoo.jp/20J4bD
区 分:居館
現 状:寺院・神社・森林
築城期:鎌倉期
築城者:東野氏
廃城期:織豊期
標 高:
遺 構:法照寺には東野豊前守の墓・説明板
目標地:法照寺・八幡神社
駐車場:八幡神社
訪城日:2015.5.23 
 
お城の概要

東野館は東野山城の西麓、法照寺・八幡神社の南西側付近にあったと云われる。 ちょうどこの辺りから東野山城への登山道もある。 館の遺構はないが、法照寺には東野豊前守の墓が残されている。

歴史

東野氏の居館と云われる。

東野の読みは「とうの」あるいは「ひがしの」ではっきりとしないが、東野山城に合わせてここでは「とうの」とする。(旧東浅井郡浅井町にも東野館があり、こちらは「ひがしの」と)

東野氏は常陸国佐竹氏の一族佐竹行重が伊香郡東野村に封ぜられて、東野豊前守と称したことに始まるという。また一説に東野周防守行一が祖ともいう。

東野氏は浅井氏に従い、滅亡後はその一族が山内一豊に召し出されて土佐へと移った

東野豊前守の墓東野豊前守の墓東野豊前守の墓八幡神社八幡神社
参道法照寺法照寺
 
武家としての東野氏

近江は鎌倉時代より代々佐々木氏が守護職を世襲し、室町時代には佐々木氏信を祖とする京極氏が北近江を、佐々木泰綱を祖とする六角氏が南近江を守護として治めていた。1467年に応仁の乱が始まると、京極持清と六角高頼はそれぞれ東軍と西軍に分かれて互いに争うようになる。この時東野氏は京極氏の配下として、他の北近江の小領主と供に出陣した。東野氏は東野の東方東野山に居城を築き本拠地とした。

 行重の嫡男・周防守行信は、京極氏から余呉庄の地頭に任じられる。1510年、行信は鳥居本での京極高清と六角氏綱の戦いにおいて、磯野員吉・井口宮内らとともに京極方として出陣し戦功を挙げる。その後も京極氏に従い転戦するが、一族から多くの戦死者を出すことになる。

 京極家の実権が浅井亮政に握られると、浅井氏に仕えるようになる。三代目浅井長政が織田信長に敗北する寸前まで浅井を支えたが、1573年に浅井氏が滅亡した後には、東野に戻り閉居した。 『東浅井郡史』によると、東野左馬助政行、千田采女正・西山旦右衛門らは防戦し、浅井久政の自害を助けている。

 東野山にあった居城は、1583年の賤ヶ岳の戦いの際に堀秀政が砦として再構築し、実戦で使用された。現存する遺構も、その当時のものと考えられている。

  行信の長男、左京進秀行は武士をあきらめ、曲直瀬道三に医学を学び余呉中之郷で医業を始める。秀行の長男左京進行是は、一旦は丹羽氏に仕え千二百石を与えられるが、後に浪人すると中之郷に帰り医業を継いだ。

 秀行の次男左馬助行信は、1585年近江国長浜城主となった山内一豊に召抱えられ、三百石を得て再び武士となる。小田原征伐、関ヶ原の戦いに出陣し功をなす。関ヶ原の戦いの後、徳川家康から土佐国一国を与えられた一豊に従い、土佐に移る。そのため、土佐東野と近江東野と、系譜が別れる事になる。行信は七千石を与えられ、伊予守を名乗る。山内氏の重臣のひとりとなり、明治に至るまで代々高知城主の家臣として仕えた。行信の子、幸政は千四百石を与えられ、江戸城や丹波篠山城の普請に関わった。大坂冬の陣には中備えの大将として従軍し功をあげた

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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摺墨越え遺構  近江国(余呉)

2015年05月24日 | 

摺墨越え遺構


摺墨越え遺構の図の踏査図の説明中!講師:長谷川博美氏「城郭研究家」

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町摺墨      map:http://yahoo.jp/egOWHn

築城年:織豊期  天正11年(1583)

築城者:

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・竪堀

現 状:山林

標 高:460m 

目標地:東野山砦

訪城日:2015.5.23

 
林道を今市上砦へ

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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天神山砦 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 
 
  
 
 
現地の縄張図
東郭の西側堀切・土橋

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町国安・天神前   map:http://yahoo.jp/jAjZwc

築城年:織豊期  天正11年(1583)

築城者:羽柴勝豊(大金藤八郎:山路将監正国、木下半右衛門利久)

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・桝形虎口・横堀(塹兵壕)・竪堀

現 状:山林

標 高:210m 比高差:60m

目標地:草岡神社

訪城日:2015.5.24

東郭の虎口

お城の概要

天神山砦は北東へ張り出した丘陵の頂部に築かれており、先端に茶臼山砦がある。

天神山砦は東西二郭を中心とした砦で、西郭の方が高所にあり主郭と見られる。

西郭は南北に長い曲輪を土塁が巡り東側に虎口が開く。虎口は平入で主郭の周りを腰曲輪が巡り、北尾根と南尾根に堀切を設けて遮断する。南はさらに小郭があり、その先は深い自然の鞍部となっている。

東郭は一番良く整備されている曲輪で、土塁で囲まれた曲輪の北側に屈折した虎口が開く。南は深い空堀に土橋が架かり、更に小郭と堀切を経て西郭へ続く。東郭の周囲には腰曲輪が巡り、北に虎口があるが、薮が激しく形状は把握し辛い。

天神山砦の北端部は自然地形の緩斜面であるが、この側面に一部三重となった横堀が巡らされており、見所の一つである。

  中央の鞍部で東と西に分かれる。東西の頂部に土塁と腰郭が廻る郭が設けられ、尾根筋は堀切で防御を固めている。
東の主郭と腰郭の虎口は東側に開かれ外枡形を備えている。腰郭の東15m程の所に三日月状の身隠し(塹兵壕)、その10m先にも浅い横堀と低い土塁があり、これも身隠しと考えられる。さらに東に緩やかに傾斜する郭の先端が二重の身隠し。尾根先の南北に竪堀が設けら、その北東が鞍部を隔てて茶臼山砦となる。主郭の南に数段の段郭がある。
西の郭は西側に鞍部を利用した二ヶ所の堀切を穿ち、堀切間に塹壕状の小郭を設けている。北尾根にも一本堀切が入っている。主郭は繭玉状で土塁が廻る。腰郭にも要所に土塁を設けている。虎口は主郭の南、腰郭の南東に開くが平虎口である。
東西の郭を連絡する犬走りが南側に走っている。
この砦は、羽柴軍の最前線基地で北国街道の通る狭い谷筋から盆地へと地形が最初に変化する所で、柴田軍の南下を押さえる絶好の位置にあり、城域も370m×70mで羽柴軍の陣城中では田上山城に次ぐ大きさを持つ砦で、羽柴軍の戦略上重要な位置を占めた砦でることが分かる。

歴史

 天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際には、前年暮に羽柴秀吉軍に降った長浜城主・柴田勝豊の与力の大金藤八郎や山路将監正国、木下半右衛門利久らに砦を築かせ、丹羽長秀の兵らとともに守備させたが、目前の行市山から林谷山の尾根筋に柴田勝家軍が長期戦に備えた陣を布いたため、天神山砦は高所より圧迫され守備が困難となり、秀吉はこれを放棄し、堂木山・神明山へと最前線を後退させ、東野山砦とともに北国街道封鎖ラインとした。

 前線を下げた秀吉は、大金藤八郎・山路将監正国を神明山に移し木村隼人と同陣させたが、後に浮説により二人を堂木山に移したとされる。東主郭の土塁

羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図

草岡神社より、天神山砦へ
神社の鳥居そばに説明板
木陰で暫し休憩、
素晴らしい城郭遺構天神山城の二カ所の陣城を見学。

 神社の背後が砦。神社の西へ獣害フェンスの扉から遊歩道(城道)を登る

道案内        map:http://yahoo.jp/jAjZwc

 木之本から北に国道365号を6.7km程行った片岡郵便局を過ぎた直ぐの信号で左折する。西に道なりに400m程進むと草岡神社に至る。その裏山が砦跡である。神社付近に駐車し、神殿に向かい左背後の山道を10分程登れば砦跡に着く。神社の鳥居そばに説明板がある。

 

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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今市上砦(久太郎小屋) 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 

久太郎小屋

文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋)
 
小字西陣東陣「今市上砦」、黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている

 
 2015/5/23 前日職員が林道の樹木伐採に奮闘、研修バスは爽やかに新緑の林道を行く。
 
賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦の概略説明
 
天正11年の賤ヶ岳の戦いにおける城塞群の中で、秀吉方の砦の内最も北に位置する最戦線が今市上砦。
天神山砦の東、今市と東野の集落に張り出すようにある尾根の標高420mピークに今市上砦はあり、遺構は三ヶ所に分かれている。
上の砦は尾根のピークにあり18×16m四方の単郭で、北東の土塁は最高3mの高さの物見櫓跡南の尾根先約100mの所に堀切があります。
下の砦は、南西方向に90m尾根を下がった斜面にあります。20×13m全周に土塁の痕跡が見られます。北東と南西の角に虎口があります。
東の土塁の外側の溝状のものは山道で、この尾根の上をふもと近くまで続いています。西20mmの所に堀切があります。
砦に入る前に、事前説明
 
ここから、今市上砦域
 
文献に登場する黒田官兵衛の今市上砦(久太郎小屋=武者小屋=宿所)
 
横堀(塹兵壕)塹壕堀に銃座柳ヶ瀬方面へ

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町今市小字西陣東陣(伊香郡余呉町今市小字西陣東陣)

      map:http://yahoo.jp/c8bJMeこの地図のURL

築城者:堀久太郎

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・桝形虎口・横堀(塹兵壕)・竪堀

現 状:山林

標 高:420m 

目標地:東野館

訪城日:2015.4.23

お城の歴史

文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋跡)
 
小字西陣東陣「今市上砦」に到着、
黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命

歴 史
 
勝家は、大岩山攻撃のはじまる以前の4月5日東野山堀久太郎秀政を攻めたことがある。
そのときの状況を秀政秀吉に報告した下書きが残っている。
 「今朝卯の刻より敵の惣人数押出し、柳ヶ瀬川原口に13段、山上に5段に構え、当佐弥山城(東野山)へ取寄せ柴田と相見え、自身金の五幣をふり責め懸りましたので、拙者も若輩ながら御配下に召し加えられた折でもあり、世間体もあり、自分に似合わず、白い釆を振って下知仕益した。鉄砲どもを入れ替え入れ替え撃たせ敵の手負い数百人ありました故、1~2町引き退きました。いよいよ手前の儀は固く守るよう申し付けました。お気遣いなさらないよう尚相変わったことがありましたら追々申し上げます。」
  己刻 卯月5日   久太郎
 
 
ここで名物賎ヶ岳弁当の昼食、特性弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

                                                                                                                                    

昼食後、今市上砦 郭南の堀切・土橋へ

 

参加者の見学記念撮影

曲郭2へ

山道を東野山館まで下山

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦・勝家の天神山砦

2015年05月24日 | 

事前の予備知識・自習

   本能寺の変後に明智光秀を討った羽柴秀吉は、織田信長の後継者を決める「清州会議」を主導し後継者を信長の嫡孫「三法師」と定めた。 これによって、三男の信孝を推薦した柴田勝家との不和は決定的なものとなった。

天正11年(1583)2月、柴田軍が北近江に侵攻し、勝家は本陣を内中尾城(玄蕃尾城)とし、行市山・林谷山・中谷山・橡谷山・別所山等に陣城を構えた。

一方、秀吉は3月以降、左禰山(東野山)・神明山・堂木山・田上山・賤ケ岳等に陣城を築き対峙した。

羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図

両軍の陣形

4月20日、秀吉が大垣城に入った間隙をぬって、柴田方の佐久間盛政・柴田勝政兄弟が、余呉湖の南、賤ケ岳の麓を通り、中川清秀の守る大岩山砦と岩崎山砦を急襲し清秀は討死する。

 大垣でこの変報を聞いた秀吉は、急遽軍を移動させ、50キロの道程を5時間で走り通し、午後9時には木之本に到着した。「秀吉来る」の報に接した佐久間軍は、退却を始めた。

 21日未明、賤ケ岳切通附近で退却する勝政隊に、秀吉は銃撃を加えて動揺させ、馬廻隊が突撃した。 世にいう「賤ケ岳七本槍」はこの時の事で、勝政隊に大打撃を与えた。

そしてこの敗北で、前田利家が陣地を捨てて敦賀方面に脱出し、柴田軍は全軍が動揺し、秀吉軍が全面攻撃に出たので勝家本隊も敗北、勝家は馬印を毛受庄助に渡し、北ノ庄目指して落ちのびた。

賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦・勝家の天神山見学会

久太郎小屋の銃座柴田方軍(柳ケ瀬方面)へ
天神山城は、一城二郭・・寄り切り
久太郎小屋探索 天神山城見学会
 2015/5/23 前日職員が林道の樹木伐採に奮闘、研修バスは爽やかに新緑の林道を行く。
 
先ず和歌山から来られた方の為に東野山城を特別見学
虎口
次に摺墨越え遺構。
摺墨越え遺構の説明
賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦の概略説明
 
 
 
文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋跡見学)
 
小字西陣東陣「今市上砦」に到着、
黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている

塹壕堀に銃座柳ヶ瀬方面へ
 
勝家は、大岩山攻撃のはじまる以前の4月5日東野山堀久太郎秀政を攻めたことがある。
そのときの状況を秀政秀吉に報告した下書きが残っている。
 「今朝卯の刻より敵の惣人数押出し、柳ヶ瀬川原口に13段、山上に5段に構え、当佐弥山城(東野山)へ取寄せ柴田と相見え、自身金の五幣をふり責め懸りましたので、拙者も若輩ながら御配下に召し加えられた折でもあり、世間体もあり、自分に似合わず、白い釆を振って下知仕益した。鉄砲どもを入れ替え入れ替え撃たせ敵の手負い数百人ありました故、1~2町引き退きました。いよいよ手前の儀は固く守るよう申し付けました。お気遣いなさらないよう尚相変わったことがありましたら追々申し上げます。」
  己刻 卯月5日   久太郎
 
 
ここで名物賎ヶ岳弁当の昼食、特性弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

                                                                                                                                    

昼食後、今市上砦 郭南の堀切・土橋へ

 

参加者の見学記念撮影

曲郭2へ

山道を東野山館まで下山、
東野豊前守の墓八幡神社八幡神社
 
 
 
研修修バスで草岡神社に至り、
木陰で暫し休憩、
素晴らしい城郭遺構天神山城の二カ所の陣城を見学。

 

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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