お城のデータ
所在地:野洲市行畑2丁目9−1http://yahoo.jp/LKFJ7R
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:
現 状:現・野洲高校学校敷地
遺 構:堀痕
目標地:野洲高校学校
訪城日:2015.5.27
お城の概要
行畑館跡は、現在野洲高校の敷地となっており、地籍図にあるような遺構は消滅しています。ただし、集落を囲っていた外堀の西側部分が、古図そのままに現在も水路として残っています。
すぐ北側には旧中山道で、重要な位置にある館と思われますが、伝承などは残っていないため、謎のまま失われてしまった城館といえます。
旧地籍図に堀で囲まれた六角形の小区画があり、城館跡と考えられている。この区画のある小字古里には、天正年間(1573~92)まで行畑の集落があったといわれている。地籍図では古里全体が環濠状の水路に囲まれており、館と集落の外堀の役割を果たしていたものと推測される。
「行畑の現集落は天正年間に移転したものと言われるが、その旧位置とされる小字「古里」(現野洲高等学校)は全体が環濠集落的であり、また、その中には堀と思われる水に囲まれた一画があり、中主町虫生館の場合に類した館跡と考えられる。」
朝鮮人街道
朝鮮人街道とは、滋賀県野洲市行畑で中山道から分岐し、琵琶湖東岸を北上し、彦根市鳥居本で再び中山道に合流する約41kmの街道です。元々琵琶湖舟運の港を繋ぐ、陸路として便利だった道を、信長が幹線道路として整備し、その後、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた家康が凱旋した時に通ったという、めでたい道として、将軍上洛や外交使節の通行の際にのみ使われた。 鎖国時代、唯一の外交関係があった、朝鮮からの外交使節が通ったので、この朝鮮人街道の名前がついた。
朝鮮通信使について
この場合、通信とは情報を交換するという意味ではなく、「信(よしみ)を通ずる」の意味で、親善友好使節団のことである。使節団の一行は正使、副使のほか、軍人、書記、医者、学者、画家、書家、薬師、曲芸師などで編成され、約400人に及んだ。太鼓などを打ち鳴らし、楽器を演奏しながら、曲芸を見せながら華やかに賑やかに、進んだといわれる
参考書:「歴史の道調査報告書 朝鮮人街道 」(滋賀県教育委員会)
行畑の背競地蔵(せくらべじぞう)
814 年、弘法大師が全国行脚の途上、光明皇后とその父藤原不比等の菩提を弔うため、この地を訪れ妙光寺山の大岩壁に不動明王の像を刻まれました。ちょうどそのころ、全国に悪疫(疱瘡ほうそう)が流行し、人々が難渋していたので、悪疫退散の大護摩を焚き、祈願会も勤められました。そのとき、自らの手で大小二体の地蔵菩薩を行合村の三叉路に建立されたといわれています。
三上の郷には日陽山、東光寺があり、毎年勅旨、院使が参向していました。中山道と別れてお成り街道ともいえる参道にかかるこの三叉路で、勅旨の一
行は行列を整え、勢揃いするのを例としたので、これにちなんで「勢揃(ぜぞろえ)地蔵」と呼んでいました。ところが、この地蔵があまりにも大きいので、近郷の親たちが「我が子もこの地蔵くらいになれば一人前だ」と背競べをさせるようになり、いつの間にか「背競地蔵」と呼ばれるようになったようです。
●「造り物」はどうして「一式」にこだわるの?
地蔵祭りに華を添えるのは造り物です。 1635 年、徳川家光が実施した参勤交代で中山道は人馬の往来が頻繁になり、人々が近くの村から街道沿いに移り住むようになりました。
住民のほとんどは農民であり、7 月の祭の頃は田植えや草刈りを終え、骨休みのくつろぎと農(みのり)への感謝から農具を用いてめでたいものを作る
ことを考えたようです。最初は農具一式の造り物を参詣の人たちに見せた娯楽だったものが、時代を経て、材料も仏具や婚礼用品、スポーツ用具など幅が広がりました。ただし、用途を同じくするもの、あるいは材質を同じくするものという「一式」のこだわりは今も受け継がれています。※《参考》愛宕地蔵祭り造り物保存会資料
参考資料1 滋賀県中世城郭分布調査 3 (旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城
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