城郭探訪

yamaziro

行畑(ゆきはた)館 近江国(野洲)

2015年05月28日 | 館跡

お城のデータ

所在地:野洲市行畑2丁目9−1http://yahoo.jp/LKFJ7R

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:

現 状:現・野洲高校学校敷地

遺 構:堀痕

目標地:野洲高校学校

訪城日:2015.5.27

お城の概要

 行畑館跡は、現在野洲高校の敷地となっており、地籍図にあるような遺構は消滅しています。ただし、集落を囲っていた外堀の西側部分が、古図そのままに現在も水路として残っています。

すぐ北側には旧中山道で、重要な位置にある館と思われますが、伝承などは残っていないため、謎のまま失われてしまった城館といえます。

旧地籍図に堀で囲まれた六角形の小区画があり、城館跡と考えられている。この区画のある小字古里には、天正年間(1573~92)まで行畑の集落があったといわれている。地籍図では古里全体が環濠状の水路に囲まれており、館と集落の外堀の役割を果たしていたものと推測される。

 「行畑の現集落は天正年間に移転したものと言われるが、その旧位置とされる小字「古里」(現野洲高等学校)は全体が環濠集落的であり、また、その中には堀と思われる水に囲まれた一画があり、中主町虫生館の場合に類した館跡と考えられる。」

朝鮮人街道
  朝鮮人街道とは、滋賀県野洲市行畑で中山道から分岐し、琵琶湖東岸を北上し、彦根市鳥居本で再び中山道に合流する約41kmの街道です。元々琵琶湖舟運の港を繋ぐ、陸路として便利だった道を、信長が幹線道路として整備し、その後、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた家康が凱旋した時に通ったという、めでたい道として、将軍上洛や外交使節の通行の際にのみ使われた。 鎖国時代、唯一の外交関係があった、朝鮮からの外交使節が通ったので、この朝鮮人街道の名前がついた。


   朝鮮通信使について
   この場合、通信とは情報を交換するという意味ではなく、「信(よしみ)を通ずる」の意味で、親善友好使節団のことである。使節団の一行は正使、副使のほか、軍人、書記、医者、学者、画家、書家、薬師、曲芸師などで編成され、約400人に及んだ。太鼓などを打ち鳴らし、楽器を演奏しながら、曲芸を見せながら華やかに賑やかに、進んだといわれる          

参考書:「歴史の道調査報告書 朝鮮人街道 」(滋賀県教育委員会)   

 行畑の背競地蔵(せくらべじぞう)
814 年、弘法大師が全国行脚の途上、光明皇后とその父藤原不比等の菩提を弔うため、この地を訪れ妙光寺山の大岩壁に不動明王の像を刻まれました。ちょうどそのころ、全国に悪疫(疱瘡ほうそう)が流行し、人々が難渋していたので、悪疫退散の大護摩を焚き、祈願会も勤められました。そのとき、自らの手で大小二体の地蔵菩薩を行合村の三叉路に建立されたといわれています。
三上の郷には日陽山、東光寺があり、毎年勅旨、院使が参向していました。中山道と別れてお成り街道ともいえる参道にかかるこの三叉路で、勅旨の一
行は行列を整え、勢揃いするのを例としたので、これにちなんで「勢揃(ぜぞろえ)地蔵」と呼んでいました。ところが、この地蔵があまりにも大きいので、近郷の親たちが「我が子もこの地蔵くらいになれば一人前だ」と背競べをさせるようになり、いつの間にか「背競地蔵」と呼ばれるようになったようです。

●「造り物」はどうして「一式」にこだわるの?
地蔵祭りに華を添えるのは造り物です。                                                                                       1635 年、徳川家光が実施した参勤交代で中山道は人馬の往来が頻繁になり、人々が近くの村から街道沿いに移り住むようになりました。
 住民のほとんどは農民であり、7 月の祭の頃は田植えや草刈りを終え、骨休みのくつろぎと農(みのり)への感謝から農具を用いてめでたいものを作る
ことを考えたようです。最初は農具一式の造り物を参詣の人たちに見せた娯楽だったものが、時代を経て、材料も仏具や婚礼用品、スポーツ用具など幅が広がりました。ただし、用途を同じくするもの、あるいは材質を同じくするものという「一式」のこだわりは今も受け継がれています。※《参考》愛宕地蔵祭り造り物保存会資料

 

 参考資料1 滋賀県中世城郭分布調査 3 (旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


長束氏館(大蔵屋敷) 近江国(草津)

2015年05月28日 | 館跡

  

お城のデータ

所在地:草津市長束町大蔵 map:http://yahoo.jp/e4HMZl

区 分:居館

築城期:平安期

築城者:水口盛里(長束盛里)

現 状:竹林・農地・宅地

遺 構:竹林に土塁・堀跡(用水路)、菩提寺

目 標:長束町の春日神社・養国院

訪城日:2015.5.27

お城の概要・歴史

豊臣政権五奉行の一人・長束正家の生家、居館。

正家の父である水口盛里が長束村に移住して館を構え、長束氏を名乗った。

長束集落内の「春日神社を中心とした発掘調査で土塁や柱穴が確認され、この地に館があったと推測されている」。

「長束」の地名は長束一族が平安時代、比叡山の領地を束ねる長だったことが由来とのこと。

今もこの地に7、8軒の長束姓があります。

今、「長束老人憩いの家」として使用されている場所は、長束正家を弔うために建立された養国院があったといわれ、阿弥陀如来と長束正家の母(または息女)の位牌のみが残り、現在も地元の七人衆と呼ばれる人たちが守っています。

「長束大蔵大輔正家候菩提所」と刻まれた石碑が門の脇にあるのは来迎員阿弥陀寺、正家の位牌があると伝えられ、昔は300坪の大蔵屋敷があったとか。今では無住となった寺と「大蔵」という小字名だけに名残をとどめています。

 この地の出身である長束正家は算術に優れ、秀吉五奉行の一人として活躍しました。太閤検地や朝鮮出兵の食料の手配・大阪城や聚楽第の資材管理・経理など事務方としての才能を発揮し、大蔵大輔まで務めた武将でしたが、関ヶ原の戦いで西軍につき追われました。

 正家が密かに秀吉をまつったとされる春日神社には木造の秀吉像があるといわれています。小さな神社ですが地元では「天神さん」と呼ばれ、2~3年に一度サンヤレ踊りが奉納されます。

1502年に作られたという古い獅子頭は市の指定文化財で祭りなどの際に見ることができます。

長束正家

【生誕から五奉行と呼ばれるまで】

1562年:水口盛里の長男として近江国 長束村で生まれます。最初は丹羽長秀に仕えていましたが秀吉に仕えてからは、秀吉の蔵入地管理、太閤検地の実施などで手腕を発揮します。小田原討伐では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍します。朝鮮出兵の際も兵糧奉行として活躍し1595年近江水口城5万石を拝領し五奉行の末席に名を連ねます。

【秀吉亡き後の正家の人生】

 関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、本戦に参加できず、西軍が壊滅後は捕らえられて切腹させられます。

【大蔵屋敷のあった春日神社】


 「長束大蔵大輔正家候菩提所」と刻まれた石碑が門の脇にあるのは阿弥陀寺です。正家の位牌があると伝えられ、昔は300坪の大蔵屋敷があったとか。今では無住となった寺と「大蔵」という小字名だけに名残をとどめています。

長束正家(なつか・まさいえ) 1562~1600

 豊臣家臣。近江国栗太郡常盤村の出身。通称は新三郎・利兵衛。大蔵大輔・従四位下・侍従。
若くして算術に長じ、丹羽長秀・長重に仕えて財政処理に敏腕を振るっていたが、これを聞いた羽柴秀吉が長秀没後の天正13年(1585)頃に1万石で召抱え、貢租会計を管掌させた。この頃に従五位下・大蔵大輔に叙任。豊臣政権五奉行の一人でもある。
紀伊征伐・九州征伐・小田原征伐などの大掛かりな戦役においては、兵糧奉行として裏方から秀吉の軍事行動を支えた。朝鮮の役には糧食の輸送に活躍した。

天正19年(1591)閏1月には増田長盛らと共に近江国の検地を実施した。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役では肥前国名護屋城に駐屯。
文禄3年(1594)の伏見城工事を分担している。
文禄4年(1595)6月に近江国水口城主5万石となり、のちには12万石に加増された。
慶長3年(1598)、越前国の検地を実施。
秀吉の死後は徳川家康に近づき、石田三成の暗殺計画を知らせたりしたが結局は三成に味方し、東下中の家康を居城の水口で謀殺しようと目論むも失敗する。
関ヶ原の役では西軍勢力として伊勢口を固めて、伊勢国安濃津城を攻めた(安濃津城の戦い)。15日の関ヶ原の合戦では南宮山に布陣したが、吉川広家に遮られて帰城。10月3日(月日に異説あり)、池田長吉に欺かれて出城し、近江国佐久良谷で自刃した。法名は大心院殿速成居士。

集落には、堀痕(区画整備・圃場整備で改変されるが)が残る。

竹林の土塁

土塁遺構の残る竹林(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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