光秀の坂本城、軍港備え威容誇る 大津に江戸期の絵地図・・・京都新聞
「字城屋敷」と書かれた江戸時代の絵地図。東南寺も屋根が描かれている(叡山文庫所蔵)
戦国武将明智光秀が湖岸に築いた坂本城について、大津市の郷土史家が、発掘調査では分かっていない城主の住まいや軍港の位置、内堀の長さなどについて、独自の研究結果を冊子にまとめた。
調査のなかで、坂本城の本丸跡一帯が江戸時代に「城屋敷」と呼ばれたことを示す絵地図を発見した。・・・・大津市教委文化財保護課は「貴重な資料となりうる」と話している。
大津市唐崎3丁目の松野孝一さん(74)。坂本城は、戦国時代に各地を見聞した宣教師ルイス・フロイスが「豪壮華麗」と書き残しており、たびたび茶会が催されるなど風光明媚(めいび)な城だったことが文献で分かっている。
しかし短命だった上、発掘調査も進んでいないため、本丸や内堀の一部が部分的に分かっているだけで、多くは謎に包まれている。松野さんは、大津市坂本の叡山文庫所蔵の資料や地元住民が保管していた古地図、神社の由緒書など幅広く資料を集め、現在の地名や地形と照らし合わせて、城造営の歴史や光秀の事業を検証した。
調査中に松野さんが発見したのが、叡山文庫所蔵の絵地図「東南寺付近城屋敷領地域図」。
廃城後の江戸時代に書かれた地図で、本丸跡から西に約60メートルの東南寺までの「字(あざ)城屋敷」の土地所有者が書かれている。
日吉大社の関係者の名前が見られるのが、「山王(日吉大社の意)の土地に新城普請なり」と書かれた1572(元亀3)年の文献とも合致するため、松野さんは「ここに光秀の屋敷もあったのでは」と考えた。
また、松野さんは、現在は山王祭の船渡御が出る七本柳の浜(下阪本1丁目)が築城当時もあったことを確認。光秀は浜を軍港として活用、二の丸と三の丸を分ける内堀は総延長約780メートルに及んだと結論づけた。
坂本城発掘に携わった同文化財保護課の吉水眞彦さんは「字城と書かれた明治時代の地図はあるが、字城屋敷の表記は初めて見た」と話した。
松野さんは「光秀の屋敷や軍港が分かってきたので、坂本城の威容が色づいて見えてきた」と話している。
調査を機に、松野さんのガイドで周辺を歩くイベント「明智光秀の屋敷跡を歩く」が5月30日に開かれた。松野さんTEL077(579)5464へ。
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝