城郭探訪

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彦根城外堀の土塁見つかる 市内唯一・・・・(滋賀彦根新聞2015.5.20)

2015年05月09日 | 平城

彦根城外堀の土塁見つかる 市内唯一・・・・(滋賀彦根新聞2015.5.20)

 彦根市中央町に残る彦根城の外堀の発掘調査が行われており、江戸時代と見られる土塁が見つかった。23日午後1時半~現地説明会がある。
 彦根城の外堀は彦根城の防御施設として、築城後の元和(げんな)元年(1615)以降に芹川(当時は善利川)の支流を使って彦根藩単独で整備が始まり、中堀の整備を終えた同8年以降に完成。
旧松原内湖から彦根城を囲み同内湖に戻る総延長約3・4㌔の長さで、堀の城内側には土塁が築かれた。
外堀沿いには切通(きりとおし)口、油懸口、高宮口、池洲口、中薮口、長曽根口、松原口に門が設けられ、通行人の監視が行われていた。
また外堀近くには寺院が点在していて、戦時には彦根城を防御する軍事拠点として使われる予定だったとされる。
 
 
 外堀はマラリア対策として昭和20年代後半までに埋められ、土塁が現存するのは中央町のみ。堀を埋める際に市道を除く部分に土塁が使われた。中央町のみ残っているのは、旧外堀が近くの銭湯(山の湯)の敷地内の池として活用されたため、その場所のみ土塁が使われずに残ったという。
 
 中央町のほか、土塁の基底部分が長曽根口や蓮華寺(中央町)裏手、圓常寺(城町)の竹薮に残っている。
 
中央町の土塁の大きさは、高さが城内側で5・5㍍、城外側で6㍍以上、南北の幅が23㍍、東西の幅が底辺18㍍・上部4㍍の台形型。防御面から城内側と比べて城外側の斜面が急になっている。
 市教委文化財課は昨年3月末までに測量調査を終え、4月16日から土塁の上に堆積した腐葉土の除去作業をしている。
 
問い合わせは文化財課☎0749(26)5833
 

滋賀・彦根城外堀の土塁確認 23メートル原形とどめる

現存する彦根城外堀の土塁。右上から左奥に向かって23メートルが原形をとどめていることが確認された。左のテントは堀があった場所(彦根市中央町)京都新聞

 滋賀県彦根市中央町の彦根城外堀跡で現地調査を進めている彦根市教委は20日までに、外堀の土塁が23メートルにわたり原形をとどめていることを確認した。市教委文化財課は「城の外堀の土塁がそのまま残る例は全国的にも珍しい」としている。

 外堀は1615(元和元)年の彦根城第2期工事で建設され、総延長は3・4キロあった。戦後に、蚊の発生を抑え、マラリアの流行を防ぐ目的で埋められた。埋め立ては堀の内側(城郭側)を囲んでいた土塁の土砂を利用したため、土塁はほぼ姿を消したとされていた。

 

今回調査対象となったのは、銭湯「山の湯」の敷地内で、庭園築山として長年使われていた。台形の丘に見えることから地元では「山」と呼ばれており、外堀の土塁であったことは市内でもほとんど知られていなかった。

 市教委は4月から調査を実施。外堀の土塁の高さは内側が5・5メートル、外側は6~7メートル。台形の上部幅は4メートル、基底幅は18メートルあることも確認した。堀の幅は約16メートルで、文書史料の記述や絵図とも一致している、という。市教委の下高大輔主任は「断面から9層になっていることも確認でき、外堀の構造を知る上で貴重な遺構だ」と話す。

 市教委は今後、外堀の文化的価値を証明し、どのような保存方法があるか検討する方針。

山の湯 〒522-0063 滋賀県彦根市中央町7−33

問い合わせは市文化財課TEL0749(26)5833。

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井口氏城  近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月09日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地 :甲賀市(旧:甲賀郡)甲南町上馬杉字西出 map:http://yahoo.jp/4riuvv

区 分:丘陵城

現 状:山林

築城年 :

築城者:井口氏

遺 構:土塁、堀切、竪堀、櫓台、虎口

標 高:220m    比高:20m

目標地:上馬杉の油日神社 

駐車場:路上駐車

訪城日:2015.5.8

県道脇の空スペース駐車、城址の北側麓を50m進む

 張り出した木の下から、城道ある

お城の概要

井口氏城・・・・は、甲南町上馬杉集落の北西端に位置し、南西にのびる尾根先端部を削平して土塁を残し、南西と北端の桝型虎口(開口部)がある。構造は、甲賀に一般的な四囲に土塁がめぐる単郭方形であるが、特異なのが北東面の土塁が方形土壇状を呈し、その天端が南東側を除き「コ」の字状に土塁が付いた小郭があるが、一辺が2mにも満たない狭い土塁の囲いの烽火台となっていることである

 背後の丘陵続きは鋭い堀切で遮断し、さらに30m程奥にもう一条の堀切を設けている。開口部は、南西面中央と北西隅にあり、虎口とされる。なお、南西虎口の外側は大きく掘削され、麓への通路は失われている。

この城は、規模は小さいものの遺構に鋭さが残っており、見応えがある。

虎口

主郭上部狼煙台(動画を撮った為)の写真はこれだけ・・・。

主郭に背後大堀切

お城の歴史

在地土豪の馬杉氏に関係する城か。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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栢ノ木(かやのき)城 近江国(甲賀・上馬杉)

2015年05月09日 | 丘陵城

伊賀国の藤林長門守城の支城

主郭は方形で土塁で囲う 

お城のデータ

所在地 : 甲賀市(旧:甲賀郡)甲南町上馬杉字栢ノ木    map:http://yahoo.jp/4_-2SC

築城年:室町期

築城者:伊賀国・藤林長門守

区 分:丘陵城

遺  構:土塁・堀切・虎口・堀(池)

城 主:伊賀国・藤林長門守

標 高:265m   比高差:20m

目標地:伊賀・阿山 正覚寺・東湯船コミニュケーションセンター

駐車場:農道

訪城日:2015.5.8

農道を東に進み、突き当りを北へ獣害フェンスから、栢ノ木城(フェンス内は作付け放棄地)のあぜ道を登り口まで

お城の概要

栢ノ木城・・・・は、上馬杉の南東端に所在し、近江と伊賀の境で、300m東は伊賀の阿山の藤林長門守城。

甲賀・伊賀で一般的な構造をした城で、栢ノ木の小盆地の東側に南西に張出した尾根の先端に築かれ、同盆地を抑える役割を担っていたと推測されている。

 構造は、先端の頂部に四方を土塁を残し掘り込んだ主郭を置き、北西にのびる支尾根に二段の段郭を付帯させている。

主郭内側に櫓台状の土塁を築き北東の尾根続きは堀切aで遮断し、防衛ラインとしている。北東下に曲郭1・2を配置。

北側は、城下は堀(池)、南側は切岸状である。

藤林長門守城の出城・支城の感じである

主郭動画 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074?fref=photo

堀(池)

駐車位置から遠望

道案内・

栢ノ木城・・・・甲賀市高嶺から、三重県に入り、県道51号線の最初の右折路を西に登りの農道へ左折し、50m程入ると広々した農地が広がっている。その先30m程行き駐車する。北北東に60m程の丘陵(比高20m)先端部が城跡である。

歴 史

栢ノ木城・・・・は、構えから伊賀国の藤林長門守城の支城と考えられているが、詳細は不明である。
藤林氏は伊賀の上忍であったようです。藤山氏、服部氏は土豪であり、共に天正九年(1581年)の天正伊賀の乱では雨乞山に立て篭もったようです。

藤林長門守城碑」前から遠望

藤林 長門守 (ふじばやし ながとのかみ、生没年不詳)は、戦国時代の忍者。

 伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していた。

 甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたとされる。服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。本名は正保、保豊など曖昧。

 伊賀流の頭目という立場でありながら記録はほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれている。第二次天正伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏ともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波と同一人物とする説もある。『藤林家由緒書』には今川義元に雇われていた際、武田信玄の軍師山本勘助に忍術を教えたという記録が残っている。

長門守の子孫、藤林佐武次保武が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。

また現在、湯船郷には藤林姓が見られることから、これらの氏族は子孫の可能性が高い。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、Wikipedia

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