城郭探訪

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箕浦氏館 近江国(山東・柏原)

2015年05月14日 | 館跡

お城のデータ

所在地 : 米原市(旧・坂田郡山東町)柏原字今川    map:http://yahoo.jp/PuM5Kl

別 名:柏原代官所

区 分:居館

築城期:室町時代初期

築城者:箕浦次郎左衛門

城 主:箕浦次郎左衛門・箕浦次郎左衛門

遺 構:井戸・説明板

目標地:柏原宿歴史館

駐車場:柏原宿歴史館の駐車場

訪城日 :2105.5.14

お城の概要

  箕浦氏館は、街道警備が役割とされ、中山道沿いの柏原宿歴史館と向かいあった位置に存し、間口、奥行きとも約100mで四囲に堀、土塁、石垣をめぐらし、本丸、二の丸の構えがあったとされる。
昭和33年まで跡地には柏原小学校があり、四囲に石垣が残っていたようであるが、現在は消失し古井戸が残るのみとなっている。

 箕浦氏館は、街道警備が役割とされ、中山道沿いの柏原宿歴史館と向かいあった位置に存し、間口、奥行きとも約100mで四囲に堀、土塁、石垣をめぐらし、本丸、二の丸の構えがあったとされる。
昭和33年まで跡地には柏原小学校があり、四囲に石垣が残っていたようであるが、現在は消失し古井戸が残るのみとなっている。

お城の歴史

 箕浦氏館は、京極道誉が中山道監視のために、その将である箕浦次郎左衛門を置いた所である。

箕浦氏は、京極氏の重臣で、近江源氏山本判官義定の孫・義明が東山道と北陸道の分岐する要衝の地である箕浦庄に移り、箕浦冠者義明と称したことに始まる。

箕浦次郎左衛門は、その子孫で、爾来、江戸期の慶安年間(1648~52)に安芸国・浅野家に仕え当地を離れるまで、柏原に在住した。

『江源武鑑』に・・・

元亀元年(庚午) 永禄十三年を改めて元亀と号す

三月」十日 浅井下野守祐政と箕浦次郎左衛門が知行地の境界について争論を起こし、本日両者が観音寺城にて対決する。箕浦の方に非が認められ、争論の山五ヶ所が浅井に与えられる。箕浦は父祖の忠功を申し上げて非を利に変えようと荒言したため屋形の思し召しが悪くなり勘気を蒙る。・・・・

『太平記巻第三十八』に・・・・

和田楠与箕浦次郎左衛門軍事 
此比摂津国の守護をば、佐々木佐渡判官入道々誉が持たりければ、其身は京都に有乍ら、箕浦次郎左衛門に勢百四五十騎付て、国の守護代にぞ置たりける。催促の国人取合て、其勢僅に五百余騎、神崎の橋二三間焼落て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃を汰て待懸たり。和田・楠態敵を忻ん為に、神崎の橋爪と株瀬と二箇所に打向て引へたれば、此を渡させじと、箕浦弥次郎・同四郎左衛門・塩冶六郎左衛門・多賀将監・後藤木村兵庫允泰則以下五十余騎は株瀬へ馳向ふ。守護代箕浦次郎左衛門・伊丹大和守・河原林弾正左衛門・芥河右馬允・中白一揆三百余騎は神崎橋爪へ打臨む。橋桁は元来焼落したり、株瀬は水深し。・・・・云々

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・現地説明板

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


猪鼻城(河内城) 近江国(山東)

2015年05月14日 | 戦国山城

京極氏の隠れ城


 

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡山東町)梓河内     map:http://yahoo.jp/uo9zYA

別 称:河内城

区 分:山城

標 高:355m 比高:155m

現 状:山林

遺 構:郭・塹壕空堀(城道)・碑

築城期:鎌倉期

築城者:京極氏

修築者:京極高慶が箕浦城主今井定清

城 守:石田為久(京極氏被官)、梓河内の山上の猪鼻城の城守。

城 域:650m×210m

駐車場:登り口の空地

目標地:河内八幡神社

訪城日:2015.5.14

 梓川を右折、林道口に駐車林道口~支流の橋渡り

お城の概

河内集落の最奥部、梓川の合流点背後位置し、比高約150mの急峻な山容と東西両側面を深い谷川で守られた要害地形だ東西650m・南北210mの広大な、江北随一の城郭。

 主郭・城跡碑のある東の頂部、その北側下に広い削平地があり、さらに西側下、北西下に広い削平地。あるいは段郭があり、70を超える曲郭が残存する

曲郭・敷石の残る。城道には、削岩出来ず巨岩が残る九曲り塹壕空堀道(堀底道)が続く、虎口を兼ねた

尾根先端から始まる塹壕(堀底道)道も碑のある平坦地の西下を越えると長い土橋状を越え、再び塹壕道となって、中尾林道に突き当たります。

集落から、比高約150mの急峻な山容と東西両側面を深い谷川で守られた要害地形に、東西650m・南北210mの広大な、城底道はに立派で、京極の隠れ城。山上御殿に70余の曲郭群・・・兵糧はと想像・心配します。

塹壕空堀・・・堀底道を登る

削岩の矢穴の後の残る巨岩

主郭の城跡 猪鼻城碑 東に伸びる土橋状の武者走りか

曲郭の敷石 

 

歴 史

 日本城郭体系によると、柏原城に近く「京極氏の隠れ城」という。柏原城は1358年(正平8年)頃に京極道譽が居住していたされる。(1336年(建武3年)の強豪氏の祖である氏信が築城したとされる大平寺館は焼失後)。

柏原城は京極氏塁代の中で強大勢力を誇る道譽に、清瀧寺がそれにあたるか。付近にこれがだけ巨大な城郭が構築する勢力は散在しなかった。或いは、街道より奥まった谷頭に立地条件等する勘案すると、京極氏の詰め城として築城か?

『定本日本城郭事典』によりますと、所在地は「坂田郡山東町梓河内」、猪鼻城・別称は「梓河内城」、形式は「山城」です。

 城の歴史は「京極氏十二代高清の後見人をめぐって黒田政光と京極政経が対立、家臣も二派に分かれて相争った時、争乱を避けるべく一族が隠棲の地として築城したとか、また、それ以前に築かれていたが、多年の間、秘密にされ、文書、記録に現われなかったともいわれる。このため、京極氏の隠れ城との異名がある。

 ともあれ、政経派が勢を得、政光派が衰える過程に登場してくる。浅井氏が湖北に戦国大名としての歩みを進め、反対に京極氏が衰微する頃、ここに拠った京極高慶が箕浦城主今井定清に城修築の人夫を求めている。

 城址は京極邸址、馬駆け場に続いて石田氏邸がある。石田氏はここを本拠として河内城の守りについていた。が後年の石田三成との関係は明らかでないが石田家の祖でしょう。

しかし、元亀二年(一五七一)磯野員昌の佐和山城衆中に石田仁兵衛が梓の住人として知られる。また、梓は近江から美濃への通路で、関所が設けられていた。とあります。

道案内

 国道21号線の、梓河内の信号で国道21号線「梓河内」信号に!

南に、すぐに名神高速のガードをくぐり集落に奥へ。ガードより1.7km先集落の一番奥、梓川の右手に中尾林道の入口があり、支流を渡り「霊仙山登山口」があり、霊仙山登山道を5分も登ると城跡の案内板があり、右手に登ります。比高20mほど登ると、不明瞭になるが、尾根に目指し獣道(先輩見学者の登城路)のような急坂を直登する。

 尾根付近でまた道が現れ、岩場の九曲り塹壕掘の城道を尾根まで登ります。途中、岩場の虎口に見える箇所、石段の痕跡に見える箇所がある。尾根から塹壕道をどんどん登ります。壕(掘底道)道が終わり長い土橋になる箇所の左上に碑があります。 
林道入り口手前の空地に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia・レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

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