北(上)が馬杉城・・尾根続きの南(下)馬杉支城
お城のデータ
所在地:甲南町上馬杉字針間、南谷 map:http://yahoo.jp/ywJFd1
区 分:丘陵
築城年:室町期
築城者:馬杉氏
遺 構:土塁、堀切、
標 高:230m 比高差:30m
目標地:油日神社・誓蓮寺・上馬杉草ノ根ハウス
駐車場:上馬杉草ノ根ハウス
訪城日:2015.5.5
東側の民家の斜面を城址へ
東側鞍部土塁・・・西側15m下が主曲郭か
中央部の浅堀切
曲郭の最北部
墓地も城域であったか?・・誓蓮寺の南の墓地山からも、堀切?(城道?)馬杉城へ入れます。
民家へ
民家の北側土塁
民家の東側土塁
お城の概要
この上馬杉地区だけで7つの城館があります。
甲賀でも伊賀に近い馬杉地区は、伊賀と同じように一族郎党がこぞってその地域を支配していた。
7つの城の方形単郭の城が守っている中の、根拠には『馬杉本城』が東丘陵に築かれている。
誓蓮寺の東の民家は土塁で囲われいた(曲郭跡か)
馬杉城・・・・は、甲南町上馬杉集落の西端に南西側丘陵から北東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれている。
構造は、主郭とその南東側に二段の帯郭が取り巻いている。主郭の南西面には、高さ約4mの削り残しの高い土塁が、北東面にも低い土塁が残っている。
南西面の土塁は、高さも高く、天端巾も広く、櫓台に使用されたと思われる。なお、南西側は道路敷設で大きく削り取られ、堀切は失われている。北東面の土塁の両端は、削り均されているようで、虎口などは不明となっている。
誓蓮寺から馬杉城を見上げる
歴 史
馬杉城・・・・は、詳細不明であるが、在地土豪の馬杉氏の一族の城か。
『甲賀郡志』に「六角氏白旗隊馬杉丹後守の築く所にして、元亀年間同氏の衰亡と共に遂に廃墟となる。」と記されている。
馬杉(椙)氏は近江国甲賀郡の土豪で、馬杉丹後守は六角氏に仕え、元亀年間に衰亡しました(「甲賀郡志」下巻第17編第35節)。
馬椙秀昌は馬杉氏の一族と考えられます。
伊賀・甲賀衆は託された本来迎図を何処へ持っていったのでしょうか。それは不明ですが伊賀・伊勢国で皇室と深い関係をもつ寺院に持ち込まれた可能性が大です。
何故ならば本来迎図は比叡山安楽谷の勅封蔵に保管されていた旨の本図裏書の記述があります。また甲賀衆の山中氏は鈴鹿盗賊追捕使に補任され、伊勢神宮柏木御厨(近江)の保司職を得た。
時代をさかのぼれば建武年間、山中氏惣領実秀は伊勢に移住(「山中文書」二のル「水口町志」下巻史料編)しており、山中氏は伊勢にも所領などの勢力基盤をもっていたことを示しています。
馬杉支城・・・馬杉城(遠望・・・馬杉中城登り口より)
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城
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